冬の光

 

 

 

天界の秘義34[]

 

愛のない信仰の生命は、何物も成長しないで、凡ての物が麻痺し、死んでしまう冬の時のよう熱の無い太陽の光に似ているが、それに反し愛から発した信仰は、太陽の実を結ばせる熱のために凡ての物が成長し、繁茂する春の時の太陽の光に似ている。霊的な天界的なものも正確に類似しており、それは普通聖言では世と地との面に在る物により表象されている。主がマルコ伝で代の終末[終結]を予告されている所では、無信仰と愛の無い信仰もまた主により冬にたとえられている―

 

あなたたちの逃げることが冬起らないように祈りなさい、その日は苦悶の日であるからである(マルコ13・18,19)。

 

『逃げること』は最後の時を、また人各々が死ぬ最後の時は意味している。『冬』は愛の欠如した生命であり、『苦悶の日』は他生における人間の悲惨な状態である。 

 

 

 

天界の秘義2682[2]

 

 この節には改良されつつある者たちの第二の状態がとり扱われていて、それは、彼らが真理を些かも知らなくなるほどにも無知に陥り、しかもそれが絶望にさえも至るという状態である。彼らがこのような無知に陥る原因は、説得させる光が消滅するためであり―その光は真理を明るくすると等しく、誤謬をも明るくし、真理によって誤謬を信じ込ませ、また誤謬により真理を信じ込ませると同時に自分自身を信頼するといった性質を持っているのであるが―また彼らが善のいかようなものも、また真理のいかようなものも自己または人間自身のものではなくて、主から発しているという事実を知るように経験そのものによって導かれるためなのである。改良されつつある者たちは絶望するまでも無知に陥るが、そのとき以下の記事から明白であるように、慰安と照示[明るくされること]を得るのである。なぜなら主から発した真理の光は人間自身のものから発している説得的なものの中へは流れ入ることは出来ないからである。なぜならこれは[人間自身のものから発している説得的なものは]その光を消滅させる性質をもっているからである。他生では説得的なものは冬の光のように見えるが、しかし天界の光が近づくと、かの光に代わって暗黒が現われ、その中にはあらゆる真理に対する無知が存在しているのである。改良されつつある者にあってはこの状態は真理が荒れすさんでいる状態と呼ばれていて、これもまた聖言の内意に多く取扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義3412[3]

 

 このようにして仁慈から離れ去った者らは自らをまた知恵と理知からも遠ざけたのである、なぜなら真理はことごとく善から発し、善を注視しているため、たれ一人善の中に、即ち、仁慈の中にいない限り、真理の方面でも賢くも、また理知的でもありえないのであり、それで善を欠いた者は真理を理解することは出来ず、またそれを知ろうと欲しさえもしないからである。他生では、このような人物が天界から遠く離れていると、時折彼らのもとに雪明りのようなものが現れるが、しかしこの光は熱を欠いているため、何の実も生まない冬の光のようなものであり、それでこのような人物が天界へ近づくと、その光は暗黒そのものに変わってしまい、その心もそれに似たものに、即ち、知覚麻痺の状態に投げ込まれてしまうのである。この凡てから単なる知識の記憶知の中にいる者らは神的なものから発している内的真理を知ろうとはしないで、それを抹消してしまったという所説により意味されていることを今や認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義4180[3]

 

もし人間が春または夏のようであるなら、彼は愛と仁慈との善を受け入れて、実を結ぶが、しかし明らかに冬のようであるなら、愛と仁慈との善を受け入れないし、従って実を結びはしないのである。それでも彼は依然光を受けることが出来るのであり、即ち、信仰または真理の事柄を知ることが出来るのである。冬の光にはそれに類似した効果がある、なぜならそれは夏の光のように色彩と美とを現出させて、それに人目を引きつけさせはするが、しかしその中には熱がなく、そこから生かすことが出来ないため、内部へ浸透はしないという相違があるのである。

 

 

 

天界の秘義5232

 

それは光は輝いてはいるが、熱がないため、万物が活力を欠いてしまう冬の状態のようなものではないか。これが信仰のみの中にいるが、愛の善の中にはいない人間の状態である。彼は寒冷と暗黒の中におり、即ち、彼は善に対立しているため、寒冷の中におり、そのことによって真理に対立しているため、暗黒の中にいるのである、なぜなら善に対立している者はいかほど自分は真理に対立してはいないと自分自身には思われはしても、また真理に対立するからである、なぜなら一方のものは他方のものを自分の側に引き寄せるからである。彼の状態は死後そのようになるのである。

 

 

 

天界の秘義6405

 

この間の実情は太陽の光のそれに似ており、太陽の光は植物界の主体である木や植物や花へ熱を通して流れ入って、それらを成長させ、また花を咲かせはするが、しかし直接には流れ入らないのである、なぜなら冬の光のように、光が熱なしに流れ入る時は、何ものも成長はしないし、花も咲かないからである。