二人または三人がわたしの名によって集まるところには

マタイ18・20

 

証人

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

民数記35・30

 

人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。しかし、一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない。

 

 

 

申命記17・6

 

死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。

 

 

 

申命記19・15

 

いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。

 

 

 

マタイ18・15−17

 

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 

 

 

マタイ18・18−20

 

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 

 

 

ヨハネ8・17

 

あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。

 

 

 

コリント2・13・1

 

わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

黙示録講解411ニ(15)

 

『わたしはあなたに天国のかぎを与えよう何であれあなたが地においてしばるものは天界においても解かれるでしょう』、そのことは凡ゆることは主から発した善から発する諸真理の中にいる者たちには可能であり、そのことは以下の御言葉に完全に一致していることを意味しているのである―

 

祈りつつも、何であれあなたらが求めるものはことごとく、あなたらは受けるにちがいないことを信じなさい、そのときはそれはあなたたちに為されるでしょう(マルコ11・24、マタイ7・8、ルカ11.9)。

 

これらの言葉はいかように理解されねばならないかは前に見ることができよう(405番リ)すなわち、仁慈の信仰から求めることは自己からでなく、主から求めることである、なぜなら何であれたれでも自己からでなく主から求めるものはかれは受けるからである。そうしたことがこれらの言葉、すなわち、『何であれあなたが地でしばるものは天においてもしばられ、何であれあなたが地でゆるめるものは天においてもゆるめられるでしょう』の意義であることは、弟子たちに、また主から発した善から真理の中にいる凡ての者に話された主の御言葉から明らかである、マタイ伝には―

 

まことにわたしはあなたたちに言います、いかようなことであっても、あなたらが地でしばるものはことごとく天においてもしばられ、何であれあなたらが地でゆるめるものはことごとく天においてもゆるめられるでしょう(マタイ18・18)。

 

 

 

黙示録講解411ニ(16)

 

これらの言葉は凡ての者に話されたのであり、かくてペテロにのみ語られたのではないことは、主はすぐにも以下の言葉の中でその章の中で言明されているのである―

 

わたしはあなたたちに言います、もしあなたらの中で二人の者がその求める何かのことについてわたしの名において、地上で心が一致するなら、それは天におられるわたしの父によりその二人の者に行われるでしょう。なぜなら二人または三人がわたしの名において集まっているところには、そこにわたしはその者たちの真中にいるからです(マタイ18・19,20)。

 

『主の御名』は主が拝される手段である凡ゆるものを意味し、主は善から発した真理により拝されたもうように、そのことが『主の御名』により意味されている(これが『主の御名』により意味されていることに「ついては、前の102、135番を参照。」それで『かれらが地上で求める凡ゆることは天においてかれらのために為されるであろう』は『何であれあなたらが地上でしばり、ゆるめるものはことごとく天においてもしばられ、ゆるめられるでしょう』と同じような意義をもっている。なぜなら主は前の言葉を後の言葉により説明されるからである。聖言の霊的な意味を知っている者は、なぜ『もし二人の者が一致するなら』と言われ、後に『二人または三人がいるところに』と言われているかを知ることができるのである、すなわち、そのことは『二人』は善について述べられ、『三人』は真理について述べられており、従って『二人と三人』とは善から真理の中にいる凡ゆる者について述べられているためである。

 

(主から発した神的真理は諸天界と地上における一切の力を得ていることについては、前の209、333番を、「天界と地獄」、230,231,539番を、「秘義」、3091、3563、6344、6423、6948、8200、8304、9643、10019、10182番を参照されたい。『二人』は、愛による連結を意味しているため、善について述べられ、16865194,8423、『三人』は凡ゆる真理の総合体を意味しているため、真理について述べられ、『12』も同様であり、577,2089,2129、2130、3273、3858,3913番、それゆえ『ニ』と『三』とが霊界で言われるときは、二と三とは意味されないで、善から諸真理の中にいる凡ての者が意味されているのである。『ペテロ』は主から発しているところの、善から発した真理を意味していることについては、小著「最後の審判」、57番を参照されたい。)

 

 

 

 

天界の秘義2009[11]

 

『神の御名』または『主の御名』は愛と仁慈とにかかわる信仰の教義のすべてのものであり、そのことが『かれの御名を信じること』により意味されていることは同じ福音書の中の以下の御言葉から明白である―

 

  かれを受け入れた者にはことごとく、かれの御名を信じる者たちには、かれは神の子となる力を与えられた(ヨハネ14・13−15)。

  もし何ごとでもあなたらがわたしの名の中に父を求めるならば、わたしはそれを為しましょう。あなたらはもしわたしを愛するならば、わたしの戒めを守りなさい(ヨハネ14・13−15)。

  何であれあなたがわたしの名の中に父を求めるならば、父はあなたらに与えられます。これらのことをわたしがあなたらに命じるのは、あなたらが互に愛し合うためである(ヨハネ15・16,17)。

 

 マタイ伝には―

 

  二人または三人の者がわたしの名の中に共に集まるならば、わたしはその者たちの真中にいるのである(18・20)。

 

『主の御名の中に共に集まっている者たち』によりここでは愛と仁慈とにかかわる信仰の教義の中にいる者たちが意味され、かくて愛と仁慈の中にいる者たちが意味されている。さらに―

 

  あなたらはわたしの名のために凡ての国民から嫌われるでしょう(マタイ10・22、4・9、10、マルコ13・10)。

 

 ここには『わたしの名のために』は、主の教義のために、を明らかに意味している。

 

 

 

 

天界の秘義4197〔7〕

 

真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならないという表象的な教会に与えられている命令は(民数記35・30、申命記17・6、7、19・15、マタイ18・16)、一つの真理は善を確認しないが、多くの真理がそれを確認するという神の律法に基礎づけられているのである。なぜなら他の真理との関連性を持っていない一つの真理は確認を与えはしないが、幾多のものが共になると、一つのものから他のものが認められることが出来るため、確認を与えることが出来るからである。一つのものはいかような形も生み出しはしないし、かくていかような性質も見出しはしないが、連続して関連づけられている幾多のもののみがそれを生み出すのである。なぜなら一つの調子ではいかような旋律も生まれないし、ましてやハーモニーは生まれはしないように、一つの真理でもまた生まれはしないからである。

 

 

 

 

天界の秘義6674[]

 

名前が取り扱われている主題の性質と状態とを意味していることを知らない者は、名前が言われている所には、ただ名前のみが意味されており、それで主が主の『名』を話される時は、それはただ名に過ぎないと信じることは出来るが、しかしそれは礼拝の性質であり、即ち、主を礼拝する手段である信仰と仁慈の凡ゆるものである、例えば以下の記事には―

 

ニ、三人の者がわたしの名の中に共に集まっている所には、わたしもその者たちの真中にいるのである(マタイ18・20)。

 

ここでは『名』が意味されてはいないで、信仰と仁慈から発した礼拝が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義9310[2]

 

『名』がその内意で意味していることを知らない者は、『エホバの御名』と『主の御名』とが聖言に記されているところでは、名前のみが意味されていると考えるであろうが、主から発している愛の善の凡てと信仰の真理の凡てがそれにより意味されているのである。例えば以下の記事では―

 

 もしあなたたちの二人がその求める何事かについて地上でわたしの名において一致するなら、それはその者たちのために為されるでしょう。二人または三人がわたしの名において共に集まっているところでは、そこにその者たちの真中にわたしもいるのである(マタイ18・19、20)。

 

 わたしの名のために、家を、また兄弟を、または姉妹を、または父を、または母を、または子供たちを、または畠を棄て去った者はすべて百倍を受け、また永遠の生命を継ぐでしょう(マタイ19・29)。

 

 かれを受け入れた者にはことごとく、実にその御名を信じる者にはかれは神の子となる力を与えられた(ヨハネ1・12)。

 

 信じない者は、神の独り児の御名を信じなかったため、すでに審かれている(ヨハネ3・18)。

 

 これらの事柄を記したのは、あなたらがイエスは神の子、キリストであられることを信じるためであり、また信じてその御名において生命を得るためである(ヨハネ20・31)。

 

 これらの記事の中で、また他の非常に多くの記事の中で、『主の御名』により主を拝する手段である愛の善と信仰の真理のすべての統合体が意味されているのである。

 

 

 

 

黙示録講解532(10)

 

ここには二人と三人とが意味されはしないで、善の中に、そこから発する真理の中にいる者たちが意味されており、主の『名』もまた主の御名を意味しないで、主を拝する手段である愛の善と信仰の真理とを意味しているのである(前の102、135番を参照)。

 

 

 

神の摂理256(ハ)

 

そして、驚嘆すべきは、聖言が敬虔に読まれ、主がその教令に応じて拝される所にはすべて主と天界とが現存するからである。その理由は主は聖言であり、聖言は天界を構成する神的真理であるということであり、これが主が『二人または三人が私の名において共に集まっている所では、私はその者たちの真中にいる』と語られる理由である(マタイ18・20)。このように聖言は地球の多くの部分にヨーロッパ人により用いられている、なぜなら彼らの商業は全地に拡がっていて、凡ゆる所で彼らは聖言を読み、その聖言から人間に教えるからである。これは作り話のように思えるが、しかし真である。

 

 

 

啓示による黙示録解説17

 

約言すると、真理が先ず善から生み出すものが、かくて理解が意志から生み出すものが主要なものである。なぜならそれは爾余のものが発出してくる源泉となる種子として存在するからである。主については、主は死んだ者らから最初に生まれた方である。なぜなら主は、その人間的な方面では、神的善に結合した真理そのものであられ、主から凡ての人間は―彼らは彼ら自身では死んでいるのであるが―生きるからである。そのことがダビデの書に意味されている―

 

わたしは彼を、その最初に生まれた者を[長子を]、地の王たちよりも高くしよう(詩篇89・27)。

 

これは主の人間的なものにかかわっている。ここからイスラエルは長子と呼ばれている(出エジプト4・22、23)。

 

「イスラエル」により行為における真理が意味され、「ヤコブ」により教義における真理が意味されており、後のもののみではそこから教会は生まれないため、それでヤコブはイスラエルと名づけられたのである。しかし「イスラエル」によってはその最高の意義では主が意味されている。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P349

 

イエズスがシンティカと一緒に部屋へ入ると、

「ヨハネ(エンドルのヨハネ)、どうしてそんなに泣いているのですか」とシンティカが目を見張る。

「私たちは追い出されるのです。知らないのか、まだ知らないのか。私たちをアンティオキアへやろうとしている」

「だったら? イエズスの名前のために二人が一緒にいるところには、イエズスもそこにいると教えられたではありませんか。(後略)」