福音・新しい福音

1.マリア・ワルトルタ

2.聖母から司祭へ

3.サンダー・シング

4.スウェーデンボルグ

 

1.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ34・1/天使館第1巻P280

 

1944年2月28日

 

 わたしの内なる勧告者はわたしに言う。「あなたがもつであろう、そしてわたしがあなたに言うであろうこれらの凝視を『信仰の福音』と呼びなさい。それは、あなたと他の人びとが、信仰の力とその結実を説明するようになり、神への信仰を固めるためである」。

 

 

マリア・ワルトルタ34・17/天使館第1巻P297

 

主がマリア・ワルトルタに:

 

子らよ、これこそ、博士たちの場面に啓示される『信仰の福音書』です。黙想せよ、そして倣うのです。あなたたちの幸せのために」

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P258(天使館35・7)

 

十戒は律法である。私の福音は、この律法をより明らかにし、もっと従いやすくする教えである。人間を聖人にするには、この律法と、この教えだけで足りる。

 しかし、あなたたち人間の生活は、心があまりに支配しているので、さまざまの心遣いにつまずいて、今言った道(十戒と福音)に従いえず、倒れてしまうか、それとも落胆して止まってしまう。あなたたちは、福音のいろいろな模範をもって、あなたたちをもっと前進させたい人に向かってこう言う

『しかし、イエズスや、マリアや、ヨゼフは、同じく他のすべての聖人について言うが私たちのような人ではなかった。彼らは力強いもので、わずかばかりの苦しみがあったとしても、すぐ慰められ、その上、欲を感じることがなかった。彼らは人間ばなれしていた』“あのわずかの苦しみ”“欲を感じなかった”とは!

 苦しみは、ずっと私たちに付きまとっている仲間のようなもので、さまざまの異なる形と名前のものであった。欲とは・・・このことばを悪用して、お前たちを迷わせる悪徳を欲と言うな。それを指すには、真実に“邪欲”あるいは“罪源”と言え。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P3

 

「今のりっぱな知恵者たちがどう言おうとも、いかなる反対や抵抗に遭おうとも、書きなさい・・・書きなさい。現代は、教会においても超自然界に何らかの反感を抱く信者は少なくなく、人間の生活への超自然界の干渉を認め難いのである。」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P4

 

「あなたたちを長い冬眠から目覚めさせるため、私の公生活におけるエピソードのあれこれをワルトルタに書かせているのに、なぜ彼女をとがめだてするのか。あなたたちは、救い主の新しい恵みを受けるに値しないが、溺れ、呼吸ができなくなっているあなたたちを泥沼から引き上げるために私の恵みが与えられる以上、それを受け入れて新しい人となって立ちなさい。ワルトルタが伝える私のことばは、福音書が奏でる曲に加えられた新しい一節である。

 あなたたちが他のことを考えつつ、飽き飽きしながら読む福音書のエピソードに、改めてあなたたちを引きつけたい。伝道の三年間、私が福音に記されているわずかな奇蹟を行っただけだとでも思っているのか。私のことばで治癒した病人や婦人などについて、福音に書かれているのはごくごく少ない。私からは絶えず奇蹟の力が派出していた。事実、私は人間の霊魂たちを神のもとへ運び、罪の日に閉じられた愛の土手を切るためにやって来た・・・このような人々に対して、ヘロデ同様、沈黙を守ってもよいのだが、私の場合、絶えず、愛とあわれみが厳しさに勝っている」

「福音書に書かれていないことでも、福音を照らし、理解を深めることばやエピソードを引き続き書きなさい。何度も言ったように、神に向かってどうすればよいのか悪いのかを、あえてあなたに教えたい。知識深く傲慢な人々のために書くのではなく、より小さな人々、謙遜な人々、己の盲目を自覚している人々、朝まだき露を宿す花のように心が神のことばに開かれている人々のために、書き続けなさい」

 

 

マリア・ワルトルタ/復活P103

 

この著作はすべての人々のためのものであるが、特に司祭たちのためである。司祭たちの手を取って、病める人の中に引っ張り、その病気の徴候を察し、あなたたちがそれを治療するようにである。では来て見なさい。来て食しなさい。来て飲みなさい。そして否定してはいけない。あなたたちの中で、善き人々は、この著作において聖なる喜びを味わうでしょう。正直な学者たちは光を、悪くはないが不注意な人々は楽しみを、愚かな人々は、自分たちの知識を暴露するための手段を得るであろう。

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P237

 

主がマリア・ワルトルタに:

「あなたにはひどい頭痛があり、その他にも病気に伴う苦痛は絶え間ないだろうが、それでも書き続けよ。唯物論・懐疑主義の横行する昨今の世にも、私を眺め、私の言葉を聞きたいとする人々も多い。その人たちに送る私の“福音”だからである」。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P210

 

後にもおられるかた(黙示録1・8)

 

 どんなやり方で?もちろん、肉を再びとることによってではない。もし彼の再臨が確実であるなら、同じくらい確実に、もう一つ別の肉をとることは決してあるまい。彼のによってまとわされた最初の、永遠の、栄光化された完全な肉を具備しているのだから。

 

 第二の贖罪のためにキリストが来ることもないだろう。第一の贖罪はそれだけで充分であり、完璧だったのだから第二の贖罪はないだろう。その時以来、人びとは、それを望みさえすれば、再創造されたの子らの民に留まるために、また再創造から超再創造へと移行するためのすべての要素と超自然的援助を保持している。なぜなら、もし知恵をもって言われてきた、また今も言われている『人は自らを満たす器である』、またもし『恩寵は霊魂にが蒔く種』、あるいは『照らし、肥沃にするために降る一筋の光線』でもあるのなら、もし人間が神的意志と霊感に服し、を収容するためにその能力を増大し、年齢を重ねるごとに、すべてを越えて理解し、望むその能力を拡大するのは当然である。の霊的言葉を理解すること、すなわち、常に最大の正義へと、また人がそのために創造された目的に到達するための意志を導くために、が人それぞれの内部に引き起こす動きを理解することである。また同様に、恩寵の種は、もし人が恩寵に服し、律法を実践し、徳に励み、恩寵に忠実であるなら、小さな種から大木となり、永遠の生命の果実を結び、あの一筋の光線は、霊感が恩寵のうちに成長し、完徳の道に自分を高めるほどに光線の力は増大するだろう。一つの谷から一つの山の頂を目指して上る人なら誰にでも起きるように。

 

 をますます収納するために自分を広げ膨らますこの能力、霊魂の庭を支配し、育てるこの一本の木、人がを目指して自分を高めるほどに一筋の光から光の大海と化すこの永遠の太陽の光は、キリストの功績によって得られた恩寵を通して再−創造された人間を、その超創造、すなわち、イエズスと同一となることへと導く。彼の模範と在り方による新しい人間性、人間を理性を具えた被造物から、地上にいた時永遠のが有していたものに、また、が、彼に忠実な者たちにもつようにと命じたものに出来る限り似るような仕方で考え、語り、行動する神化した被造物に変容させる新しい人間性をとることによって。『完全であるために、弟子はそののごとくあれ』(ルカ6・40)

 

 二千年前から人間は、永遠の王国を所有することが出来、彼がそのために創造された目的に到達するに必要なすべてを与えられているのだから、人間の側からの第二の贖罪はないだろう。弱さによって罪を犯し恩寵を失っても、それを取り戻し、罪を自ら償う手立てがある。自ら罪に落ちた人間は、そこから汲み上げたいと欲する者皆のために、キリストが制定した絶え間ない賜物を用いて、自らその罪を償うことが出来るのだ。

 また、御言葉が、二度目の福音宣教をしに世に来ることはないだろう。個人的には来ないだろう。それでもなお、福音を宣教するだろう。彼のにおいて福音宣教をする新しい福音宣教者たちを立ち上がらせるだろう。彼らは新しい時代に合致する形で福音を宣教するであろうが、永遠の福音も大いなる啓示も本質的には変えずに、それらの幅を広げ、補完し、無神論のせいで、また、末期の人を待ち受ける死・審判・天国・地獄のことや他の多くの啓示された真理に対するその不信仰のせいで、『わからないことを信じろと言われても無理だし、あまりにも無知な人たちを信用することは出来ないし、引きつけたり元気づけたりするよりも怯えさせ、意気阻喪させる奴等を愛することもできない』と、言い訳をする人たちにも理解しやすく受け入れやすいものにするだろう。

 新しい福音宣教者たち。たとえ世の一部は彼らを知らず、一部は彼らに敵対しているとしても、実は、彼らはすでにいる。しかしその数はますます増えるだろうし、彼らを知らず、あるいは嘲笑し、あるいは敵対した後、今新しい福音宣教者たちを愚弄する愚か者たちを恐怖が襲う時、世は、闇の中で、戦慄の中で、進行中の反キリスト者たちが起す迫害の嵐の中で、力、希望、光である福音宣教者たちの方へ向き直るだろう。なぜなら世の終わりが来る前には、反キリストの手下である偽預言者たちがますます跋扈するだろうということが本当なら、キリストは、彼を信じない所に新しい使徒たちを立ち上がらせて、ますますその数を増す彼らに立ち向かうのも本当である。

 そして、無限の憐れみは、血と、火と、迫害と、死の嵐に押し倒されている哀れな人びとを憐れみ、血と恐怖の海の上に、その再臨の先駆者となるであろう清らかな海の星マリアを輝かせるであろうし、この新しい福音宣教者たちは、実は、四福音史家使徒たち弟子たち皆からあまりにも日影に放置されていたが、彼女にかかわるより広汎な認知は多くを教化し、多くの転落を防止したマリアを福音宣教するだろう。なぜなら彼女共贖者であり、女教師なのだから。家にいても、当時の人びとと共にいる時も、純潔で、謙遜で、忠実で、慎重で、思いやりに富み、敬虔な人生の女教師である。幾世紀にもわたって、常に、世界が泥と闇に降りて行けば行くほど知られるに値し、闇と泥でないものに向けて世界を再び導く、もっとも模範とするにふさわしい女教師である。

 迫りつつある時代は戦争の時代であるが、それは物質的な戦争であるだけではなく、とりわけ有形なものと霊魂との戦争である。反キリストは、理性を具備した被造物を獣のような生活の泥濘に引きずりこもうとするだろう。キリストは、新しい地平と霊的な光に照らされた道を開き、誰であれ、彼を公然と拒否しないように、そのうちに霊の力強い目覚め、キリストだけでなくのこの新しい福音宣教者たちに助けられた目覚めを奮起させて、諸宗教のみならず理性に対するこの放棄を阻止すべく努めるだろう。マリアの幟りは高く翻るだろう。人びとをマリアに導くだろう。そして、間接的にではあるが、すでに一度、人間の贖いのための常に強力な原因であり源泉であったマリアは、またそうなるだろう。なぜなら彼女は、不実な敵対者の、聖なる敵対者であり、彼女のうちに住まいをつくった知恵のように、霊魂たちと知性を堕落させる異端に勝つべく、その踵は地獄の竜を永遠に踏み砕くよう定められているからである。

 到来が避けられないその時代には、闇は光と、獣性は霊と、サタンの軍勢はの生き残りの者たちと、バビロンは天のエルサレムと戦い、バビロンの淫欲、その三重の色欲は、悪臭を放ち抑え切れない水のように氾濫し、至る所に、の家にまで浸透し、かつて言われたし、今も言われているように、の子らとサタンの子らの分離の時代には、再び同様になるだろう。そこではの子らはそれまで決して達しえなかった霊の力に達するだろうし、サタンの子らは、どんな頭脳も、それが現実にどんなものか想像もつかないほど広範囲な悪の力に達し、新しい福音宣教の時、今は目覚めた、あの最初の敵対した者たちを有する円熟した新しい福音宣教の時代が到来するだろう。

 この福音宣教は改宗と完璧さの大いなる奇跡をもたらすだろう。キリストとに対する悪魔的憎しみの大きな試みにも遭うだろう。しかし二人とも彼らの敵に追いつかれることは出来ないだろう。そうなるのは適切でもなく有益でもないだろう。にとって最も愛すべき二者、すなわち、地上に存在していた時、すでに最も憎むべき、苦痛に満ちた侮辱をすべて受けたけれども、すでに幾世紀も前から栄光化され、今は攻撃者に対するじかの恐るべき神罰なしには、侮辱を受けることが出来ないに打撃を加えるほどのに対する究極の侮辱はありえないからだ。

 そのためにこの究極の福音宣教は、時宜に適った時に新しい方法で実現されるだろうし、生命を今か今かと待ち侘びる人びとは、イエズスとマリアという二人の贈り主のみが知っている方法で、余すところなく、完全にそれを享受するだろう。ただ自分のために闇と泥、異端と、に対する、またマリアに対する憎しみを選んだ者のみが、すなわち死者である前にすでに死者であり、腐敗した霊魂、サタンとその手下たち、すなわち反キリストの先駆者たちと彼自身に売られた霊魂たちは、来たるべきが来るであろう時、泥と闇と責め苦と永遠の憎しみに呻吟することになろうが、いかにも正義に適ったことではないだろうか。

 

 

2.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1974.12.24

 

あなたがたは私の声だけに耳を傾けるでしょう。なぜなら、他の声や他の考えはむなしいからです。

 私があなたがたに伝える声と考えは、ただわが子のものです。従って、あなたがたにとり、福音はどれほど残り無く明らかになることでしょうか! わが子の福音だけが、あなたがたの唯一の光となるでしょう。あなたがたは闇に覆われている教会に、福音の光をことごとく与えるでしょう。

 

 

聖母から司祭へ1985.2.9

 

 聖書、特に聖福音に収められた、この神のみことばだけが、あなたたちを導くべき光でなければなりません。

 

 

聖母から司祭へ1988.2.2

 

 聖書、特に、イエズスの福音書が暗闇のこの時に、あなたたちを照らすただ一つの光となりますように。福音を信じなさい。福音に生きなさい。福音をそのまま完全に伝えなさい。

 人間的な、唯理主義的、自然主義的な解釈によって、イエズスの福音を八つ裂きにしたわたしの多くの子らのひどいうらぎりと、拡がっていく謬説に対して戦いなさい。

こうして、わたしの愛する子であるあなたたちは、今こそ文字通り生きぬいて、伝えられたままの唯一の福音となりますように。

 そうすれば、あなたたちを通じて、信仰の光は再び輝きはじめ、わたしは、あなたたちのうちに光栄を受けます。

 

 

3.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P153

 

主のご昇天後に弟子たちに降下した聖霊が、福音書を彼らに書かしめたのである。

 

 

4.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義3488[8]

 

 王国の福音は凡ての国民に証として、人の住む全地に宣べつたえられるであろう。

 

 このことはこれが先ず基督教世界に知られるようにならねばならないことを意味し、『宣べつたえられるであろう』は、それが知らされなければならないことを意味し、『この王国の福音』は、それがそうであるというこの真理であり、『福音』は告知であり、『王国』は真理であり(『王国』は真理を意味していることは前の1672、2547番に見ることができよう)、『人の住む全地に』は基督教世界を意味している(『地』は教会が在る領域であり、かくて基督教世界であることは、前の662、1066、1067、1262、1733、1850、2117、2118、2928、3355番に見ることができよう)。ここの教会は信仰の生命から、すなわち、真理のものである善から『人が住む』と呼ばれている、なぜなら内意では『住むこと』は生きることを意味し、『住む人』は真理の善であるからである(1293、2268、2451、2712、3384)、『証として』は、彼らが知るように、また自分たちは知らなかったという口実をもうけないように、を意味し、『凡ての国民に』は、いくたの悪に、を意味している(1259、1260、1849、1868、2588番)、なぜならかれらが誤謬と悪との中にいる時は、かれらは真のものと善いものとは最早知らなくなり、その時誤謬は真理であり、悪は善であり、またその逆に真理は誤謬であり、善は悪であると信じ、教会がこうした状態にいるとき、その時終りが来るからである。今以下に記されている事柄と主の神的慈悲の下に創世記の次の章の序言に明らかにされる事柄との中に、第三の状態であるところの『荒らす憎むべきもの[荒れすさばせる忌まわしいもの]』と呼ばれる教会の状態がとり扱われている。

 

 

霊界日記4770

 

後で、教会の中にいる無神論者の仲間が現れた。それが消え去ると、多くの者により、以下のことが言われた。すなわち、諸国民の或る所で、天界から或る啓示が起り初めている、と発表されている、すなわち、霊たちと天使たちとがかれらと話し、天界の教義を教え、とくに主について教えており、そこの者たちがそれをかき抱き、かくして天界から新しい教会が起りつつあるのである、と。そのさいかれらはこのことについて話し、以下のように言われた、そのようにして、新しい諸教会が前に設立されたのであり、すなわち、ユダヤ教会は、奇蹟により、またモーセとシナイ山から話す生きた言葉により、かくて霊たちと天使たちとを用いてユダヤ教会が設立され、基督教会は奇蹟により、また人間が霊たちと話すことにより設立されたのである。なぜなら霊たちは使徒たちと話し、さらに、その奇蹟の他に、多くの者はまた外国語で話したからである。そこから天界に喜びが起った。