不可知論
1.スウェーデンボルグ
2.サンダー・シング
3.マリア・ワルトルタ
1.スウェーデンボルグ
天界の秘義129
人間はその仮定した原理が如何に誤ったものであっても、それにより支配され、その者の知識と理性は尽くその原理を支持することを人各々知ることができよう、なぜならそれを支持するようになる無数の考察がその心に現れてきて、かくて彼は誤った物を確認するからである。それゆえ、見て理解しない中は何物も信じることは出来ないということを原理として心に確認する者は決して信じることはできないのである。それは霊的な天的な物は眼で見たり、想像により考えついたりすることはできないからである。しかし真の秩序は人間は主から、すなわち、聖言から賢明になることであり、そのときは凡ての物は続いて起り、かれは理性と記憶知に属した事柄さえも明るくされるのである。
2.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導き・インド永遠の書P271
神は知ることができないという哲学者もいるが、これまた無意味といわなくてはならない。「神は不可知」という知識そのものが、神についてのある程度の知識からくる推論に基づいているからだ。神がわれわれの知識を超えているのなら、神を知りえないという知識はどうして起こったのか、ということになる。実際には、否定する行為そのものが、知識の存在を語っているのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P203
不可知論者と懐疑論者についていえば、彼らは完全なるものの代わりに欠陥しかみることはない。粗捜しをする批評家たちはいう。『全能の創造主というものがあるのなら、なぜ嵐や地震、日食、苦しみや災い、死といった欠陥がこの世界にあるのか』と。
このような批評家たちの愚かさは、未完の建物や絵画に不平を鳴らす無学の者にも似ている。それが完成した暁には、彼は自分の愚かさを恥じ、ついには讃嘆の声をあげるであろう。そのようにまた、神は一日にしてこの世界を今の形にしたのでもなく、一日にしてそれを完成させることもなさらないのである。全被造物は完成へと向かって動く。そして、この世の人間が神の目によって、欠けるところ一つなき完全な世界をみることができれば、彼もまた神の御前にへりくだり、『すべては大変よい』と告白することであろう。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P204
始まりのあるところ、生命には必ずや終わりもあるに違いないという人々も多いが、これは本当ではない。その聖旨によって無から有を創造された全能者はまた、その力ある聖言によって、造られたものに不滅性をお与えになることもできるのである。でなくば、神は全能とはいわれえぬであろう。この世の生命が崩れやすくみえるのは、それが変わりやすく崩れやすい事柄に従っているからである。だが、この生命がこのような移ろいやすい力から解かれ、永遠の生命の源泉たる永遠不滅の神の保護の下におかれるならば、それは死の淵より免れ永遠性を得る。
信じる者たちに、わたしは永遠の生命を与える。彼らは決して滅びることなく、わたしの手から彼らを奪える者は誰一人いない。わたしは神である主、常にいまし、昔いまし、後にくる万物の支配者である。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P162
主:「『私は何も信じない』と言っている人だって、何かを信じています。『私は神を信じない』ということばにしても、他の信仰を前提としています。例えば、己の傲慢な理性を信じているのです。しかし信ずることは絶えずあり、それは考えることと同じです。」