奉献
聖母から司祭へ1973.10.20
何でも私と一緒にしない時には、すべてがあなたを疲れさせ、空ろになったようにしてしまうのをあなたは経験していますね。
そして、それを不審に思って、あなたは尋ねます。「おかしい、なぜこんな事が起こるのだろう? 今までこの事に夢中だったのに・・・。何が起こったのだろう?」と。
何が起こったのかといって、ああ、子よ、私に奉献されたという大きな決定的な出来事があったのです。私はあの行為を真面目に取りました。この奉献には、あなたの生活を真実に変え、すっかり変容させてしまう力があるのです。
この奉献によって、あなたは自分の生涯をことごとく私の手に委ねました。今こそ、あなたの人生は私に属するもの、私のものとなったのです。私はそれをわがものとし、今こそ私の望み通り、少しずつそれを変容させてゆきます。
あなたをやさしく導いて、私の気に入る、かの完徳にまで至らせ、わが子イエズスの生き写しとなるまで、すこしずつあなたを変容させてゆきましょう。
新しいものの見方を与えましょう。あなたは私の眼で見るようになります。この世のすべてのものにはもう興味を失い、しかも、それが深い心痛のもととなるでしょう。それについて「何と空しい、何とつまらないことだ!」と言うでしょう。ところがあなたの兄弟たちの多くは、このようなものに導かれ支配されています。この世的な眼でものを見、この世のために生き、こうして貴重な人生を台無しにしてしまうのです。
新しい感じ方も与えましょう。私の心が感じるように感じるでしょう。そのため、あなたの愛する力と苦しむ力は極度に大きくなるでしょう。なぜなら、子よ、あなたは母の心と同じようにものを感じるからです!
今日、わが子の贖いを無駄にする多くの人、すなわち神を拒み、否定し、神と戦う人に対して、あなたはどれほど深い悲しみを感じることでしょう。自分に過失はないのに、これらの誤りを信じて無知の犠牲となり、迷いゆく人には、どれほどやさしい憐れみの情をかんじることでしょう。
聖母から司祭へ1977.7.29
特に愛されている子らよ、私の汚れなき心に奉献したことが、どれほど、すばらしい恵みであるかとわかれば!
聖霊が、あなたがたを、この私の花園に入るようになさったのです。
天の母によってあなたがたを育て、たまもので飾り、全ての徳をもって富ませてあげます。
聖母から司祭へ1984.3.25
なぜ、わたしは奉献を願っているのでしょう?
何かが奉献されるときは、それをほかの目的のために使わず、聖なる目的のためにだけ使うことになります。神の崇拝のために使われる祭具の場合がそうです。しかし、人間も奉献されることができます。それは、その人が、神への完全な崇敬を捧げるために召されるときです。そうすると、あなたがたの奉献の真の行為は、洗礼の行為であることがわかるでしょう。
イエズスが制定なさったこの秘跡によって、あなたがたは、恵みを受けるようになります。その恵みによって、あなたがたは、生活のもっとすぐれた段階である超自然的な段階に入れるようになります。こうして、あなたがたは、神性にあずかり、神との愛の交わりに入ります。したがって、あなたがたの行為は、神的なまことの価値を得て、あなたがたは、自然的な価値を超える新しい価値をうるようになるのです。
洗礼を受けることで、あなたがたは、聖三位に完全な光栄を帰するために召されます。
そして、おん子にならって、おん父の愛のうちに生き、聖霊との完全な交わりのうちに生きるために奉献されたものとなるのです。
奉献の行為を特徴づけるものは、その全体性にあります。すなわち、ひとたび奉献されれば、もはや、あなたがたは、全面的に、しかも永遠に奉献されたものとなるのです。
わたしが、この汚れなき心に奉献するようにと願うのは、あなたがたに、わたしが神のみ旨のままに、あなたがたのことを自由にとりはからえるように、全面的に、しかも完全に、そして絶えず自分をわたしにゆだねるべきことを理解させるためです。
あなたがたは、すべてを与え尽くして、完全にわたしにまかせねばなりません。ある程度までは与えるが、あとは、たとえわずかでも、自分のために残しておくというようなことをしてはいけません。真に、すべてが、わたしのものとならねばならないのです。
また、きょうはまかせても、あすはまかせないという態度もいけません。あるいは、自分の好きな期間だけにこれを限ることをせず、いつでもまかせなければなりません。
あなたがたが完全に、そして、永久に、天の母であるわたしのものであると強調するために、わたしの汚れなき心への奉献を願います。
では、その奉献をどのように生きなければならないでしょうか? もし、教会がきょう記念する、この言葉につくせぬ奥義を思い浮かべるなら、わたしの願う奉献をどのように生きるべきかが分かるでしょう。
おん父の“みことば”は、愛にかられて、完全にご自分をわたしにまかせてくださいました。
そして、みことばは、わたしが承諾してから、おとめであるわたしの胎内に天くだられたのです。
その神性をもっても、ご自分をわたしにまかせてくださいました。
永遠のみことばである聖三位の第二のペルソナは、人となることをもって、わたしのおとめとしての胎内に、聖霊から奇跡的に準備されたその小さな住まいにかくれ、小さくなられました。
かれは、その人性をもっても、ご自分をわたしにまかせてくださいました。すべての子が母に自分をまかせるような、これほどの方法でまかせてくださったのです。
子どもは、母にすべてを待っています。血も、肉も、息も、食べものも、愛もです。
それは、母の胎内で毎日成長し、生れてからは、つねに母の側にいるためです。
このために、わたしは、ご託身の母であると同時に、あがないの母でもあります。
あがないは、ここにこそ、感嘆すべき方法をもって、はじまったのです。
こうしてわたしは、わたしの子イエズスと親密に結ばれており、かれと共に、その救いのみわざに協力するのです。かれの幼年時代、青年時代、ナザレトでも三十年間の隠れた生活、かれの公生活の苦しいご受難のとき、十字架のもとにいたるまで、わたしは、かれと共にささげて苦しんでいるのです。
わたしはそこで、イエズスの愛と苦しみの最後のことばを受け入れます。そのみことばで、かれは、わたしを、全人類のまことの母としてお与えになられたのです。
愛する子らよ、あなたがたは、かれの奉仕者であるからこそ、すべてにおいてイエズスになるように召されています。
それで、天の母に、完全にご自分をゆだねられたそのことにも、ならうようになさい。
そのためにわたしは、あなたがたが奉献をもっても自分たちをわたしにまかせるようにと願います。
あなたがたが、神のご計画のうちに成長し、召された司祭職の偉大なおくりものを、あなたがたの生活をもっても、みのらせるように、わたしは、注意深い心づかいをする母となるでしょう。
わたしは、毎日、ますますりっぱにイエズスにならうようにと導いてあげます。イエズスこそ、あなたがたの唯一の模範であり、また、もっとも愛すべきお方でなければなりません。そうしてこそ、あなたがたは、イエズスのあがないの真の道具、忠実な協力者となるでしょう。
聖母から司祭へ1985.2.9
わたしの汚れなき心に捧げられ、天の母にすべてをゆだねた子供たちだけが、信仰を完全に守り、この世話をまかせられた人々を真の信仰に導く恵みを受ける時がすでに到来しました。