比率
1.現今のキリスト教徒は殆ど宗教を欠如している
2.彼ら(イスラエルの子孫)の中で天界にいる者は僅かしかいない
3.こうした者の大半は今日基督教世界から他生へ入ってくる者たち
4.彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われる
5.流入していることを信じない
6.父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることを百人の中五人も真理として認めていない
7.学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいない
8.古代では非常に多くの者が天使となった、しかしその後の時代では天使となる者はそれほど多くはない
9.一万人の中一人もほとんどそれ(流入)を信じてはいない
10.天界の三分の一を形作っている子供たち
1.現今のキリスト教徒は殆ど宗教を欠如している
霊界日記5855
私はしばしば、他生にいる者らについて、彼らは良心とは何であるかを知らず、かくて千人の中殆ど一人さえもそのことを知ってはいないことを認めもし、聞きもしたのである。天使たちはそうした無知が何処から発しているのか、と怪しんだが、しかしその理由が明らかにされたのである、即ち、教会の人間は、善を、引いては、業を無意味なものとしており、そうしたものを無意味なものとしている者は決して良心とは何であるかを知ることは出来ないのである、なぜなら良心は、人が神の戒めに反したことを行ったために、また人がその戒めに反したことを考えたために悲しむことであるからである。このことから現今のキリスト教徒の性質が明らかであり、それは殆ど宗教を欠如しているのである、なぜなら宗教を持ち、神的な事柄を愛する者は良心を持っているからである、なぜなら彼は、もし彼が何か神的なものに反したことを考え、意図したとするなら、ましてや、そうしたことを行ったとするなら、苦痛を経験するからである。
生命を目的としない者は、信仰のみを目的としているため、良心とは何であるかを決して知りはしない、彼は良心とは何であるかを尋ねはするが、それでも把握はしない、なぜなら彼は、善い業は救いには何ら貢献はしない、と信じているからであるが、それでもそうしたものは生命のものであり、信仰の知識は、信じられていると考えられてはいるものの、もしそれがそれを意志し[欲し]行うことにより生命に植え付けられていないなら、単に記憶の中に在るに過ぎないのである。
2.彼ら(イスラエルの子孫)の中で天界にいる者は僅かしかいない
天界の秘義7439〔2〕
イスラエルの子孫が『エホバの民』と呼ばれたのは、彼らが他の幾多の国民よりも優れていたからではなく、エホバの民、即ち、主の霊的な王国に属している者たちを表象するためであったのである。彼らは他の幾多の国民よりも優れていなかったことは荒野におけるその生活から明らかである、即ち、彼らはエホバを些かも信じないで、その心ではエジプト人の神々を信じたのである、そのことは彼らが作った金の子牛から明らかであり、それを彼らは自分たちをエジプトの地から連れ出した神と呼んだのである(出エジプト記32・8)。その事はまた聖言の歴史的なものの中に記されているように、カナンの地におけるその後の彼らの生活からも明らかであり、予言者により彼らについて言われたことからも明らかであり、最後には主により彼らについて言われたことからも明らかである。
3.こうした者の大半は今日基督教世界から他生へ入ってくる者たち
天界と地獄495
数千人の中殆ど一人も内なる状態の何であるかを知らず、その状態の中に人間の天界と教会とが在ることを知らず、まして外の行為は意図と思考と同じものであり、意図と思考との中に愛と信仰とがあって、そこから外の行為が生まれてくることは知らない。彼らは教えられても、考えることと欲することとが重要なことであることを悟らないで、ただ話すことと行うことが重要であるとしか考えない。こうした者の大半は今日基督教世界から他生へ入ってくる者たちである。
4.彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われる
天界の秘義2228
全地球の中の凡ゆる人間が『地の凡ゆる国民』により意味されていないことはたれにでも明白である、なぜなら彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われるからである。
天界の秘義3812[2]
全般的に人間自身のものについては、それには二種類のものがあり、一つは奈落的なものであり、他は天界的なものである、奈落的なものであるものは人間により地獄から受け入れられ、天界的なものであるものは天界から、即ち、天界を通して主から受け入れられている、なぜなら悪はすべて、そこから派生している誤謬のすべてと同じく、地獄から流れ入っており、善はすべて、またそこから派生している真理も主から流れ入っているからである。これは信仰の教義から人間に知られてはいるが、しかし、一万人の中一人もほとんどそれを信じてはいないのである。こうした理由から人間は地獄から流れ入っている悪を自分自身に所有し、または自分自身のものとしており、主から流れ入ってくる善も彼を感動させはしないし、従ってそれは彼に帰せられてはいない。人間が悪は地獄から流れ入っており、善は主から流れ入っていることを信じていない理由は、彼は自己への愛の中にいて、その愛がその愛のもとにそのことを携えており、凡ゆるものは流れ入ると言われると極度に憤激する程にもなっているということである。それでこのことが人間自身のものであるものはことごとく悪以外の何ものでもない理由となっている(210、215、694、731、874−876、987、1023、1044、1047番を参照)。しかし人間が悪は地獄から、善は主から発していることを信じるということは彼が自己への愛の中にいないで隣人に対する愛と主への愛の中にいるという事実から来ている、なぜならこの愛はこのような信念を伴っているからである。かくて人間は主から天界的な自分自身のものを受けるのである(このことについては前の155、164、731、1023、1044、1937、1947、2882、2883、2891番を参照されたい)。
6.父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることを百人の中五人も真理として認めていない
真の基督教98
父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義に取り憑かれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。
7.学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいない
霊界日記5245(第8巻)
「私は復活についてマホメット教徒と話して、以下のように言った、即ち、復活は世界の凡ゆる物がまさに死滅するばかりにならない中は起りはしないのであり、その時になると〔死滅するばかりになると〕身体と霊魂とは結合すると、キリスト教国に信じられており、また、学者たちの中では僅かな者しか―一千人の中殆ど一人位しか―人間は死後も生きることを、即ち、人間の形をとって生きることを信じてはいないのである、と。こうした事柄に彼らは驚いて、言った、自分たちは、自分たちが死後も生き、その際人間となることを知っており、自分たちは、世で、かの粗悪なスフィアの中で―自分たちに役立ったその着物をただ脱ぎ去ったに過ぎないのである、と。彼らはキリスト教徒がこうしたことを、それが最大に重要な意義を持っているものであるにも拘らず、知りはしないことを怪しんだのである。
8.古代では非常に多くの者が天使となった、しかしその後の時代では天使となる者はそれほど多くはない
誰でも計算をするなら、毎日数千の人間がそこから去っており、かくて一年以内には、数百万の人間ではなくても、数万の人間が去っており、しかもそれが数千年も以前の最初期から続いていることを知るであろう。これらの人間の凡ては死後霊界と呼ばれている他の世界へ来たのであり、現在も来ているのである。しかしその中の何人が天界の天使となったか、またなりつつあるかは告げることは出来ない。以下のことを私は告げられた。古代では非常に多くの者が天使となった。なぜなら人々は更に内的に、また更に霊的に考え、そこから天界的な情愛を抱いていたからである。しかしその後の時代では天使となる者はそれほど多くはない。なぜなら人間は時が経つにつれて更に外的になり、また更に自然的に考えはじめ、かくて地的な情愛を抱きはじめたからである、と。こうした事柄から先ず、この地球に住んでいた者のみで出来ている天界でさえも偉大なものであることが明白となるであろう。
天界の秘義3812[2]
全般的に人間自身のものについては、それには二種類のものがあり、一つは奈落的なものであり、他は天界的なものである、奈落的なものであるものは人間により地獄から受け入れられ、天界的なものであるものは天界から、即ち、天界を通して主から受け入れられている、なぜなら悪はすべて、そこから派生している誤謬のすべてと同じく、地獄から流れ入っており、善はすべて、またそこから派生している真理も主から流れ入っているからである。これは信仰の教義から人間に知られてはいるが、しかし、一万人の中一人もほとんどそれを信じてはいないのである。こうした理由から人間は地獄から流れ入っている悪を自分自身に所有し、または自分自身のものとしており、主から流れ入ってくる善もかれを感動させはしないし、従ってそれはかれに帰せられてはいない。人間が悪は地獄から流れ入っており、善は主から流れ入っていることを信じていない理由は、かれは自己への愛の中にいて、その愛がその愛のもとにそのことを携えており、凡ゆるものは流れ入ると言われると極度に憤激するほどにもなっているということである。それでこのことが人間自身のものであるものはことごとく悪以外の何ものでもない理由となっている(210、215、694、731、874−876、987、1023、1044、1047番を参照)。しかし人間が悪は地獄から、善は主から発していることを信じるということはかれが自己への愛の中にいないで隣人に対する愛と主への愛の中にいるという事実から来ている、なぜならこの愛はこのような信念を伴っているからである。かくて人間は主から天界的な自分自身のものを受けるのである(このことについては前の155、164、731、1023、1044、1937、1947、2882、2883、2891番を参照されたい)。
天界と地獄4
天界の三分の一を形作っている子供たちは凡て、主は彼らの父であられることを教え込まれて、それを承認もし、信じもし、後には主は凡ての者の主であられ、引いては天と地の神であられることを承認し、信じている。子供たちは天界で成長し、知識を通して完全なものにされて、遂には天使の理知と知恵にも達することは以下の頁に見られるであろう。