批判・批評

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

2.トマス・ア・ケンピス

3.ルイザ・ピッカレータ

4.コンソラータ

5.パラマハンサ・ヨガナンダ

6.ヴァッスーラ

7.シルワン

8.耳こすり

9.とくにかれらの社会の外側にいる者たちを非難するなら

10.聖母から司祭へ

11.スウェーデンボルグ・・・悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難か。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないため

 

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/4巻上P80/236・12/天使館/霊のパン2009年10月第5号/P22

 

 善人は批判しません。決して。彼らは理解します。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P89

 

 そう、だから私も他人に対する批評を聞きたくありません。あなたたちは、私が伝道を続けるために世間にいる間、あのユダとも、また、それと違う人々とも接しなくてはならない。相手が変わっているからこそ、彼らをも主の子羊とするために我慢してつき合わねばならない。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P159/95・2

 

主がペトロに:

「あなたが内にもつ辛辣さは、あなたを、そして彼を傷つけるでしょう。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P298

 

「女遊びや酒盛りのためではなく、パンのために働いている貧乏人を身ぐるみはぐのも、おいはぎも、泥棒に変わりはないと言ってくださいますか」

「ペトロ、私の代わりに話したいのですか」

「いいえ、先生。私だったらうまく話せません」

「それに、おまえの心にある苦さで、あの人だけでなく自分の心も損ないます」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P328

 

役に立たないことばとは、自分では何も助けられないのに、他人の欠点を話す場合です。その場合それぞれ本当であっても、愛に背くことです。同じように強く他人を叱責しながら、助言をしてやらないのも愛に背くことです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P132

 

「(前略)マテオ、あなたに対してこれとちがうやり方だったか」

「いいえ、主よ」

「しかし、本当のことを言いなさい。あなたを納得させたのは、あなたに対しての私の忍耐であったか、それともあなたに対してのファリサイ人たちの苦々しい、とがめであったか」

「あなたの忍耐でした。そのために今、私はここにいます。ファリサイ人たちが、そのいつもの軽蔑の言葉と呪いとをもって逆に私を何もかも軽蔑する人間に変え、その軽蔑のために今までやっていた悪いこと以上の、悪いことをしようとさえ考えた。ことは今、言ったように起こります。罪を犯しているために罪びととして、とり扱われると感じる時、人はその時により固くなるものです。しかし侮辱の代りに愛撫がくる場合、まず、びっくりし、次に涙がこぼれる・・・。そして泣き出す時には罪の土台がくずれて倒れる。人は、慈悲の前に全く裸となって、その慈悲で、自分を覆うようにと心からこいねがうのです」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上P131/445・164

 

「先生、がっかりさせました?」と、ペトロが聞く。

 

「いいえ。でも、批判は常に慎みなさい」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P462/122・9

 

 ファリサイ派の人たちの態度が正当か否かについての論議に火がつく。しかしイエズスは、「批判してはいけません」という他言無用の一言で、これを打ち切る。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P132/596・15

 

もしも今、罪深いことをしているとしても、他人がそれを侮辱してはいけません。攻撃など、もってのほかです。どうするべきか、と、神が遣わされた者は知っています。そして、には、あなた方の目を開くために口を開く権利と義務があります。あなた方と彼らが、いと高き方の思いを知り、あなた方が正義に従って行動できるようにするためです。ほかのだれでもないわたしが話します。なぜなら、わたしの命令によって話すのですから、わたしは話すことができます。なぜなら、あなた方は律法学者やファリサイ派の人びとが罪を犯すのを見て衝撃を受けますが、わたしは一切の罪を免れているからです。でも、彼らが犯す罪を、あなた方も犯す可能性があります。

 

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・4

 

 あなたはたとい他人が公に悪事を行い、または重大な罪を犯すのを見たとしても、自分はかれより善良だなどと思ってはならぬ。なんとなればあなたのその善良な状態は、いつまで続くかわからないからである。

 私たちはみな弱い者である。しかしあなたは自分ほど弱い者はほかにないと思うがよい。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・10・2

 

 私たちが口を慎まぬのは、おもに悪い習慣と、欠点を改めることを怠る結果である。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・11・1

 

私たちはもし他人の言葉や行ないや、自分に関係のないことに、余計な気を使おうとしないならば、大いに心が安らかになるだろう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・14・1

 

 自分をかえりみて、他人の行ないを是非せぬように注意せよ。他人を是非するのは労して効なく、しばしば間違い、罪を犯しやすい。しかし自分の善悪を考え調べるのは、大いに効果がある。

 私たちはしばしば自分のすききらいの感情によって、物事の判断をする。なんとなれば自分を愛する念(おもい)に目がくらんで、たやすく正しい判断を失ってしまうからである。私たちの望みが常に神のみを目ざしているならば、感情の抵抗のために、これほどたやすく心を乱されまい。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・14・2

 

 ところが往々私たちの心のなかに隠れているものがあったり、外からはいってくるものがあったりして、私たちを引きつける。

 多くの人は何かを行うに当たり、ひそかに自分のためばかりを計っていて、しかも自分では知らずにいる。

 そういう人は、物事が思い通りに行くうちこそ、心の安らかさを持っているように見えるけれど、いったん思い通りに行かなくなると、たちまち心がさわいで悲しみに沈んでしまう。

 感情や意見の行き違いから、友だちや、同国人、修道者や熱心な信者までも仲が悪くなることがよくある。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・14・3

 

 久しい習慣は改めにくい。まただれでも自分の見る所以外には出たがらない。だからもしあなたが万物の従うべきイエズス・キリストのおん力よりも、自分の知恵や努力に頼るならば、正しい悟りを得ることはむずかしく、あるいはそれに長い年月を要するだろう。というのは神は私たちが全くご自身に従い、熱烈な愛によってすべての知恵を超越することをお望みになるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・16・2

 

 他人のどんな不足や弱点もがまんするように努めるがよい。なんとなればあなたもわが身にそういう所をたくさん持っていて、他人に辛抱してもらわなければならぬからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・21・2

 

 もしあなたが人々のすることにかまわないならば、人々もあなたのしようとすることを妨げないだろう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・21・3

 

 他人のことに心を使うな。また偉い人々の事件にかかりあうな。

 いつでもまず自分というものに目を注げ。そして愛する人々に忠告する前に、まずことさら自分を戒めるようにせよ。

人に目をかけられずとも、そのために悲しむな。かえって慎みのない行動(ふるまい)をして、神のしもべ、敬虔な修道者に似合わぬようになることを重大と考えよ。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・1

 

万事に終わりを思い、また、どうしてきびしい審判者の前に立とうかと考えよ。かれには何事も隠すことができず、かれは賄賂で手加減もせず、弁解もききめがなく、ただ正義に従って審判したもうばかりである。

 ああ、あわれなおろかな罪びとよ、あなたはあなたの罪をことごとくご存じの神に向かって、なんとお答えするつもりか? あなたは立腹した人間の顔すらこわがるではないか?

 なぜあなたは審判の日に対して準備しないのか? その日にはだれも他人にわびてもらったり、弁護してもらったりすることができず、めいめい自分の重荷だけで精いっぱいなのである。

 いまはあなたの働きもまだききめがある。あなたの涙も神によみされる。あなたの嘆息も聞き入れられる。あなたの痛悔も罪を償い、これを清めることができる。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・25・3

 

 何事においても、自分を省み、自分の行為(おこない)、言葉に注意し、まったくただわたしだけを喜ばせるように心がけ、わたしの外には何ものをも望み求めてはならぬ。

 そして他人の言葉や行為(おこない)につては、かるがるしく是非(よしあし)を言わず、またあなたに任されたことでなければ関係するな。そうすればわずらわしい思いをすることはほとんどなく、あってもきわめてまれであろう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス著/『キリストに倣いて』/3・28・1

 

わたしの子よ、人があなたのことを悪く思い、聞きたくないようなことを言っても気を腐らせてはならぬ。

 あなたは自分のことを、もっと悪い者と考え、自分より弱い者は一人もないと思わなければならぬ。

 あなたはもし霊的生活を送るならば、一時の言葉などに、あまり重きをおかないだろう。

 悪口を言われた時に黙って、心の裡(うち)でわたしに向かい、人の批評に心を乱されないのは、決して少知の業ではない。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス著/『キリストに倣いて』/3・28・2

 

 あなたの平安を人に舌頭(したさき)においてはならぬ。よく言われようが、悪く言われようが、それによってあなたの人物が変わるわけではないからである。

 真の平安、真の栄誉(ほまれ)はどこにあるか? わたしの裡にあるだけではないか。

 人の気に入ることをねがわず、また人の気をそこなうことをも恐れない人は、大なる平安を享(う)けるだろう。

 なんとなれば、心の不安や五官の乱れは、ふしだらな愛とむなしい恐れから生ずるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・46・1

 

第四十六章 悪口されたときは、神を信頼すべきこと

 

 わたしの子よ、しっかりと立って、わたしを信頼せよ。

 言葉はひっきょう言葉に過ぎぬではないか。空中を飛んで来るが、一個(ひとつ)の石を傷つけることすらできないのである。

 もしあなたに罪があるなら、潔く行ないを改めようと思え。

 もしあなたの良心にやましいところがないなら、神のために甘んじてそれを忍ぼうと考えよ。

 あなたはまだ手ひどい打撃に耐えられないのであるから、ときどきせめて言葉ぐらいを忍ぶのはささいなことである。

 ところがそういうささいなことが、なぜあなたの胸にこたえるのだろう? それはあなたがまだ肉的で、必要以上に人にこだわっているからにほかならない。

 なんとなれば、あなたは軽蔑されることを恐れ、自分の過失(あやまち)のために非難されることを好まず、言いわけをして自分を庇おうとするからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・46・2

 

 しかしもっとよく自分の心の内を探ってみよ、そうすればあなたは、世間というものと、人の気に入りたいというむなしい望みとが、まだ自分のうちに生きていることに気がつくだろう。

 なんとなれば、あなたが自分の欠点のためにさげすまれ、恥ずかしめられることを喜ばないうちは、あなたがほんとうに謙遜でもなければ、ほんとうに世に死してもおらず、世もまたあなたに対して十字架に付けられていないことは、明らかであるからである。

 しかしわたしの言葉に耳を傾けよ、そうすればあなたは人々の千万の言葉も気にかけなくなるだろう。

 見よ、人間が悪意で思いつくことのできる、あらんかぎりの悪口雑言をあなたに対して浴びせかけたとしても、もしあなたがそれを聞き流して、わら一本ほどにも思わぬなら、なんの害をあなたに与えることができよう? あなたから頭髪(かみのけ)一筋抜き取ることすらできないではないか?

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・46・3

 

 しかし心を内部(うち)に向けず、神を目の前におかない人は、非難の一言にもすぐに動かされるのである。

 ところがわたしを頼みとして、自分の判断を頼みとしない人は、少しも人間を恐れることがないだろう。

 なんとなればわたしは審判者であって、どんな秘密でも見抜いているし、ことの顛末を知っているし、侮辱を加えた者も加えられた者をも知っているからである。

その言葉はわたしから出たのである、それはわたしが許したから起ったのであって、「多くの心の念いが顕われるため」(ルカ2・35)である。

 わたしは罪ある者、罪なき者を審判くだろう。しかしあらかじめ秘密の審判によってその両方を調べようとしたのである。

 

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P73

 

よろしい、あなたの上に起こる全てのことは、それが悪魔を通してのことであれ、または人間からくるものであれ、あなたのよりよい善のためにわたしが彼らに許し、つかさどっているのだということを覚えていて下さい。それらはあなたの霊魂を、わたしが選んだ最終の状態に導く以外の目的を持ってはいないのです。ですからあなたは目を閉じて、わたしの腕の中に安心していてほしいのです。あなたの周りで起こることを眺めたり調べたりしないで下さい。そうでなければあなたは時間を失うことになり、あなたが召されたあの身分に決して到達することはできないでしょう。それからあなたを囲む人びとに関しては、何も考えないように。彼らには深い沈黙でたいし、善意をもって全てに従いなさい。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P97

 

「隣人と接する安全確実な方法は、彼らがすることをじろじろ眺めないことです。じろじろ眺めること、考えること、裁くことはみな同じことです。隣人をじろじろ眺めるということは、自分自身の霊魂を騙すことになるので、それは自分にも、隣人にも、そして神にとってもよいことではないのです。」

 

 

 

 

4.コンソラータ

 

 

中央出版社/ロレンツォ・サーレス著/『シスター・コンソラータ』―愛の最も小さい道―P87

 

−イエズス−

「実の母は、どんなにその子どもが醜くとも、醜いとは考えない。母の心にとって、その子は常に美しく感じられるものである。私が霊魂に対して感ずるのも、全くそれと同じで、どんなに醜く、汚れ、不潔であっても、私の愛はいつも美しいと感ずるのである。霊魂の醜さを確証されると私は苦しむが、一方だれかが、私の母のような心と同じく感じて、彼らを弁護し、その霊魂は醜くない、美しいのだと断言してくれると、非常に喜ぶのである。霊魂はみな私のものである。だから私は霊魂のために、私の血のすべてを流し尽くしたのだ!

 

 実際にはそうであっても、あらゆるきびしい非難、罵倒、叱責がどんなに母としての私の心を傷つけるか、一方寛大、同情、あわれみがどんなに私の心を慰めるかを、今あなたは悟っただろうか?

 

あなたは決して、一度もだれをも、批判してはいけないし、まただれに対してもきびしいことばをかけてはいけない。その代わりに、私の心を慰め、私から悲しみを取り去って、熱心な愛によって罪人のよい面だけを私に見せなさい。私はあなたを信じよう。そして罪人のために祈るあなたの祈りを聞き入れよう。

 

正義の罰を与えねばならぬ時、私がどんなにいやがっているかを、あなたが知ったら!私の心は人々の忘恩を信じたくないと熱望しているから、あなたがある霊魂はそんなに悪くない。不忠実でない、忘恩でない、と信仰深く、愛深く私をだましてくれたら、すぐに信じる。そのようにして私の心は慰められたいと期待していることをよく覚えておきなさい。私の心は、罰ではなく、あわれみを与えたいと望んでいる!」

 

 

 

 

5.パラマハンサ・ヨガナンダ

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P397

 

政治家には世界は救えません。世界を救うものは、神に対する理解です。神は、人生の目標です。それがなかったら、人が生きてゆく意味もないでしょう。神を愛する者は、あらゆる宗教を通して人々を導いておられる唯一の神を礼拝すべきです。

神はギーターの中でこう言っておられます―

「わたしを信じ求める者がいかなる道を取ろうとも、わたしはその程度に応じてわたしを現す。人がたどる道は信仰形式のいかんにかわらず、すべてわたしに通じている」(バガヴァッド・ギーター4・11)

ですから他人の信仰を批判してはなりません。信仰を持つ人に対しては、だれに対しても心からの愛と尊敬を表わすべきです。

寺院や教会を見たら、そこに宿りたまう神に、心の中で礼拝しなさい。

 

 

 

 

6.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P23

‘89・10・25

 

♡ 主への愛 そして兄弟への愛を通して主の王国をひろげなさい、悪を愛で返し、人生が愛に主導され、愛があなた方の根となりますように。 自分の考え方に警戒しなさい、互いに裁かないように、あなた方のやり方は主のなさり方とは違うのです。 他への批判はさしひかえ 謙虚さによって主をお喜ばせなさい、神の愛はあなた方の最も小さな者たちにさえ 明かされています。 愛する人びとよ、家に帰っても私どもを後ろにおいて行かないで下さい、一緒に連れて行って下さい。 私どもの聖なる現存を感じるようになり、「私」の代わりに「私たち」と言うようにして下さい、皆を祝福します、主が望んでおられるように、一つとなりなさい、天国では一つなのですから 分かれていないように ♡ 平安のうちに 平和の中で暮らすように ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P79

‘92・5・28

 

娘よ、これらすべての集会で 我がメッセージを宣言し こうして私を尊びなさい。 殆ど時間が残されていない。 これらは我が慈悲の最後の日々となる、そこで目覚めていなさい、眠ってしまわないように、サタンに足がかりを与えてはならない。 霊に未熟な判断を 許してはならない。 裁きの日に裁きを受けないよう あなた方自身もうるさく批判する姿勢を 捨て去りなさい。 私は世の光、あなたの家をいつ訪れてもよいように 準備していなさい。

 

 

 

 

7.シルワン

 

 

シルワンの手記/P30

 

 主が常にあなたをごらんになっていると自覚しなさい。隣人を批判したり、傷つけたりしてはならない。自分の顔つきで隣人を悲しませてはならない。これを守るなら、聖霊はあなたを愛し、すべてにおいて助けてくださる。

 

 

 

シルワンの手記/P65

 

 兄弟に暴力をもって当たらないこと。兄弟を絶対に裁かないこと。優しさと愛をもって説得すること。高慢とかたくなさは平安を奪う。愛してくれない人を愛し、その人のために祈れ。そうすれば、あなたの平安は乱されることがない。

 

 

 

 

8.耳こすり

 

 

天界の秘義4657

 

 時々わたしと語りはしたが、しかしひそひそ声で語って、しかもそれもたれからも聞かれないように耳の中で語りたがっているかのように、左の耳に直近に語った霊たちがいる。しかしわたしは以下のように彼らに告げることを許されたのである、即ち、それは他生では正しいことではない、というのはそれは彼らが耳こすりやであって、耳こすりの習慣をつけてしまったことを示しているからである、彼らの非常に多くの者は他人の悪徳や欠点をみとめて、これをこっそりとその交友に話したり、または他の者がその場に居合わせると、耳もとでひそひそ話したりするといった性格の者であって、何ごとでも悪く見たり、解釈したりして、自分自身を他の者にまさったものとしており、そうした理由から、彼らは決して善良な霊たちの仲間になることは出来ないのである、なぜなら善良な霊たちはその思いを隠すようなものではないからである。他生ではこのように話すことは公然と話す言葉よりも大きく聞かれると言われたのである。

 

 

 

 

9.特に彼らの社会の外側にいる者たちを非難するなら

 

 

天界の秘義4805

 

内的な友情の社会

 

 

 

天界の秘義4805[2]

 

もし彼らが彼らの生命に相応している物以上の物を憧れて求めるなら、特に彼らの社会の外側にいる者たちを非難するなら、彼らは天界を持つことは出来ない、そうした場合彼らの社会は内的な友情の社会となって、その社会は、前に言ったように、彼らが他の者らに近づくとその者から霊的な情愛の祝福を奪ってしまうような性質を持っているのである、なぜなら彼らはその者たちを選ばれた者、生きている者ではないと認めており、こうした考えが伝えられると、それは悲哀をもたらすが、しかしながらその悲哀は他生の秩序の法則に従って彼ら自身に帰ってくるのである。

 

 

 

 

10.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1987.3.4

 

 すべての人に、愛と謙遜な奉仕の精神をもって善を広めるためだけ話すように舌をおさえ、こうして、あなたたちのうちにも、まわりにも、沈黙を守りなさい。

 批判や不平や悪口、ざん言をさけなさい。

 人をさばき、有罪にしやすいいざないに負けてはなりません。

 

 

 

 

11.スウェーデンボルグ・・・悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難か。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないため

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。何らかの悪を考えながらも、「私はこれをやりたい気持ちであるが、然しそれは罪である故に、やらない」と語らせるところの、容易な種類の悔改めがある。この方法によって地獄からの誘惑は抵抗を受け、その再度の試みは妨げられる。悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易である。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難であろう。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないためである。霊界に何人がそのように自らを制御し得るかと尋ねられ、そのことの出来る人は砂漠の鳩のように稀であった。或る者はそれが出来ると語ったが、自分達を点検し、自分の罪を神の前に告白することは不可能であることを認めた。確かに、宗教的な動機から善を為す凡ての者達は、実際的な諸悪を避けるが、しかも彼らは、自らは善を為しているために悪からは自由であり、且つその悪を隠すと想像し、意志の隠れた諸々の源泉について、反省することが極めて稀である。然し、親愛なる読者よ、仁慈に於ける本質的な事柄は、聖言、十誡、洗礼、聖餐、理性それ自身によって教えられている如く、諸々の悪を避けることである。何故なら、自らを点検しない限り、どうして、悪を避けて、これを放逐することが出来ようか。而して、善は、それが内的に浄められない限り、如何にして真に善となり得ようか。私は敬虔な人と、健全な理性を持つ人は凡てこれを読む時は、賛成し、これが真理であることを認めることを知っているが、それに従って行動する者は僅かしかいないことをも知っているのである。