天界の秘義3708

 

 「東」の意義は澄明な、かくて完全な善

 

 

同3708

 

東は主を意味し、主から発している愛と仁慈との善を意味している(101,1250,3249)。

 

 

天界の秘義1249

 

聖言では『東の山』により―以下の記事に示されるように―主から発している仁慈が意味されているという事実から認めることができるのであり、またそのことは教会の凡ゆる事柄はその終局のもの、または目的として、仁慈を目指しているという事実からも認めることができよう。このすべてから『メシャ』が真理を意味し、またはその進行が開始される末端を意味しており、『セパル』が善を意味し、そのことによって『東の山』である仁慈を意味し、またはその進行が向って行く末端を意味していることが生まれてくるのである。

 

 

天界の秘義1250

 

『東の山』が仁慈を意味しており、事実主から発している仁慈を意味していることは、聖言における『山』の意義から明白であって、それは前に示したように(795番)、主に対する愛であり、隣人に対する仁慈である。『東』が主を意味し、また愛と仁慈にぞくしているところの、主から発した天的なものを意味していることは、以下の記事のみでなく、また前にも認めることができよう(101番)。エゼキエル書には―

 

  そのケルビムはその翼をあげると、エホバの栄光はその都の真中から上って、その都の東に在る山の上にとどまった(11・22,23)。

 

 ここには『東にある山』は、愛と仁慈とにぞくして、主のものであるところの天的なもの以外には何ごとも意味していないのである、なぜなら『エホバの栄光がその上にとどまった』と言われているからである。さらに―

 

  かれはわたしを門へ、東の方に向いている門へさえもつれてきた。すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた(エゼキエル書43・1,2)。

 

 ここにも『東』は同じような意義をもっている。

 

[2]さらに―

 

  かれは東の方に向いている聖所の外の門の方からわたしを連れ帰った。それは閉められた。するとエホバはわたしに言われた、この門は閉められる、それは開けられはしない、またたれ一人そこから中へ入りはしない、ただイスラエルの神エホバのみがそこから中へ入るであろう(エゼキエル書44・1,2)。

 

 ここにも同じく『東』は、主のみのものであるところの愛にぞくした天的なものを意味している。さらに―

 

  君たる者がエホバにむかって任意の捧げ物として、任意の捧げ物を、燔祭を、平安の捧げ物を捧げるときは、かれのために東に面している門を開かなくてはならない、かれは安息日に行うように、その燔祭を、その平安の捧げ物を捧げなくてはならない(エゼキエル書46・12)。

 

 これも同様に主に対する愛にぞくしている天的なものを意味している。

 

[3]また他のところには―

 

  かれはその家の戸の方へわたしをつれかえって、その中に入れた、すると見よ、水が東の方の家の敷居の下から流れ出た、その家は東の方へ面していた(エゼキエル書47・1,8)。

 

 これは新しいエルサレムを語っており、『東』は主を意味し、かくて愛にぞくした天的なものを意味し、『水』は霊的な事柄である。そのことがわたしたちが今とり扱っている記事の中で『東の山』により意味されているのである。さらにシリアに住んでいた者たちは『東の息子たち』と呼ばれたのであり、そのことについては、今後主の神的慈悲の下に述べよう。

 

 

天界の秘義3249

 

「東方の東の地へ」(創世記25・6)。

 

これは、信仰の善へ、を意味していることは、以下の記事にとり扱われる『東』と『東の地』の意義から明白である。『東の地』により意味されているところの信仰の善は聖言に隣人に対する仁慈と呼ばれているもの以外のものではなく、また隣人に対する仁慈は主の戒めに従った生活以外の何ものでもない。これが『東の地』により意味されていることは前に見ることができよう(1250番)、それで信仰の善にかかわる知識の中にいた者たちは『東の息子たち[東の子ら]』と呼ばれたのである。東の息子たちの地はアラムまたはシリヤであった。(アラムまたはシリヤは善にかかわる知識を表彰していることは前の1232、1234番に見ることができ、アラム ナハライムまたは川々のシリアは真理にかかる知識を表象している、3051番)。

 

 

天界の秘義3762〔3〕

 

『東の息子たちの地』により愛の諸真理が意味され、かくて善を志向する真理の諸知識が意味されていることは、『息子』の意義が真理であり(489,491,533,1147,2623番を参照)、『東』の意義が愛であることから認めることが認めることができよう(101,1250、3249番)。かれらの『地』はかれらのいる土地である。

 

『東の息子たち』は、真理と善の諸知識の中におり、従って愛の諸真理の中にいる者たちであることは聖言の他の記事からもまた認めることができよう。例えば列王記上には―

 

ソロモンの知恵は東の凡ての知恵にも、エジプト人の知恵にもまさって増大した(4・30)。

 

ここでは『東の息子たちの知恵』により真理と善との内的な諸知識が意味され、かくてその中にいる者たちが意味されているが、しかし『エジプト人の知恵』により、それよりは低い度に在るところの善と真理の記憶知が意味されているのである(『エジプト人』により記憶知が全般的に意味されていることは、1164、1165、1462番に見ることができよう)。