東風
天界の秘義842
「神は風を地に吹かせられた、それで水は減った。」これは凡ての物を秩序正しく処理されたことを意味することは聖言の『風』の意義から明らかである。霊はことごとく、その善い者も、悪い者も『風』にたとえられ、なぞらえられ、また『風』とも呼ばれ、原語では『霊』は『風』を意味している同じ言葉により表現されている。(前に言ったように、ここでは『減った水』である)試練においては、悪霊どもはそのいくたの幻想とともに群をなして流れ入り、人間の中に類似の幻想をかき立てることにより、洪水を引きおこすが、これらの霊が、またはかれらの幻想が消散すると、それは聖言では『風』により、実に『東風』により為されたと言われている。
[2]わたしはくり返された経験から知ったのであるが、試練を受けている間の、また試練の騒乱または大水が止んだ折の一人の人間の場合と人間全般の場合とは同じものである、なぜなら霊達の世界の悪霊らは時として共に結合して隊を作り、それにより擾乱をひき起して、ついには他の組の霊たちにより追い散らされるが、この霊たちは大半右の方からまた東の方向からやってきて、かれらに恐怖と驚愕の念を注ぎこむため、かれらは逃亡以外には何事も考えなくなってしまう。かくて共になっていた者らは四方に追い散らされ、それにより悪い目的のために形作られた霊どもの社会は解体されてしまう。このようにかれらを追い散らしてしまう霊たちの群は東風と呼ばれているが、またその他にも追い散らす無数の方法が在って、それらもまた『東風』と呼ばれている、これについては主の神的慈悲の下に後に記すことにしよう。このように悪霊どもが追い散らされると、擾乱と混乱の状態につづいて静謐または沈黙が来るが、それはまた試練におかれた者の実状である、なぜなら試練におかれている間はかれはこうした組を作った霊どもの真中にいるが、しかしかれらが追い払われ、または追い散らされると、そこにいわば平穏といったようなものが生まれ、それは凡ゆる物を処理して秩序づける始まりである。
[3]何かが秩序の状態に帰する前には、いくたの物が混乱した塊りに、または混沌としたようなものになり、かくして良く密着[結合]していない物は分離してしまい、それらが分離すると、そのとき主がそれらのものを秩序づけられるということは極めて普通のことである。こうした経過は自然界に起きることと比較することができおう。そこでは凡ゆる物は全般的にもまた個別的にも先ず混乱した一つの塊りとなって、その後で秩序づけられるのである。かくて、例えば、大気中に荒しが起って、凡て異質のものを消散させない限り、空気は決して平穏になることはできず、害毒が堆積することにより致死的なものとなってしまうのである。人間の身体にあっても同様であり、血液の中の凡ゆる物が、その異質なものも、同質なものも、絶え間なく、継続的に共になって一つの心臓の中へ流れ入って、そこに混合しない限り、その液体が凝結して致死的なものとなり、その液体は決して個々に明確に処理されてそれぞれ用を果すことはできないであろう。人間の再生の経過もまた同じである。
[4]『風』は、とくに『東風』は諸々の誤謬と悪を、またはそれと同一の、諸々の悪霊と魔鬼を追い散らし、その後秩序をもって処理すること以外には何事も意味しないことは聖言から認めることができよう、例えば、イザヤ書には―
あなたらが彼らをあおぐと、風は彼らを吹き去り、旋風が彼らを吹き散らすであろう、あなたはエホバを喜び、イスラエルの聖者を誇るであろ(41・16)。
ここには追い散らすことは『風』に、吹き散らすことは『旋風』にたとえられ、それ[風、旋風]はいくたの悪について述べられており、かくて再生した者はエホバを喜ぶのである。ダビデの書には―
見よ、王らは集まった、彼らはともになってすぎて行った。彼らはそれを見た、その時彼らは驚いた、彼らは取り乱した、彼らは急いで去った。そこで彼らは震えにおそわれ、産みの苦しみにある女の苦痛にも似た苦痛におそわれた。あなたは東風をもってタルシシの船を砕かれる(詩篇48・4−7)。
ここには東風により引き起される恐怖と混乱とが記されているが、その描写は霊たちの世界に起ることからとられており、そのことが聖言の内意に含まれているのである。
[5]エレミヤ記には―
彼らの地を驚きとなそう、わたしは彼らを敵の前に東風で散らすように吹き散らそう、わたしは彼らの禍の日にその頚を眺めて、その顔は見ない(18・16,17)。
ここにも同じく『東風』は諸々の誤謬を消散させることを表している。出エジプト記に記されているように、イスラエルの子孫が紅海を渡って行くために、紅海が東風により乾せ上がったが、その東風により表象されているものもまたこれに類似していたのである―
エホバは夜中強い東風で海を退かせ、海を乾いた地とされた。それで水は分かれた(14・21)。
紅海の水の意義は現在の記事の洪水の意義に類似していたのであって、そのことは以下の事実から明白である、すなわち(邪悪な者たちを表象している)エジプト人はその中に溺れ死んでしまった間に、(ここの『ノア』のように、再生した者たちを表象している)イスラエルの子孫はその上を越えて行ったのである。『洪水』と同じく『紅海』によっても地獄におちることが表象され、同じくまた試練が表象されており、かくて『東風』により、水を、すなわち、地獄に投げこむもろもろの悪を消散させることが意味されており、そのことはかれらがそこを越えて行った後モーセの歌った歌により明白であり(出エジプト記15・1−19)、またイザヤ書からも明白である―
エホバはエジプトの海の入江を全くからし、その力ある風をもって御手を海の上に振り、その川をうって七つの流れとなし、その上をくつもぬらさずに人を進み行かせたもうであろう。かくてその民の中で残る残りの者のためにアッスリヤから来ている一つの大道があるであろう、イスラエルがエジプトの地から上って来た日にかれのために一つの大道があったようになるであろう(11・15,16)。
ここに『民の中で残る残りの者のためにアッスリヤから来る大道』は秩序をもって処理することを意味している。