1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

4.ルイザ・ピッカレータ

5.デボラ

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇55・7−9

 

わたしは言います。

「鳩の翼がわたしにあれば

飛び去って、宿を求め

はるかに遠く逃れて

荒れ野で夜を過ごすことができるのに。

烈しい風と嵐を避け

急いで身を隠すことができるのに。」

 

 

 

雅歌2・14

 

岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ

姿を見せ、声を聞かせておくれ。

お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。

 

 

 

マタイ10・16

 

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/真の基督教144

 

我々はイエスが洗礼を受け給うた時天界が開け、ヨハネは聖霊が鳩のように降るのを見た(マタイ3・16、マルコ1・10、ルカ3・21,22、ヨハネ1・32,33)という記事を読むが、これは洗礼は再生と聖化とを意味するために起こったのである。鳩もまた同様の意義をもっている。何人でも鳩は聖霊でなく、また聖霊は鳩ではないことを認めることが出来よう。鳩はしばしば天界に見られ、それが見られる時、天使達はその鳩は近くに居る者達の再生と潔めとにかかわる情愛と思考との象徴であることを知るのである。それ故、彼らはその人々に近づき、何か他の主題について彼らと話を交えるや否や、その鳩は消え去って行くのである。このことはヨハネがシオンの山に子羊を眺めた時のように(黙示録14章およびその他)、預言者達によって眺められた多くの事柄にあっても同様である。何人でも、主はその子羊でなく、又その中にも在し給わず、それは彼の無垢の象徴であった事を認めることが出来る。この事は明白に、主が洗礼を受け給うた際に見られた鳩によって、また天界から聞えてきた「是は我が愛しむ子なり」との声によって、三一性は三人格から成っていると結論づける者達の過誤を示している。

 

 

 

天界の秘義869

 

 8節「彼は土地の面から水が減ったか、否かを見るために、彼から鳩を放った。」『鳩』により再生することの出来る彼のもとにある信仰の幾多の真理と善が意味され、『見るために彼から鳩を放った』は信仰の諸真理と諸善とを受け入れる状態を意味し、『水が引いたか否か』は妨害する諸々の誤謬を意味し、『土地の面』は教会の人間の中に在るものを意味しており、『土地』と言われているのはこれが人間が教会となる最初の状態であるためである。

 

 

 

天界の秘義870

 

 『鳩』により再生することの出来る者のもとにある信仰のいくたの真理と善とが意味されていることは聖言における鳩の意義から、特にイエスが洗礼を受けられたとき、その上に降った鳩の意義から明白であり、それについては以下のように記されている―

 

  イエスは洗礼を受けられたとき、すぐに水から出られた 見よ、天は開かれて、かれは神の霊が鳩のように降って彼の上に来るのを見られた(マタイ3・16、またヨハネ1・32、ルカ3・21、22、マルコ1・10、11)。

 

 ここでは『鳩』は信仰の聖いもの以外には何ごとも意味しておらず、『洗礼』それ自身は再生以外には何ごとをも意味してはおらず、かくて起こらねばならなかった新しい教会の中では、主から再生により受けられる信仰の真理と善とが意味されたのである。類似の事柄が、幾多の記事から明らかであるように、ユダヤ教会の生贄とはん祭のために捧げられた若い鳩、または山鳩により表象され、意味されたのであり、そのことについてレビ記を参照されたい(1・14−終り、5・7−10、12・6、8,14・21、22、15・14、29、30、民数記6・10,11、ルカ2・22−24)。それらにはこのような意義があることは、たれでもそれらは何かを表象しているに違いないと考えるのみで悟ることが出来よう、なぜならもしそうでないなら、それらは無意味であって、いかような点でも神的なものではなくなるからである、なぜなら教会の外なるものは生命を持たないものであるが、しかしそれは内なるものから生きており、内なるものは主から生きているからである。

 

 

 

天界の秘義870[2]

 

『鳩』は全般的に信仰の知的なものを意味していることもまた予言者の書の中に明白である、例えばホゼヤ書には―

 

 エフライムは心がなく愚かなはとのようになるであろう、彼らはエジプトを呼んだ、彼らはアッシリヤへ行った(7・11)。

 

さらに、エフライムについては―

 

 彼らはエジプトからきた鳥のように、アッシリヤの地から来た鳩のように、恐れるであろう(11・11)。

 

 ここでは『エフライム』は理知的な者を、『エジプト』は知識を持っている者を、『アッシリヤ』は合理的な者を、『鳩』は信仰の知的なものに属したものを意味しており、ここにもまた霊的な教会の再生が主題となっている。さらにダビデの書には―

 

 ああエホバよ、あなたの山鳩の魂を野生の獣に渡し給うな(74・19)。

 

 ここでは『野生の獣』は仁慈を何ら持たない者を、『山鳩の魂』は信仰の生命を意味している。鳥について前に言われ、示されたことをまた参照されたい、すなわち、鳥は知的な事柄を意味しており、優しい、美しい、清い、有益な[有用な]鳥は知的な諸真理と諸善を意味しているが、しかしここでは鳩に対立している烏といった凶暴な、醜悪な、不潔な、無益な鳥はそれに対立したものを、すなわち、誤謬を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義875

 

 「しかし鳩はその足の裏のための休息[休み]を得なかった。」これが信仰の善と真理とが一つとして未だ根を張ることが出来なかったことを意味することは、『鳩』の意義が信仰の真理であり、『足の裏のための休息[休み]』の意義が根を張ることであることから明らかである。それが根を張ることが出来なかった理由は以下に、すなわち誤謬が依然満ち溢れていたということにより述べられている。しかしいかにしてこうしたことがあるかは霊的な人の再生はいかように行われるかが知られない限り理解されることは出来ない。

 

 

 

天界の秘義875[2]

 

この人のもとでは信仰のいくたの知識が主の聖言から、またはそこから発した教義的な物からその記憶の中に植えつけられ、それによりかれの知的な心が教えられねばならないのである(古代教会は最古代教会に啓示されたものから聖言から発した教義的なものを得ていたのである)。しかし誤謬がその中に満ち溢れている限り、信仰の諸真理は、いか程播かれても、根を張ることは出来ないのである。それらは表面にのみ、すなわち、記憶の中にのみ止まっており、土地もまた、前に言ったように、誤謬が現れてこない程に振り落とされない中はその真理に適したものとはならないのである。

 

 

 

天界の秘義875[3]

 

この人間における真の『土地』はその知的な心の中に整えられるのであって、それが整えられると、仁慈の善が主によりその中へ植えつけられ、仁慈の善から良心が植えつけられ、この良心から彼はその後行動するのである、すなわち、それを通して主は信仰の善と真理とを働かせられるのである。かくして主はこの人間の知的なものをかれの意志に属したものから明確に区別され、かくてそれらは決して結合はしない、なぜならもしそれらが仮にも結合するようなことがあるなら、彼は永遠に滅びないわけにはいかないからである。

 

 

 

天界の秘義875[4]

 

最古代教会の人間のもとでは、天的な天使たちのもとにおけるように、意志の事柄は理解の事柄に結合していたのである。しかしこの古代教会の人間のもとではそれらは結合していなかったのであり、またいかような霊的な人間のもとでも結合しないのである。その人間の行う仁慈の善はその者の意志に属しているかのように実際は見えるかもしれないが、しかしそれは外観と迷妄[妄想]にすぎない。彼の行う仁慈の善はことごとく主のみのものであり、意志を経て発しているのではなく、良心を経て発しているのである。若し主が仮にいか程僅かでも人間を放任されて、その人間がその人間自身の意志から行動するままになされるなら、彼は善を行わないで、憎悪と復讐と残酷から悪を行うであろう。

 

 

 

天界の秘義875[5]

 

そのことは霊的な人が考え、話す真理にも言われるのであって、その者が仮にも万一良心から考え、話さないとするなら、かくて主のものである善から考え、話さないとするなら、地獄の悪魔が自らを光の天使によそおって真理を考え、話すようにしかそれを考え、話すことは出来ないのである。この凡ては他生に極めて明白である。これらの事からいかようにして再生が行われるか、霊的な人の再生はいかようなものであるかが明白である、すなわち事実それは彼の意志の部分から知的な部分が良心により分離することであり、良心は主により彼の知的な部分に形作られるのであって、何であれ良心から行われるものはことごとく恰も人間の意志により行われているかのように見えるが、事実は主により行われているのである。

 

 

 

神の愛と知恵134

 

 方位は全天界にも天使にもこのようにいわば刻みつけられているゆえ、天使は世の人間とは異なり、何処に行こうと、己がホームと己が住所を知っている。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P267

‘89・9・28

 

では耳を開いて我が婚姻の歌を聞きなさい、あなたが何で出来た者かを知っている: 塵と灰、頭を持ち上げて その暗やみから出て来なさい、私を見るように・・・ 私はあなたを甦らせた者、霊魂をおだやかな静けさの中に置く者、腕の中に包んで霊魂を護っている、我がもとにまで引き上げようとして すべてを与えた。 私は無限の慈しみを現し 我が杯から飲むのを許して好意を示した、そうであろう? 私を喜ばせようと努めなさい、娘よ、我が道を探し求めなさい、私の道は聖である、そこで何でもないことに不平を言わないように気をつけなさい、いつもそばにいて 道を案内して来た、常に単純な心で私のもとに来なさい 我がヴァッスーラ、あなたの地上の日々は過ぎ去る影、消えてなくなる一時的な通り道でしかない。 地上のものは何も残らない。 では私の金言を守り 掟に従いなさい、我が最も貴重な宝石をゆだねた、それを護り、抱きしめ しっかりと身につけておくように、我が平和と愛の十字架は霊魂にとって甘美な苦悩となろう、我が十字架を分かち合いたいという思いは 私と同様あなたのうちにも熱烈に燃え上がろう、我が十字架にたいする渇きは 私と同じように大きくなろう。今はもう私が愛をどう現すかを悟ったようだ、そう、あなたが苦しむのを許している。 霊魂よ! あなたの不毛を 溢れる泉とした、私に対する冷淡さを優しさに変えた、無関心を 我が十字架にたいする情熱に、無気力を あなたの故郷と御父にたいするノスタルジアに変えた、霊魂よ 歓びなさい! 王はあなたの亡骸を包んでいた布をほどき ラザロを復活させたように あなたを甦らせた: あなたを所有するために、

 

ああ イエス、あなたは本当に選り好みなさらないお方ですね!

 

私があなたを選んだ ♡ 一緒に天の王国を嗣ぎ それを分かち合ってもらいたい。 私のするわざはどれも我が栄光のため ♡ 見なさい! あなたはもう自由になった 我が鳩よ、私はあなたの主であり あなたは我がもとに常にやって来て 聖心のうちに いつでも憩いを見出すであろう、我が聖心はあなたの巣 そして避難所、見たであろう? あなたの主人が誰であり 何を求めているかを見分けるように訓練した ♡ あなたの主人 そして王はこれからは愛をあなたに求める、来なさい、我が愛を返しなさい、鏡のように我が愛を反射しなさい、愛ゆえに 私を愛してほしいがためにあなたを創造した、決して何があろうとこれを忘れないように ♡♡♡

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

天使館/ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P65

1900年12月3日

 

以上のことを三人の方たちが話しているあいだ、私は愛するイエスを非常によく区別していました。その方の中に人間性の姿を認めていたからです。イエスのおかげでのみ、私は彼ら三人の存在のみ前に留まる勇気を保っていました。そうでなければ、いったい誰があえてそれをしたでしょうか? 被造物を神性の玉座にまで昇らせ、私たちに三位一体との会話を許すことによって、恩恵という賜物を獲得することができるようにするためにイエスがお取りになった人間性こそが、我ら被造物との接触の可能性を開いてくださったのです。なんと幸せなひとときを味わい、なんと多くの事を私は理解したことでしょう! それを書き表すためには、いつか私の魂が身体から解放されて、イエスのもとにいるときに書く必要があります。事実、身体の中に閉じ込められているときには、牢獄の暗闇、神秘的太陽からの遠距離、主を見ることができない苦しみなどが、何も書けないようにしてしまいます。とにかく私はこの惨めな身体に閉じ込められ、つながれて、苦しみのうちに生きることを余儀なくされています。弱く、牢屋に入れられた者として生きているこの惨めな罪人を、主よ、同情してください。あなたの元に飛んでゆき、もう帰ることがないように、どうかこの牢獄の壁を早く打ち壊してください。

 

 

 

 

5.デボラ

 

 

世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P151

 

現在彼女は、第二の聖霊降臨のために働き、全ての事の刷新の仕事を行いながら、人類をさらに新しい出会いのために準備しているのである。彼女は唯一の源泉、真のエクメニズムの土台、その母の眼差しのもとに、あらゆる民とあらゆる人間を集めながら、古代からの敵に対して勝利をおさめる『太陽を着た女性』である。彼女はミリアム、まことの平和の清い鳩、豊かに葉の茂ったおん父のオリーブの実、平和な私の聖心の母である。