畠
天界の秘義246
『畠』の言葉は教会または再生した者に用いられるからである。
天界の秘義368
畠[野]は教義を意味し、従って凡て信仰と仁慈との教義に属した物を意味することは聖言に明らかである、例えばエレミヤ記には―
天界の秘義932
『種を蒔く時と取入れ』は、再生することの出来る人間を意味し、引いては教会を意味していることを聖言から確認する必要は無い、なぜなら以下のことが極めて再三記されているからである、即ち人間は畠に譬えられ、またそれになぞらえられ、かくて種を播く時、または種時に譬えられ、主の聖言は種子に、その結果は生産物に、または取入れに譬えられているのである―こうしたことはその言葉の形式がこのようにしたしいものにされているため、たれでも把握出来るであろう。全般的にここには凡ゆる人間が取扱われているのである。即ちその者が教会の内にいようと、または外にいようと、主の聖言に親しんでいようと、親しんでなかろうと、主から種子を播かれることは決してその者に欠けることがないのである。主によって播かれた種子が無くては、人間は決して善を行うことが出来ない。仁慈の善はことごとく、異邦人のもとでさえも、主から発した種子であり、これらの者のもとには教会に在るような信仰の善は存在していないけれど、それでも、信仰の善が発生する可能性が在るのである。なぜなら異邦人がこの世で仁慈に生きることを慣わしとしているように、仁慈に生きた異邦人は他生で天使たちから教えられると基督教徒よりも遥かに容易に真の信仰の教義と仁慈の信仰とを掻き抱き、また受けるからである。これについては、主の神的慈悲の下に後に述べよう。
天界の秘義2969
「エフロンの畠」。これは教会に属したものを意味していることは以下から明白である、すなわち、『畠』の意義は教会であり、また教義であり(368、2968番を参照)、『エフロン』の表象は教会に属している信仰の善と真理とがその許で受けられることが出来た人たちであり(2933番)、そこから『エフロンの畠』は教会に属したものを意味している。
天界の秘義2971
「畠とその中に在った洞穴」。これは信仰の善と真理との方面、を意味していることは、『畠』の意義が教会であり、また教会の善そのものであることから明白である。
天界の秘義3310
『野[畠]の男』が教義的な事柄から発した生命の善を意味していることは、『野[畠]』の意義から明白である。聖言には『大地』または『地』、『土地』、『野[畠]』が再三言われていて、『大地』または『地』により、それが善い意味に用いられているときは、諸天界と地上にある主の王国が意味され、かくて地上の主の王国であるところの教会が意味されている。それに似たことが『土地』によっても意味されているが、しかしもっと限定された意義に用いられているのである(566、662、1066−1068、1262、1413、1733、1850、2117、2118、2928番)。同じことがまた『野[畠]』によっても意味されているが、しかし前よりもさらに限定された意義に用いられているのであり(368、2971番)、教会は教義的な事柄が生命の善を目標としてそれに関わりを持っていない限り教義的なものからは教会ではないのであり、または、それと同一のことではあるが、この教義的なものが生命の善と連結していない限り、教義的なものからは教会ではないため、それで『野[畠]』により主として生命[生活]の善が意味されており、そしてこれが教会のものとなるためには、この善の中に植えつけているところの聖言から発した教義的な事柄が存在しなくてはならないのである。教義的なものがなくても実際生命の善は在るには在るが、しかし未だ教会の善は存在してはおらず、かくて未だ真に霊的な善は存在してはいないのであり、単にそれはそのようなものになる能力をもっているにすぎないのであり、例えば聖言を持ってはおらず、それで主を知らない異邦人達の間の生命の善の場合がそれである。
真の基督教350
信仰の諸真理の永遠に続く増大は果てしなく子孫が繁殖する人間の種に、或は終わりの無い巨万の植物を産出する畠或は庭の種子に譬えることが出来よう。聖言では種子は真理を、畠は教義を、庭園は智慧を意味している。人間の心は霊的な、自然的な真理が、無限に増大することの出来る種子の如く植えられる庭園に似ている。人間はこれを絶えずその光と熱と出産力とをもって臨在し給う主の無限性から取得している。