婢
天界の秘義1920
「ごらんなさい、あなたの女中はあなたの手の中にあります。」これはみごもった合理的なものが善に接合された真理の情愛の力の中に[支配下に]あったことを意味していることは『手』の意義が(前の878番に説明された)力であり、『エジプト人ハガル』の意義が(これもまた前に述べたが)記憶知の情愛であることから明白である。内なる人が外的な人のいくたの記憶知の情愛の生命の中へ流入することにより合理的な者がみごもった後では、そのときはまた『女中[下婢]』により、胎の内にあったかの可憐な合理的なものが意味されているが、しかしそれが生まれて、成長したときは、以下の記事にとり扱われているイシマエルにより表象されるのである。主は主の内にあった合理的なものに対する無上の支配権を持たれたことは、またそれを主御自身の力により征服されたことは、やがて言われることから見られるであろう。
天界の秘義4360
『下婢』の意義は記憶知に対する、また外なる人のものである知識に対する情愛であり(前の4344番を参照)、従って感覚的な記憶知であり(そのことについては以下を参照)、『子供たち』または『息子たち』の意義は真理であり(4357番を参照)、『身をかがめること』の意義は服従である。『下婢』により意味されている感覚的な記憶知とは世の外なる事柄の記憶知であり、それで凡ての知識の中でも最も全般的なものであり(4345番)、外なる感覚を通して直接に入り、感覚そのものにより認められるものである。小さな子供たちはすべてこれらの知識の中にあり、さらにそれらのものは霊的な事柄の知識に面として仕えているのである、なぜなら霊的な事柄は自然的な事柄に基礎づけられ、その自然的な事柄の中に表象されているからである。(前の4345番に示されたように)、真理は秩序に従って善に連結され(そのことは)さらに全般的なものから初まるため、それでここに先ず下婢とその子供たちが身をかがめた、すなわち、服従したと言われているのである。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P377
「マリア、私はこれを望む。私のよい婢を。今日は昨日よりも、明日は今日よりも・・・。私が『マリア、これでよい。もうあなたの休みの時が来た』という時まで」
「そうしたら主よ、あなたが私を呼んでくださるのを望みます。私の兄を墓の外へ呼ばれたと同じように。 おお! この世においての命より外へ!」
「いいえ、命の外ではなく、あなたを命へ。“あなたを命へ、まことの命へいつか呼ぶでしょう”肉体と、この世という墓から外へあなたを呼ぶでしょう。あなたを、あなたの魂の主との婚姻へ」