聖ヴィアンネの精神P47

 

神様と一致している霊魂の中は、いつも春です。

 

 

 

アルスの司祭P48

 

神に結ばれた心には、いつも春が来る。

 

 

 

六連島おかる

 

ああうれし みのりの風に身をまかせ いつもやよいのここちこそすれ

 

 

 

天界の秘義34[]

 

愛のない信仰の生命は、何物も成長しないで、凡ての物が麻痺し、死んでしまう冬の時のよう熱の無い太陽の光に似ているが、それに反し愛から発した信仰は、太陽の実を結ばせる熱のために凡ての物が成長し、繁茂する春の時の太陽の光に似ている。

 

 

 

天界の秘義1622

 

 楽園の光景については、それらは驚嘆に価する。楽園の庭園が無限の広がりをもって目に示され、それは凡ゆる種類の木から成っていて、思考の凡ゆる観念[考え]をも凌駕している程にも非常な美と楽しさとを持っており、またこれらの庭園はそこに居る者たちがそれらを見るのみでなく、肉眼が地上のそうしたものを認めるよりも遥かに生々とあらゆる微細なものを認めている程にも生命をもって外なる視覚の前に示されているのである。私はこのことについて疑念を差し挟まないために、楽園の生活を送っている者たちが居る地域に導かれて、それを見たのである。それは右の眼の隅の前方の、やや上の方に存在している。そこの在りと凡ゆるものは驚嘆すべき壮麗さと変化とをもって、その最も美しい春の時と花の中に現れており、その一切のものは、それが表象的なものであるため、生きているのである、なぜなら天的な霊的なものを表象し、意味していないものは何一つ存在していないからである。かくてそれらは楽しさをもって目を歓ばせるのみでなく、また心を幸福感で満たすのである。

 

 

 

天界の秘義1726

 

「サレムの王」。これは内的なまたは合理的なものの方面の平安の状態を意味していることは『サレム』の意義から明白である。原語では『サレム』は『平安』を、また『完成』を意味しており、かくてそれは平安の状態と完成の状態とを意味している。平安の状態は主の王国の状態であり、その状態の中では主の天的な霊的なものはその朝の中に、その春の中に存在しているように存在している、なぜなら平安は早朝の暁に、春時の春に似ているからである。暁と春とはそのとき感覚に触れる凡ゆるものを喜びと歓喜とに満ち満ちるようにするのであり、各々のものは情愛を暁と春時の全般的なものから汲み出している。主の王国の平安の状態も同様であり、その平安の状態にあっては天的な霊的なものは凡ていわばその朝のまたは春の花と微笑の中にあり、すなわち、その幸福そのものの中にあるのである。そのように平安の状態は凡ゆるものを感動させている、なぜなら主は平安そのものであられるからである。

 

 

 

天界の秘義2736

 

 わたしは純粋な結婚愛は無垢それ自身であってそれは知恵の中に宿っていると告げられたのである。結婚愛に生きた者たちは天界では他の凡ての者にもまさって知恵の中にいるが、それでもかれらは他の者から観察されるとき、花と春の年頃の小さな子供のようにも見え、そのとき起ってくるものは何であれかれらには楽しさと幸福である。かれらは無垢の天界と呼ばれている最も内なる天界にいるのである。この天界を通して主は結婚愛に流れ入られており、その天界から来ている天使たちはその愛の中にいる者たちのもとに現存しているのである。かれらはまた最も幼い年頃の小さな子供たちのもとにも現存しているのである。

 

 

 

天界の秘義3643

 

諸天界の中にいる者たちは朝の光と日中の光のような、また夕暮に近づいている光のような静寂な光の気流の中におり、同様に彼らは春の、夏の、秋の熱のような熱の中にいるに反し、地獄にいる者らは粗悪な、曇った、暗い大気の中にいて、また寒冷の中にいることが認められた。全般的にこれらの者の間には均衡が在ることが認められ、また天使たちは愛と仁慈とそこから派生してくる信仰の中にいるに応じ益々彼らは光の気流の中に、春の熱の気流の中にいるが、奈落の者は憎悪の中におり、そこから誤謬の中にいるに応じ、益々彼らは暗黒と冷寒の中にいることが認められたのである。前に言ったように他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っているのである。

 

 

 

天界の秘義4180[3]

 

もし人間が春または夏のようであるなら、かれは愛と仁慈との善を受け入れて、実を結ぶが、しかし明らかに冬のようであるなら、愛と仁慈との善を受け入れないし、従って実を結びはしないのである。

 

 

 

天界の秘義5662[3]

 

 平安の性質はこのようなものであり、すなわち、凡ゆる幸福と祝福の最も内なるものであり、そこからそれらのものの凡てを支配している普遍的なものであるため、それで古代人は事が順調に行くようにと言いたいときは、普通の言葉の形式として、『平安があなたにありますように』という言葉を用い、『順調に事が行っていますか』と言いたいときは、人々に『平安がありますか』否かとたずねたのである。平安について前に言われ、示されもしたことを参照されたい、すなわち、天界の平安は地上の春と暁に似ている(1726、2780番)。平安はその最高の意味では主であり、その表象的な意味では主の王国であり、最も内なるものから善をもって感動させる主の神的なものである(3780、4681番)、不安は凡て悪と誤謬から発しているが、平安は善と真理から発している(3170番)。

 

 

 

真の基督教304

 

 地獄から発する悪と虚偽の攻撃から護られる結果生ずる天的な平安は、種々の種類の自然的な平安に譬えることが出来よう、例えば各人がその敵から確実に守られて、己が家に安全に住む戦後の平安に譬えられ、あるいは預言者の象徴的な言語によれば、「その葡萄の木の下に座し、その無花果樹の下に居らん、これを懼れしむるものなかるべし」(ミカ44、イザヤ65・21−23)の状態に譬えることが出来よう。それは、また激しい労苦の後の精神上の保養と休息に、また子を生んだ後に、その子に優しい愛を感ずる母の慰めに譬え得られよう。それはまた、嵐、黒雲、雷の後の静けさに、また地が新しい草木の中に、庭園、畠、森がその蕾と花の中にその歓びを現しているように思われる厳冬の後の春に譬え得られよう。最後に、それは海上の嵐と危険の後、港に着き、憧れの岸に上陸する人々の心に譬え得られよう。

 

 

 

霊界日記2294

 

 そのことがまた、霊たちの状態は変化しており、かくてそれに一年の変化が、同じくまた一日の変化が、すなわち、朝、昼、夕、夜が、また朝が、または春、夏、秋、冬、また春がたとえられている理由となっているが、しかし無限の相違が伴っているのである、天使たちのもとでは、その変化はその昼、夕、夜に似てはいるが、ただ春の時におけるそうしたものに似ているのである・・・・・。1748年〔60歳〕6月10日。