反芻

 

 

神の摂理233(ニ)

 

「人間は悪にいる間、多くの真理はその理解へ導き入れられて、記憶に貯えられることが出来るが、しかし冒涜されることはない」。その理由は理解から意志に入る流入はないが、意志から理解に入る流入はあり、それゆえ多くの真理は理解により受け入れられて、記憶に貯えられることが出来るが、意志の悪には混合はせず、かくて聖い物は冒涜されないということである。さらに、聖言から、或は説教から真理を学んで、それを記憶に貯え、それについて反省することは各人の義務である。なぜなら知性は、記憶に貯えられて記憶から思考へ入る諸真理により、何を為さなくてはならぬかについて、意志に、または他の言葉では、その人間に教えなくてはならず、従ってこれが改良の主要な方法であるからである。真理が単に理解に宿り、理解から記憶に宿るに過ぎない間は、真理は未だ人間により同化されず、人間には無関係のものである。人間の記憶は或る動物の反芻胃に譬えることが出来よう。その動物たちは先ずその中に自分の食物を貯える、それがそこに在る間は、それは未だ彼らの身体により同化されず、その身体には無関係のものである。しかし、彼らがこの胃からその食物を引き出して、吸収するとき、それは彼らの生命の一部となり、身体は栄養を受ける。しかし人間の記憶には物質的な食物ではなく、霊的な食物、または真理が在り、それはそれ自身では色々な種類の知識である、人間が考えることにより、またはそれを謂わば反芻することによってこれらを引き出すに応じ、彼の霊的な心は栄養を受ける。意志の愛は欲するものであり、いわば、それらに食欲を感じ、それらが吸収されて、心を養うようにしむける。もしその愛が悪であるなら、それは不潔な物を欲し、それに食欲を感じるが、しかし善であるなら、清潔な物を欲して、それに食欲を感じ、それに適しないものを凡て種々の方法で分離し、除き、斥けるのである。