汎神論
1.スウェーデンボルグ
2.マリア・ワルトルタ
3.サンダー・シング
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP40
或る者らは神は凡ゆる所におられると言っているが、発出している神的なものが、太陽から発している光と熱のように、凡ゆる所におられることを示されたのであるが、依然太陽がその本体の方面で凡ゆる所に存在している、と言うことは愚劣なことである。
天界の秘義775
もし霊的なものが自然的なものから万が一にも後退してしまうならば、自然的なものは無くなるであろう。凡ゆる物の起原は以下のようになっている、すなわち、すべての物は、全般的にも、個別的にも、主から発している。主から天的なものが発し、主から天的なものを通して霊的なものが発し、霊的なものを通して自然的なものが発し、自然的なものを通して形体的なものと感覚的なものとが発しているのである。そして、それらは凡てこのようにして主から発しているように、また主から存続している、なぜなら良く知られているように、存続は絶えず存在するようになることであるから。自然を拝し、そこから事物の起原を引き出してくる者のように、事物が存在し、生起するに至ることについてこれとは異なった考えを抱いている者らは、森の野獣の幻想でもかれらよりは遥かに健全であると言ってもよいほどにも狂った原理に立っているのである。自分は知恵では他の者に勝っていると自分自身に思われている極めて多くの者はこうした者である。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P159
クィンティリアーノ:
「でも、聞いたところによると、先生はパレスティナから外へ出たことがないということですが」
クィンティリアーノは不審げな面持ちである。
主:
「私は、ローマとかアテネへ行くために、この国を出たことはありません。でも、ギリシャやローマ建築を知らないわけではなく、パルテノンを造った人間の才能には、私が介在しています。というのは、命および命のほとばしりのあるところに、私はいつもいるのです。一人の知恵者が考えるところ、一人の彫刻家が彫刻するところ、一人の詩人がうたうところ、一人の母がゆりかごのそばで子守り歌を歌っているところ、一人の人間が畝にしゃがんで畑を耕しているところ、一人の医者が様々な病気と闘っているところ、つまり、一匹の動物が生き、一本の木が成育するところ、そこに、私は御父とともにいます。地鳴りや雷鳴、星のきらめきや潮の干満、鷲の飛行やブーンという蚊の羽音にも、私はいとも高き創造主とともにいます」
「だったら・・・あなたは・・・あなたは何でも、人間の業と考えさえも知っているのですか」とまたクィンティリアーノが問いかける。
「知っています」
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P175
ヴェーダーンタ哲学が真理であるということになれば、神もまたー人は神と同じであるからー進化の途上にあり、幻影と無常によって完成を求めていることになる。マーヤーがこのようなことを神に対してしないというのなら、マーヤーのそもそもの原因とは何なのか、どんな活動の結果として人はマーヤーに取り込まれるに至ったのか、マーヤーの目的と究極的益はどこにあるのかということについて、ヴェーダーンタ哲学者は語る義務があるだろう。実際、神は万物に在り、万物は神に在る。だからといって、神イコール万物でも、万物イコール神でもない。創造者と創造物を混同する人間が無明に沈み込むのである。