燔祭

 

 

 

ホセア6・6

 

わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく

神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。

 

 

天界の秘義921

 

 

 

 

天界の秘義922[3]

 

サムエル書にはサムエルはサウロに言った―

 

  

エホバはエホバの御声に聞くことを喜ばれるように燔祭と生け贄とを大いに喜ばれるであろうか。見よ、従うことは生けにえにまさり、聞くことは雄羊の脂にまさっている(サムエル記前15・22)。

 

 『声に聞くこと』により意味されていることはミカ書に認めることができよう―

 

  わたしは燔祭をもって、一万の子牛をもってエホバの前に出ようか。エホバは数千の雄羊を、万流の油を喜ばれるであろうか。ああ人よ、かれはあなたに善いことを示されている、エホバがあなたらに求められることは、ただ審判[公正]を行い、慈悲を愛し、自分自身を卑しうしてあなたの神とともに歩むことのみではないか(6・6−8)。

 

このことが『清い獣と鳥との燔祭と生けにえ』により意味されていることである。同じくアモス書にも―

 

  あなたらがわたしに燔祭と捧げ物とを捧げても、わたしはそれらを受け入れはしない。わたしはまたあなたらの肥えたものの感謝の捧げ物をも顧みはしない。審判[公正]を水のように、義を大いなる川のように流れさせよ(5・22、24)。

 

『審判[公正]』は真理であり、『義』は善であり、その何れも仁慈から発しており、これらが内なる人の『燔祭と生けにえ』である。ホゼヤの書には―

 

わたしは慈悲をのぞんで生け贄をのぞまない。燔祭よりも神を知ることをのぞんでいる(ホゼヤ6・6)。

 

これらの記事から仁慈と信仰とが存在しないところでは生けにえと燔祭とは何であるかが明白であり、清い獣と清い鳥とは仁慈と信仰の諸善を意味したためそれらを表象したこともまた明白である。