反感

 

 

 

 

天界の秘義8356

 

「すると水は美味しくなった」。これは、このことから諸真理は歓ばしいものになされたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『美味しい』の意義は歓ばしいものであり―なぜなら霊的な意義では『美味しい』は歓喜と一つのものである生命の甘美を意味されているからである―『水』の意義は真理である(そのことについては、すぐ前の8355番を参照)。この間の実情は以下の如くである。人間が真理に感動することは善から発しているのである。なぜなら善と真理とは結婚と同じように連結しており、従って一方は他方を配偶者が配偶者を愛しているように愛しているからである。このことからまた善と真理との連結は聖言では『結婚』に譬えられており、そこから生まれてくる諸真理と諸善とは『息子、娘』と呼ばれている。この凡てから真理の情愛〔真理に対する情愛〕の歓喜はその原因を善以外のいかような源泉からも持ってこないことを認めることが出来よう。これはまた経験からも明白である、なぜなら生命の善の中にいる者たちは、即ち、神と隣人とを愛する者たちはまた信仰の諸真理を愛するからである。ここから善が流れ入って、受け入れられる限り、真理は歓ばしいものに思われるが、しかし善が流れ入らないと、すぐに、即ち、悪が支配して、善の流入を妨害し始めるとすぐに、真理に対する歓喜の欠如が感じられるのである。なぜなら真理と悪とは相互に他を斥け、相互に他に反感を持っているからである。この凡てから今や一片の木をその水に投げ込まねばならないと命じられた理由を、またその水がそこに投げ込まれたその一片の木により美味しくなった理由も認めることが出来よう。こうした事柄がそうしたことを意味していなかったなら、それは神的なものにより決して命じられはしなかったのである、なぜなら神的なもの〔神〕は一片の木を手段として用いなくてもその水を美味しくされることは出来たからである。