判断力

 

 

1.薄弱な判断力

2.感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり、この二つの面から後に判断力が成長する

 

 

1.薄弱な判断力

 

 

天界の秘義379

 

 これらのことが意味されていることは前に述べたところから明らかであり、『呪われる』ことは善に反感を持つことであることは既に示した(245番)。なぜなら不法と憎むべきことは、または憎悪は人間を背かせるものであり、かくて彼は下の方のみを眺め、すなわち、身体と地の事のみを眺め、かくて地獄に属した物を眺めるからである。このことは仁慈が追放され、消滅してしまう時生まれてくる、なぜならその時主を人間と結ぶ絆は切断されてしまうからである、それは仁慈のみが、または愛と慈悲のみが我々を主に連結させるが、仁慈の無い信仰は決して我々を主に連結させはしないためである、なぜなら後のものを単なる知識であって信仰ではなく、奈落の一味自身が持っているものであって、それにより彼らは善良な者を巧みに欺き、自分自身を光の天使に装うことが出来るからであるが、こうしたことは最も邪悪な説教家でさえ敬虔な熱意に似た熱意を以って時として行うのが常であるが、その唇から言われるもの程にその者らの心から遠いものは何一つ有りはしないのである。

人の言葉なり、または同意なりが、その人の意志または意図から発していない時は、それがいかような性質のものであろうと、たれもそれを尊重しないことをたれでもその者自身の経験から知っているのに、記憶の内の信仰のみが、またはそこから発した思考が何か益をもたらすことが出来ると信じる程にも薄弱な判断力しか持っていない者が在りえようか。人の言葉なり同意なりを楽しいものになし、人間を人間に結びつけるものは意志または意図である。意志こそ真の人間であり、その欲しない思考または言葉ではない。人間はその性質と性向を意志から得ているが、それは意志が彼を動かすからである。しかしもしたれかが善いことを考えるなら、信仰の本質である仁慈はその思いの中に在るが、それは善を為そうとする意志がその中に在るからである。しかしもし彼が自分は善いことを考えていると語りつつも、邪悪な生活を送るならば、悪以外の何ものをも到底欲することは出来ないのであり、それで信仰は存在していない。

 

 

 

 

2.感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり、この二つの面から後に判断力が成長する

 

 

天界の秘義6751

 

「彼は彼女の息子となった」。これはそこからそれが最初の諸真理を得たことを意味していることは以下から明白である、即ち、ここに『彼女』により意味されているパロの娘の表象は記憶知に対する情愛であり(6750番を参照)、『息子』の意義は真理であり(489、491、533、2623、3373番)、ここでは最初の真理である、なぜなら『彼女の息子となること』は記憶知により最初の諸真理の中にいることを意味するからである、なぜなら最初の諸真理は記憶知から生れ、かくて記憶知の情愛である母から生れた息子のようなものであるから。(記憶知は理解と信仰のものである諸真理に対する面であることについては、前の6750番を参照。)人間は再生しつつある時は、信仰の事柄において進んで行く有様は、彼が成熟しつつある時信仰に属していない諸真理において進んで行くのと殆ど変りがないのであり、この後の成長の場合では、感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり、この二つの面から後に判断力が、人各々により多少の相違をもって成長するのである。人間の再生の間では、信仰の全般的なものが、または教会の教義の基本的なものが最初の面となり、次に教義と信仰との個別的なものが面となり、その後更に内的なものが続いて面となって行くのである。これらの面は天界の光により明るくされるものであり、そこから理知的なものが生れ、また信仰と仁慈の善とを認識する力が生れて来るのである。