花
天界の秘義5116
「花が咲いた」(創世記40・10)。これは再生に近い状態を意味していることは、木から果実以前に咲き出す『花』の意義から明白であり、それは再生以前の状態である。今し方言ったように(5115番)、木が芽ぐんで、実をむすぶことは人間の再生を表象しており―それが葉を繁らせて緑になることは最初の状態を表象し、花を咲かせることは再生のすぐ前の状態である第二の状態を表象し、実をつけることは再生した者の状態そのものである第三の状態を表象しているのである。『葉』が理知の事柄を、または信仰の諸真理を意味していることはこのことから発している(885番)、なぜなら信仰の諸真理は再び生まれること、または再生の最初のものであり、『花』は知恵の幾多の事柄を、または信仰の諸善を意味しており―なぜなら信仰の諸善は再び生まれること、または再生の直ぐ前に来るからであり―『果実』は、生命のものである事柄を、または仁慈の業を意味するからである、それは仁慈の業はその後に来て、再生した者の状態そのものを構成するためである。
このような事柄が植物界に存在していることは霊界の流入によっている。しかしながらこのことは凡ゆる物を自然に帰して、何事も神的なもの[神]に帰しはしない者によっては信じられることは出来ないが、それに反し、凡ゆる物を神的なものに帰して、何ものも自然に帰しはしない者たちは、凡ゆる物は神的なものから発していることのみでなく、凡ゆる物は相応を持っており、それゆえ表象的なものであることをも認めることを許され、最後に彼らは自然全体は主の王国を表象している劇場であり、かくて神的なものは自然の個々のものの凡てのものの中にも存在し、それで自然は永遠なるものと無限なるものとを表象するものであり、即ち、永遠に続く繁殖から永遠なるものを表象し、種子が無限に増大することから無限なるものを表象していることを認めることを許されるのである。神的なものが絶えず流入されない限り、このような努力は植物界の凡ゆる物の中には決して存在することは出来なかったであろう、なぜなら流入から努力が生まれ、努力から精力が生まれ、精力から結果が生まれるからである。
天界の秘義5116[3]
凡ゆる物を自然に帰している者らは、このような物は果実と種子とにその最初の創造の際に与えられたのであり、そこから受け入れられた精力からそれらのものはその後このような活動へ自ずから推進させられているのであると言うが、しかし彼らは存続は絶えず存在するようになることであることを、または同一のことではあるが、繁殖は不断の創造であることを考えはしないのであり、また、結果は原因の連続であり、原因が停止するとき、結果もまた停止し、従って原因が絶えず流入しないなら、結果はことごとく、たちまち死滅することを考えもしないのであり、また後在的なものが存在するためには先在的なものは絶えず後在的なものの中に存在しなくてはならないため、凡ゆる物の最初のものに関連していないものは、従って神的なものに関連していないものは、たちまち絶滅してしまうことを考えもしないのである。
天界の秘義5116[4]
凡ゆる物を自然に帰して、神的なものには僅かなものしか、または何ものをも帰しはしない者が、これらの事を考えるなら、彼らもまた、自然の一切の物は霊界に存在する物を表象しており、従って主の神的なものが極めて近く表象されている主の王国に存在しているような物を表象していることをまた承認することが出来るであろう。そうした理由から流入は霊界から発していると言ったのではあるが、しかしその意味は流入は主の神的なものから霊界を経て発しているということである。自然的な人間がこうした事柄を考えない理由は、彼らはそれらのことを承認しようと欲しないということである、なぜなら彼らは地的な身体的な物の中におり、そこから自己と世を求める愛の中におり、それゆえ霊界または天界のものである事柄については転倒した秩序の中におり、そして転倒した秩序からはこのような物を認めることは不可能であるからである、なぜなら彼らは下に在る物を、それが上に在るかのように見、上に在る物をそれが下に在るかのように見ており、それで他生ではこのような人物は天界の光の中で眺められると、頭を下に、足を上に向けて現れるからである。
彼らの中でたれが、木や他の植物が花を咲かせているのを見て、それが今果実または種子を生み出しつつあることが、いわば、そのものの歓びとなっていることを考えるであろうか。彼らは、花が先ず咲き、それがその胸の中に果実または種子の最初のものを持つまでは咲き続け、そのことによってその最初のものの中へその液汁を運び入れていることを認めるが、もし彼らが人間が再び生まれることまたは再生について多少なりと知っているなら(或はむしろ、知ろうと願うなら)、彼らはそのように似ていることからその花の中に再生以前の人間の状態を表象するものを認めるであろう、即ち、人間はその時理知と知恵との諸善を生命の中に植えつけようとする、即ち、実をつけようとする努力の中にいるため、人間もその時同じように理知と知恵との善から花を咲かせることを、即ち、内的な歓びと美との中に在ることを認めるであろう。この状態はこうした性質のものであることは知られることさえも出来ない、なぜならこのように表象されている内的な歓びと美との性質は専ら世への愛の喜びと自己への愛の歓喜の中にいる者らには全く知られていないからである。こうした喜びと歓喜のため内的なものであるその喜びと歓喜とはこのような人物には全く喜ばしくない、不愉快なものとなっているため、彼らはそれを嫌悪し、その結果それを無意味なもの、または無価値なものとして斥け、それでそれを否定すると同時に、霊的なものと天的なものとが有意義なものであることも否定してしまうのである。ここから、知恵であると信じられている現代の狂気が生まれているのである。