葉
1.
葉
天界の秘義9337
信仰の諸真理(885)
天界の秘義9960
記憶知である自然的な真理
天界の秘義5212
最初の記憶知
黙示録講解109
葉は知識を意味(885)
天界の秘義10185
葉はその葉により液汁が吸い上げられ、それで木は葉を剥ぎとられると実をつけなくなるため、肺臓に関連しており、いわば呼吸の代わりをしているからである。ここからまた聖言では「葉」は信仰の真理を意味しているのである(885)。なぜなら同じく信仰の真理により善を形作る生きた力が吸い上げられるからである。
天界の秘義885
真理。
「葉」が真理を意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、そこには人間は木にたとえられ、または木と呼ばれており、「果実」は仁慈の善を、「葉」はそこから発した真理を意味している(それらは実にそうしたものに似ているのである)。例えばエゼキエル書には、
そしてその川のそばのその岸のこちら側とむこう側とに食物のための木がことごとく生えており、その葉は落ちない、実もまた尽きることもなく、月毎にそれは新しく生まれている。その水は聖所から流れ出ているためである。またその実は食物となり、その葉は薬となるであろう。(47・12、黙示録22・2)
ここに「木」は主の王国を内に宿した教会の人間を意味し、その「果実」は愛の、また仁慈の善を意味し、その「葉」はそこから発した諸真理を意味し、その諸真理は人類に教え、人類を再生させるために役立っており、そうした理由から葉は「薬」になると言われている。さらに―
かれはその根を引き抜き、その果を切り去られてそれは枯れてしまわないであろうか。これはその枝の葉をことごとく摘みとられて枯れてしまうであろう。(17・9)
これはぶどうについて、すなわち、剥奪される状態におかれた教会について言われており、「果実」であるその教会の善と「摘みとられた枝の葉」であるその教会の真理はかくて死滅してしまうのである。
エレミヤ記には―
ぶどうにはぶどうの実はなく、いちぢくの木にもいちぢくの実は無く、葉は落ちてしまった。(8・13)
「ぶどうの実」は霊的な善を、「いちぢくの実」は自然的な善を意味し、「葉」はこの場合、落ちてしまった真理を意味している。イザヤ書にも同じことが言われている。(34・3)
同じことがイエスが眺められ、葉の外には何物もその上にはないのを見られ、そのために枯死してしまったいちぢくの木によっても意味されている。(マタイ21・19,20、マルコ11・13.14.20)
とくにこのいちぢくの木により自然的な善のいかようなものも最早存在しなくなったユダヤ教会があって、その中に保存された宗教的な教訓または真理が葉なのである。なぜなら剥奪された教会は真理を知ってはいるが、しかしそれを理解しようとはしない底のものとなるからである。自分は真理をまたは信仰のいくたの事柄を知っているとは言うが、しかし仁慈の善を何ら持っていない者もそれに似ていて、かれらはいちぢくの葉に過ぎず、枯死してしまうのである。