合理的なもの

 

 

 

1.合理的なものと呼ばれる理解の最高点にまでも至る理解

 

 

 

 

1.合理的なものと呼ばれる理解の最高点にまでも至る理解

 

 

神の愛と知恵237

 

縦のこの三つの度は(232に示されたように)自然的な度、霊的な度、天的な度と呼ばれている。人間は生まれると、先ず自然的な度に入り、この度は、知識に応じ、また知識により獲得されて、合理的なものと呼ばれる理解の最高点にまでも至る理解に応じて、連続的に人間の中に成長する。しかも霊的な度と呼ばれる第二の度はこの手段によっては開かれない。その度は理解した物に従って用を愛することにより開かれるが、しかしそれは隣人に対する愛であって、用に対する霊的愛である。この度も連続した度により同じくその頂点までも成長することが出来、それは真理と善との知識により、即ち、霊的真理により成長する。しかもこうした真理によってさえも天的度と呼ばれる第三の度は開かれない、なぜならこの度は主に対する愛であるところの、用に対する天的愛により開かれ、そして主に対する愛は聖言の教訓を生活に移す以外の何物でもなく、その要点は悪は地獄のもの、悪魔のものであるため、そこから逃れることであり、また善は天界のもの、神的なものであるため、それを行うということである。この方法によりこの三つの度は継続的に人間の中に開かれるのである。

 

 

神の愛と知恵240

 

人間を獣から区別する二つの能力が主から発して人間の中に存在している。その一つは真のものと善いものとを理解する才能であって、合理性と呼ばれ、理解の能力である。他は真で善いものを為す能力であって、自由と呼ばれ、意志の能力である。何故なら人間はその合理性により、如何なるものであれ、その好むところを、神と共にまたは神に従って、隣人と共に、または隣人に逆らって考えることができ、またその考えるところを意志し、行うことが出来るが、しかし悪を認め、刑罰を恐れるとき、その自由により、それを為すことを慎むことが出来るからである。この二つの能力により人間は人間であって、獣から区別されている。

 

 

天界の秘義229

 

11−13節「かれは言われた、たれがあなたにあなたが裸であることを告げましたか。あなたはわたしがあなたに食べてはならないと命じた木の実を食べましたか。その人は言った、あなたがわたしとともにいるように与えられた女が、その木の実をわたしに与えました。それでわたしは食べました。神エホバは女に言われた、なぜあなたはこうしたことをしましたか。すると女は言った、蛇がわたしを欺きました、それでわたしは食べました。」

 

この言葉の意義は前に説明したことから明白である、すなわち、人間の合理的なものはそれ自身がその合理的なもの自身のものにより欺かれるのに甘んじたのは、その合理的なもの自身のものが人間にはいとしいものであったためである(すなわち、自己愛によりいとしいものであったためであり)、かくてかれはその見たり、聞いたりすることのできる物を除いては何物も信じなかったということが明白である。たれでも以下のことは認めることができよう、すなわち、神エホバは蛇に語りかけられはしなかったのであり、実に『蛇』はいなかったのであり、また神は蛇により意味されている感覚的な部分に語りかけられはしなかったのであって、これらの言葉にはそれとは異なった意味が含まれており、すなわち、かれらはかれら自身が感覚により欺かれたのを認めつつも、なお自己への愛の結果、かれらが主について、主に対する信仰について聞いたものの真理を信じる以前にそれを確かめようと願ったという意味が含まれているのである。

 

 

天界の秘義230

      

この子孫の支配的悪[この子孫の心を支配した悪]は自己愛であったが、しかし、かれらは同時に世への愛[世を求める愛]を現代に存在する程多くは持っていなかったのである、なぜならかれらはかれら自身の家族と氏族の中に生活して、富を蓄積しようとの考えはなかったからである。

 

 

新エルサレム27

 

いかようにして人間の合理的なものが妊もり、また生まれるか(2094,2524,2557,3030,5126番)。これは人間のもとにある知識と科学の中へ主が天界を通して流入されることにより行なわれ、そこから高揚が生まれてくる(1895,1899〜1901番)

 

 

天界の秘義1588

 

「エホバの園のようであった」。これはその外なる人の合理的なものを意味していることは『エホバの園』の意義から明白であり、それは理知であり(100番参照)、従って内なる人と外なる人との間の媒介物[媒体]である合理的なものである。合理的なものは外なる人の理知である。合理的なものが天的なものであるとき、すなわちそれが最古代教会のもとでは天的な起源から発していたように、天的な起源から発しているときは、『エホバの園』という表現が用いられるのであり、そのことについてはイザヤ書に―

 

  エホバはシオンを慰めされるであろう、エホバはその荒れた所を凡て慰め、その荒地をエデンのようにその砂漠をエホバの園のようにされるであろう、その中に楽しさと喜びとが見出されるであろう、告白と歌声とが(見出されるであろう)(51・3)。

 

 しかし『神の園』という表現は合理的なものが霊的なものであるときに、すなわち、それが古代教会では霊的な起源から発していたように、霊的な起源から発しているときに用いられている、そのことはエゼキエル書に話されている―

 

  あなたは知恵に満ち、美しさは完全であって、神の園エデンの中にいた(28・12,13)。

 

 人間の合理的なものは天界に示される表象的なものから、『園』にたとえられている。天的な霊的なものが主から人間の合理的なものの中へ流れ入ると庭園として現れるのが人間の合理的なものであり、そこから楽園さえも視覚に示されていて、それは壮麗と美しさにおいては人間の想像のあらゆる観念[考え]をも凌駕しているが、それは(前の1042、1043番に話された)主から流入してくる天的な霊的な光の結果である。これらの楽園の快い美しいものがそれを見る者の心を動かすものではなく、それはその中に生きている天的な霊的なものである。

 

 

天界の秘義1911

 

「彼女は自分がみごもったことを見た、そして彼女の女主人は彼女の目の中でさげすまれた。」これはこの合理的なものは、それがみごもった際、善に接合された真理それ自身を軽視したことを意味していることは、『女主人』の、またはサライの意義が善に接合した真理であることから明白である。初めにみごもった合理的なものは、知的なまたは霊的な真理を真理としては承認することはできない、それはこの合理的なものには世からまた自然から引き出された記憶知から発した多くの誤謬と、聖言の文字の意義から得られた知識から発した多くの外観が密着していて、しかもそれらのものは真理ではないためである。

 

[]例えば、すべての生命は主から発しているということは知的な真理である、しかし最初みごもった合理的なものはこのことを把握しないで、もしそれがそれ自身から生きないなら、それは生命を持たないと考えるのである、もしその反対のことが言われるなら、それは憤慨さえするのであって、そのことは感覚の迷妄に依然しがみついている霊から幾度も認められたのである。

 

[]善と真理とはことごとく主から発しているということは知的な真理であるが、しかし最初にみごもった合理的なものはそのことを把握しない、なぜならその合理的なものは善と真理はその合理的なもの自身から存在しているものとして存在しているという感情を持っており、またそれはもし善と真理とがその合理的なもの自身から発していないならば、それは善と真理とを何ら考えることはできない、ましてや善い、真のことは何一つ行うことはできない、もし善と真理とが他のものから発しているなら、それはそれ自身を放任してしまって、その間流入を待つことであろうともまた考えるからである。

 

[]善以外には何ものも主から発してはいない、悪の最小のものすらも主からは発していないことが知的な真理である、このこともまた最初にみごもった合理的なものは信じないで、主はあるゆるものを統べられているから、悪もまた主から発している、主は全能で、偏在され、善それ自身であられ、地獄における悪の刑罰さえも取り去られないため、主は刑罰の悪を欲しられていると考えるが、それでも主は何人にも悪を為されはしないのであり、またたれかが罰しられるのを願われもしないのである。

 

[]天的な人は主から善と真理との認識を得ていることは知的な真理であるが、しかし最初の合理的なものは認識の存在を全然否定してしまうか、またはもし人間がかりにも他の者から認識して、自分自身から認識するのでないとするなら、人間は恰も生気のないものであるか、または生命を欠如したものになるであろうと考えるのである。事実合理的なものが、感覚的なものから発した記憶知から、また哲学的な理論から考えれば考えるほど、益々前に述べたところの、また他のあらゆる知的な真理を把握しなくなるのである、なぜならそこから発している迷妄[妄想]はそれだけ暗くなった蔭の中に包み込まれてしまうからである。ここから学者は他の者以上に信じはしないのである。

 

[]最初にみごもった合理的なものはこのようなものであるため、それがその女主人を軽蔑することは、すなわち、それが知的な真理を軽視することが明白である。知的な真理は迷妄[妄想]と外観とが消散しないかぎりは明らかにはならないのであり、すなわち、承認はされないのであり、そしてこの迷妄と外観とはその人間が感覚の事物と記憶知とから真理それ自身について論じる限り消散しないのであって、その者が、それは主がそのように言われているから真理であると単純な心から信じるとき、それは始めて明らかになるのである。そのとき迷妄の蔭は消散してしまって、かれの中にあるものは何一つかれがそれを把握するのを妨害はしないのである。

 

[]しかしながら主には何らの迷妄はなかったのであるが、しかし主の合理的なものが始めてみごもったとき、すでに言ったことから明白であるように(1661番)、それ自身では真理ではない真理の外観があったのである。ここからまた主の合理的なものはそれが始めてみごもったさい知的な真理を軽視したのであるが、しかし徐々に主の合理的なものが神的なものにされるにつれ、外観の雲は消え去って、知的な真理はその光の中に主に開かれたのであり、このことがイサクが成長したときイシマエルが家から放逐されたことにより表象され、意味されているのである。主は知的な真理を軽視されたのではなく、主の新しい合理的なものがそれを軽視したことを主は認められ、また見られたことは以下の記事から見られるであろう(1914番)。

 

 

天界の秘義1914

 

「わたしの不当な害はあなたの上にあるように。わたしはわたしの女中をあなたの胸の中へ与えました。」これはそれ自身に責任を取ろうとは欲しないことを意味していることは説明をしなくとも明白である。内意ではこれらの言葉の中には、主はこの最初の合理的なものが知的な真理を軽視する底のものであることを認められ、そのためにそれを非難されたことが含まれている。なぜなら主は、前に言ったように(1904番)、知的な真理から考えられたのであり、そしてこの真理は合理的なものの上の方にあるため、それはこの合理的なものの性質を、すなわち、それがその真理を軽視したことを認めまた見ることができたからである。

 

[]主は御自身の中にあるこの新しい合理的なものの性質の何であるかを内的な人から認め、また見られることができたことは以下の事実から認めることができよう、すなわち、内的なものは外的なものに起きることを認めることができるのであり、またはそれと同じく、高いものは低いものの中にあるものを見ることができるが、しかしその反対はあり得ないのである。さらに良心を持っている者たちはそれを行うことができ、またそれを習慣的に行っているのである、なぜなら良心の真理に反したものが何か思考の中へ、または意志の努力の中へ流れ入ってくると、かれらはそれを認識するのみでなく、またそれを咎めて、それがそうした性格を持っていることがかれらを悲しませさえもするからである。まして認識は合理的なものにおけるさらに内的なものであるため、認識を持っている者はそのことを行うことができるのである。それなら主は何を行われることができなかったであろうか、主は神的な天的な認識を持たれて、合理的なものの上位にある知的な真理の情愛から考えられたのである!それで主は悪と誤謬は一つとして主御自身からは発しないことを知られ、また御自身の合理的なものが純潔なものになるようにと御自分が真理の情愛から最大の苦痛をなめられたことを知られて、憤激されないわけにはいかなかったのである。このことは主が知的な真理を軽視されなかったが、主が主御自身の中にある最初の合理的なものがそれを軽く考えていることを認められたことを示しているのである。

 

[]知的な真理から考えることはいかようなことであるかは、把握できるように説明することはできないのであり、さらにそれは、主を除いてはたれ一人この情愛から、またこの真理から決して考えなかったため、できはしないのである。そこから考える者は天使たちの天界よりも上方にいるのである、なぜなら第三の天界の天使すらも知的な真理からは考えないで、合理的なものの内的なものから考えるからである。しかし主は御自身の人間的な本質をその神的な本質に結合されるに応じ、神的善そのものから、すなわち、エホバから考えたのである。

 

[]認識を持っていた最古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。認識を持たないで、良心をもっていた古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。しかし良心を持たない者はすべて、合理的なものを持っているように見えるけれど、それを持っていないからには、合理的なものからは些かも考えはしないで、感覚的な、形体的な自然的なものから考えるのである。良心を持たない者は合理的なものから考えることができない理由は、かれらは、今し方言ったように、良心を持っていないということである。合理的な人間とは信仰の善と真理を考える者であり、それに反して考える者では決してない。悪と誤謬とを考える者らはその思考[考え]において狂っており、それで合理的なものは決してかれらには述べることはできないのである。

 

 

天界の秘義1921

 

「あなたの目に善いことを彼女に行ないなさい。」これは絶対的な支配を意味していることは説明なしに明白である。内なる意味ではこの言葉は主の受け継がれた性質からまたこの最初の合理的なものの中にひそかに入り込んできていたところの悪を主が主御自身の力から征服され、服従させられ、また放逐されたことを表象し、意味している、なぜならすでに言ったようにその合理的なものは、エホバである内なる人を父として、外的な人を母としてそこからみごもったからである。何であれ外的な人から生まれたものはことごとく遺伝的な性質[遺伝してきた性質]をもっていたのであり、それでそれは悪を持っていたのである。主が御自身の力により征服され、服従され、放逐され、最後に神的なもの(主の合理的なもの)になされたものはそのものであったのである。(中略)

 

[]今考察している言葉はサライに言われたものであった、サライにより主御自身にぞくしたところの知的な真理が表象されたのであり、この真理から(前の1904、1914番に言ったように)主は考えられたのであり、またその真理からその合理的なものに対する、また外的な人のものであった自然的なものに対する絶対的な支配をもたれたのである。知的な真理から考え、そして神的な善から認識する者は―この善もまた、それが父のものであったため、主のものであった、なぜなら父は主の霊魂であり、主はそれ以外のものは持たれなかったからである―ご自身の力から活動しないわけにはいかなかったのである。それで主は主御自身の力により主の遺伝的な性質[主が母から受け継がれた性質]の悪を征服されて、それを放逐されたため、また主御自身の力によりその人間的な本質を神的な本質に結合されたのである、なぜなら後のものは前のものから必然的に起ってくるからである。

 

[]エホバからみごもった方はエホバ以外の内なるものを、すなわち霊魂を持たれはしない、それで主はその生命そのものの方面ではエホバ御自身であられたのである。エホバは、または神的な本質は、子供がみごもる源泉であるところの人間の父の霊魂が分割されることができるようには、分割されることはできないのである。この子供[人間の子供]は父親に似ていることから遠ざかるに応じて[父親に似なくなるに応じて]、父からも遠ざかって、それはますます年がすすむにつれて甚だしくなって行く。このことから子供たちに対する父の愛もその子供たちが年を取るにつれて減退して行くのである。主にあってはそうではなかった、すなわち、主は年がすすむにつれて、その人間的な本質の方面では後退されないで、絶えず益々近づかれて、ついには完全な結合にさえも達しられたのである。ここから主は、主もまた明らかに教えられているように(ヨハネ14・6、8−11)、父、エホバと同じ方であられることが明白である。

 

天界の秘義1923

 

「そして彼女は彼女の顔を避けて逃げた。」これは始めにみごもったところのこの合理的なものの憤慨を意味していることもまた説明なしに明白である、なぜならたれかの顔をさけて逃げることは、その者の前にいることに堪えられないということ以外の何ものでもなく、憤慨にかかわるものであるからである。ここには知的な真理に対するこの合理的なものの憤慨が記されているが、それは知的な真理が、または主がそれを卑しくしようと、または征服しようと欲しられたためである。合理的なものが知的なものに反抗して立ち上がるとき、征服されつつあるものの側における憤慨とともに、内部の争闘が起るのであり、それは試練の場合でも同様であって、試練も内部の争闘であり、一方では悪と他方では善との間の、至高の権力と支配とにかかわる議論と論争である。

 

 

天界の秘義1936

 

 「あなたの女主人のもとへ帰りなさい。」これはそれがそれ自身を信頼すべきではなくて、内的な真理とその真理の情愛とを信頼しなくてはならないことが認められたことを意味していることは、かの女の『女主人』の意義が内的な真理の情愛であることから明白である。しかしサライにより(『妻』としてのサライにより、また『女主人』としてのサライにより)とくに意味されることは記すことはできない、なぜならそれはいかような観念によっても把握されることはできないからである、すなわち前に言ったように、その意味されている事柄は理解を超越しており、天使たちの理解をさえも超越しているからである。主の最初の合理的なものの注意を引きつけたいくつかの外観について主はいかように考えたもうたかがここに単に暗示されているにすぎないのである、すなわち、外観は信じてはならない、神的な真理を、それがその合理的なものから観察するときは、いかほど信じがたいもののように見えようとも、信じなくてはならない(ということが暗示されているにすぎないのである)。なぜなら神的な真理はことごとくそのようなものであるからである、すなわち、神的な真理について、合理的なものにはかるならば、それらは到底信じられることはできないのである、なぜなら、神的な真理は合理的なものによる把握をことごとく超越しているからである。例えば、人間は、霊は、天使は一人としてその者自身から生きてはいないで、主のみから生きている、人間の、霊の、または天使の生命はその者における生命の外観である。この真理は迷妄[妄想]から判断する合理的なものから反発されはするが、しかしそれでもそれは真理であるため、信じなくてはならないのである。

 

[]人間には極めて単純で、粗雑なものであるように思われる聖言の表現の各々にも無限のものが存在しており、いな、天界全体よりも多いものが存在しており、その中に存在しているアルカナは主により天使たちの前に永遠に不断の変化をもって示されることができるということは神的な真理である。この真理は合理的なものには極めて信じがたいものであり、それで合理的なものはそれには全くいかような信用も与えようとはしないが、それでもそれは真である。

 

[]もし人が善行に功績を置くならば、またはそれを利得、名誉、名声のために行うならば、たれ一人その善行のために他生では決して報われはしないということは、またたれ一人悪い行為のためには、もしその者が真に善良な目的から行動しているならば、決して罰せられはしない、その目的からその行為が顧慮されるということは神的な真理である。このこともまた合理的なものによっては信じられることはできないのである、しかしそれは真であるため、合理的なものを信じてはならないのである、なぜならそれは内なるものからその結論を作りはしないで、外なるものからそれを作っているからである。

 

[]他生における最小の喜びしか望まない者は主から最大の喜びを得、最大の喜びを渇望するものは最小の喜びしか得ないということ、また天界の喜びには他の者に卓越することにかかわりのあるものは決して一つもなく、そうしたものが在るに比例して、地獄があるということ、また天界の栄光には世の栄光にぞくしたものは何一つ存在していないということが神的な真理である。これらの事柄もまた合理的なものから反発されはするが、それでもそれは真であるため、信じなくてはならない。

 

[]たれでも知恵は些かも自分自身から発してはいないと信じるに比例して、その者は賢明になるということ、知恵が自分自身から発していると信じ、かくして深慮を自分自身に帰するに比例して、その者は益々発狂するということもまた神的な真理である。この事をまた合理的なものは、それ自身から発していないものは無意味なものであると考えているため、否定してしまうのである。こうした無数のものが存在している。これらの僅かな例からでさえも合理的なものは信じてはならないことを認めることができよう、なぜなら合理的なものは迷妄[妄想]と外観の中にあり、それでそれは迷妄と外観とを剥ぎとられた真理を斥けてしまい、それがそうしたことを行えば行うほど、益々自己愛とそのいくたの欲念に陥り、益々理論に陥り、また信仰については誤った原理に陥るのである(前の1911番に引用した例を参照されたい)。

 

 

天界の秘義1944

 

「見よ、あなたはみごもっています」。これは合理的な人の生命を意味していることはそれがみごもったことについて言われていることから、またイシマエルについて以下に言われていることから、すなわち、かれにより主における最初の合理的なものが意味されていることから明白である。全般的に合理的な人については以下のことを知っておかなくてはならない、すなわち、その人間が自分自身の中にある悪と誤謬とは真理と善とを否定し、それに対立しているものであることを考え始めるとき、合理的な人は生命を受け、胎内に宿り、生まれると言われるが、そのことはその人間がこの悪と誤謬とを遠ざけて、それを征服しようと欲する時は、尚更言われるのである。かれがそのことを認めて、知覚するようになることができない限り、自分はその合理的なものを持っているといかほど想像するにしても、何らそれを持っていないのである。なぜなら合理的なものは内なる人を外なる人に結合させ、そのことによって外なる人を、その外なる人がその中に沈んでしまっているところの形体的な地的なものから引き上げて、その人間を人間であるようにさせ、また人間にその人間が生来そこにぞくしている天界を見上げさせ、しかもたんにかれが宿っているに過ぎない地を、専ら見させない、そこでは人間は単に一時の間の宿り人[滞在人]にすぎない地のみを獣のように凝視させない、ましてや地獄を凝視させはしない媒介的なものであるからである。これらのものが合理的なものの任務であり、それで人間はこのように考えることができる者でない限り、合理的なものを持っているとは言われることはできない、そして合理的なものが存在するようになっているか否かは、その人間の用または任務におけるその人間の生命から知られるのである。

 

[2]善と真理とが心で否定され、またその善と真理とがそれについて聞くことによって知られているに過ぎないのに、その善と真理とに反抗して論じることは、合理的なものをもっていることではない、なぜなら何らの抑制もなしにあらゆる邪悪に向って公然と突入する多くの者でもそれを行うことができるからである。唯一の相違は、自分は合理的なものを持っていると想像はしているが、それを持っていない者らは、その談話の中に一種の礼儀を守っていて、尊さを装って行動はするが、しかしかれらは法律を恐れる恐怖、財産、名誉、名声、生命を失いはしないかとの恐怖といった、外なる束縛により、そうしたものの中にしばりつけられているということである。もし外なるものであるこれらの束縛がかりにも取り去られるとするなら、これらの人間のある者は、何の抑制ももたないで邪悪な行為に突入する者よりもさらに狂ってたわ言をまき散らしており、それでたんにその者が論じることができるということで合理的あんものを持っているとは言われることはできないのである。事実は合理性を持たない者らは、それを持っている者たちよりもはるかに巧妙に感覚と記憶知のいろいろなものから普通論じているということである。

 

[3]このことは他生における悪霊らから極めて明白である、かれらはその身体の中に生きていた間はひときわ合理的なものであるとして考えられたものの、他生ではすべての者に普通おこってくるように、かれらに端正に論じさせ、生命の尊さを偽装させた外なる束縛が取り去られると、かれらはこの世で明らかに狂っている者よりもさらに狂うのである、なぜならかれらは戦慄も恐怖も、恥辱もなしにあらゆる邪悪へ突入するからである。この世に生きている間に合理的なものであった者たちはそうではない、なぜなら外なる束縛がかれらから除かれると、かれらは内なる束縛を―良心の束縛を―持っていて、その束縛により主はかれらの思考をかれらの合理的な原理であった真理と善との法則に結びつけられていたため、かれらはさらに健全なものとなるからである。

 

 

天界の秘義1953

 

 合理的なものはこのことを考えることはできなかったが、しかし(前の1926番に語られた)内的なまたはさらに高い人がこれを考えることができたのである。なぜなら合理的なものはその合理的なもの自身についてはその特質について決して考えることはできないからである、なぜならいかようなものもそのもの自身をのぞきこむことはできないのであって、それについて考えるものはそれよりもさらに内なるまたはさらに高いものでなくてはならないからである、なぜならそのものがそれをのぞきこむことができるからである。

 

 

天界の秘義1964

 

「ハガルがアブラムにイシマエルを生んだとき」。これは、記憶知の情愛の生命が合理的なものを生んだとき、を意味していることは、『ハガル』の意義が記憶知の情愛の生命であることから、また『イシマエル』の意義が最初にみごもった合理的なものであることから明白である―それらの意義については前にとり扱った。本章にはとり扱われている主題は人間の合理的なものであるため、そして合理的なものが専ら真理のみから構成されているときの、また善と善から派生している真理から構成されているときの、その合理的なものの性質が記されているため、以下のことを知らなくてはならない、すなわち、合理的なものは知識(scientifika et cognitiones)によらなくては決してみごもり、生まれることはできない、すなわち、形成されることはできないのである、しかしこれらの知識は用をその目的としなくてはならないのであり、それらが用を持つとき、生命をその目的とするのである、なぜなら生命はことごとく目的にぞくしているため、用にぞくしており、それで知識は用の生命のために学ばれない限り、無用なものであるため、無価値なものであるからである。

 

[2]用の生命を持たないこうした知識のみからでは、合理的なものはここに記されているようなものになって、自己への愛に汚された一種の真理の愛から、野生のろばに似て気むずかしく、争いを好み、ひからびた、乾いた生命のような性質をもつようになるのである。しかしこれらの知識が用をその目的とするときは、用から生命を受けるが、それでもその用の性質に似た性質の生命を受けるのである。愛の信仰において完全なものになるために知識を学ぶ者たちは―なぜなら真の、真実の信仰は主に対する、また隣人に対する愛であるから―あらゆる用の中の用の内にいて、主から霊的な天的な生命を受けるのであり、かれらはこの生命の中にいるとき、主の王国のあらゆるものを認識する能力を得るのである。この生命のうちに天使たちはことごとくいるのであって、かれらはこの生命のうちにいるため、理知そのものと知恵そのものとのうちにいるのである。

 

 

天界の秘義2516

 

「見よ、あなたはその女のために死ぬであろう」。 これは信仰の教義は、もしその内容について合理的なものに諮るならば、無力な、空虚なものになってしまうであろうということを意味していることは以下から明白である、すなわち、ここに話しかけられている『アビメレク』の意義は信仰の教義であり、『死ぬこと』の意義は無力な、空虚なものになることであり、ここに『女』と呼ばれている『妹』の意義は合理的なものである(2508番を参照)。ここから今『アビメレクが女のために死ぬこと』により信仰の教義はもし合理的なものに諮るなら無力なまた空虚なものになるであろうということが意味されているのである。

 

天界の秘義2516[]

 

 合理的なものからは信仰の教義は存在しない理由は(前の2053、2196、2203、2209番に示されたように)合理的なものは善と真理の外観の中に在って、その外観はそれ自身では真理ではないということである。さらに合理的なものはその下に記憶知により確認される外なる感覚的なものから発した迷妄[妄想]を持っていて、それが真理のこうした外観の中に明確でないもの[あいまいなもの]を生み出しているのである。合理的なものはその大半はたんに人間的なものであり、そのこともまたその発生から明白であるが、このことが信仰の教義的なものは一つとしてそこからは[合理的なものからは]始まることはできないし、ましてやそこから構成されることはできないのであって、主の神的なものそれ自身と神的な人間的なものから存在しなくてはならない理由となっている。それがその起源であり、実に主が教義自体であられるほどにも全くその起源であり、そうした理由からまた聖言には主は聖言、真理、光、道、戸と呼ばれたもうており(そしてこれはアルカナではあるが)教義はことごとく神的善と神的真理から発していて、それ自身の中に天界的結婚を持っているのである。それを[この結婚を]内に持っていない教義は信仰の純粋な教義ではない。ここから(教義の源泉である)聖言のあらゆる個々の事項の中には結婚の映像が存在している(683、793、801番参照)。

 

天界の秘義2516[]

 

 聖言の文字的なまたは外なる意義の中には信仰の教義は多くのものを合理的なものから、実に自然的なものからさえも持っているかのように実際見えはするが、しかしそれは聖言は人間のために存在していて、そのようにして人間に適応しているためであるが、しかしそれでもそれはそれ自身では天的な起源から発した、すなわち、神的善に連結した神的真理から発した霊的なものである。教義はもしその内容について合理的なものに諮るなら、無力な空虚なものになってしまうことは以下の記事に例により示すことにしよう。

 

 

天界の秘義2519

 

いかような点でも合理的なものに諮りはしなかった理由は前に述べられたものであり、すなわち、信仰の教義的なものは、人間の合理的なものを無限に超絶している神的なものからことごとく発しているということである。合理的なものがその善とその真理とを受ける源泉は神的なものである。神的なものは合理的なものの中へ入ることはできるが、しかし合理的なものは神的なものの中へ入ることはできないのである、それは霊魂は身体へ入り、それを形成することはできるが、しかし身体は霊魂へ入ってそれを形成することができないのと同じであり、または光が蔭へ入って、それを種々に色々な色に変えることはできるが、しかし蔭は光の中へ入ってそれを色々な色に変えることができないのと同じである。しかし合理的なものは教義を受けるものそのものであるため、合理的なものが現存しているのが当然であるかにょうに最初は思われるため、ここに、合理的なものにもまた同時に諮らなくてはならないのか、諮ってはいけないのか、ということが思考の最初の主題になったことが示されているのである。しかし主は教義がそのようなことをするならそれは無力な空虚なものになることを御自身に啓示され、また答えられもして、それで合理的なものには諮られはしなかったのだる。そのことがここにアビメレクは彼女に近づかなかったことにより意味されているのである。

 

 

天界の秘義2655

 

十節「彼女はアブラハムに言った。この下婢とその息子とを追い出しなさい。なぜならこの下婢の息子はわたしの息子、イサクとともにあとつぎになってはならない[相続してはならない]からです」。 『彼女はアブラハムに言った』は(主が)神的なものから認識されたことを意味し、『この下婢とその息子とを追い出しなさい』は、単に人間的な合理的なものは放逐されなくてはならないことを意味し、『なぜならこの下婢の息子はわたしの息子、イサクとともにあとつぎになってはならない[相続してはならない]からです』は、たんに人間的な合理的なものは、真理の方面でも、善の方面でも、神的な合理的なものそれ自身と共通した生命を持つことができなかったことを意味している。

 

 

天界の秘義2657[2]

 

 再生しつつある者にはそのすべての者のもとには二つの合理的なものが在り、一つは再生以前のものであり、他の一つは再生以後のものである。再生以前に存在している最初のものは感覚の経験を通して、市民生活と道徳生活のいくたの物を色々と反省することにより、科学により、また科学からまた科学によって引き出される理論により、また信仰の教義または聖言から発した霊的な事柄の知識により取得されるのである。しかしこれらのものは、その時は形体的な記憶の観念のやや少し上方より先へは進まないのであって、この観念は比較的全く物質的なものである。

 

 

天界の秘義2657[3]

 

しかし再生以後の合理的なものは主により霊的な真理と善を愛する情愛を通して形作られ、この情愛は前の合理的なもののいくたの真理の中に主により驚嘆すべき方法で植え付けられ、その前の合理的なものの中にあって、一致しまた支持するものはそのようにして生かされるが、しかしその他のものは無用なものとしてそこから引きはなされ、ついには霊的な善と真理とはともに集められて、いわば束となり、生かされることができない不調和なものは円周の方へ斥けられてしまい、しかもそれは霊的な善と真理とがその善と真理とを愛する情愛の生命とともに成長するにつれて、継続的な段階により絶え間なく行われるのである。このことから第二の合理的なもののいかなるものであるかが明らかである。

 

 

天界の秘義2657[6]

 

他の例を考えられよ。最初の合理的なものは、始めの中は、自己と世を求める愛以外の愛を知ってはおらず、天界的な愛は全然他の性格をもったものであることを聞くけれども、そのことを把握はしない。しかしその人間が何らかの善を行うときも、そこからは、自分は他の者の好意を受けるに価しているように自分自身に思われるか、または自分が基督教徒と呼ばれるのを聞くか、またはそれにより永遠の生命を得ることができるという歓び以外の歓びを認めはしないのである。しかしながらかれが再生を通して主から与えられる第二の合理的なものは、自分自身のものの何らかのもののためでなく、善と真理とのために、善と真理そのものの中に歓喜を感じ、これに感動され始めるのであり、かれがこの歓喜により導かれるときは、功績を否認し、ついにはそれを途方も無いものとして斥けてしまうのである。この歓喜はかれのもとに徐々に[一歩ずつ]成長して祝福となり、他生では幸福となり、それ自身がかれの天界となるのである。ここから今や、再生しつつある人間の合理的なものの各々はいかようなものであるかが明白である。

 

 

天界の秘義2657[7]

 

 しかし人間は再生しつつあるものの、依然最初の合理的なものの一切のものがかれのもとに残存していて、たんに第二の合理的なものから引き離されているにすぎず、しかもそれが主により極めて驚くべき方法で行われていることを知られよ。しかし主はその最初の合理的なものを追放されて、その何物も残らなかったのである。なぜならたんに人間的なものは神的なものとともになることはできないからである。ここから主はもはやマリアの子ではなく、各々の本質の方面でエホバであられたのである。

 

 

天界の秘義3020

 

 「かれがもっている凡ゆるものを管理したところの」。これは自然的な人の任務[務め]を意味していることは、『管理すること』の意義から、実に凡ゆるものを管理することの意義から明白であり、それは任務または義務を遂行することである。(自然的な人は合理的な人に対しては、またはそれと同一のことではあるが、外なる人は内なる人に対しては、家における管理人のようなものであることは、前の1795番に見ることができよう)。人間の中に存在している凡ゆるものは以下の点で一つの家のようなもの(すなわち、一つの家族のようなもの)であり、すなわち、その家の主人の務めを果す者と僕たちの務めを果す者たちとがいるのである。合理的な心それ自身はその家の主人として凡ゆるものを処理し、自然的な心へ流入することによってその凡ゆるものを秩序をもって排列するものであるが、しかし仕えて管理するものは自然的な心である。

 

 

天界の秘義3020[2]

 

 自然的な心は合理的な心から明確に区別され、度ではその下に在るため、またそれは恰もそれ自身のものであるものから働いているかのように働いているため、それは相対的に『家の長老である僕』と呼ばれており、それに属しているところのそれ自身の中に在る凡ゆるものを管理していると言われている。自然的な心は合理的な心からは明確に区別されていて、それよりは低い度の中に在り、恰もそれ自身のものであるものの中に在るかのように存在していることは、その中に存在しているいくたのものからまたその任務から認めることができよう。その中に存在しているものは凡ゆる記憶知であり、かくてまたいかような種類のものであれ、凡ゆる種類の知識であり、約言すると、外なるまたは形体的な記憶に属しているところの、全般的にも個別的にも凡ゆるものである(そのことについては、2471、2480番を参照)。この心にはまた、人間における内的な感覚的なものであって、子供たちのもとでは最も活発に働いていて、青春時代の第一期の中に存在している想像能力の凡てのものが属しており、またその同じ心には、人間が獣と共有している自然的な情愛のすべてのものが属しており、この凡てはその任務がいかようなものであるかを示している。

 

 

天界の秘義3020[3]

 

 しかし合理的な心はさらに内なるものである。その中に在るいくたの知識は人間の前には明らかでなく、人間が身体の中で生きている間は認められはしないのである、なぜならそれらは内的な記憶に属しているところの全般的にも個別的にも凡ゆるものであるからである(そのことについては、2470−2474、2489、2490番を参照)。この心にはまた正当でありまた公正であるものを、真のものであり、善いものであるものを認めるところの思考能力のすべてのものが属している。これらのものからこの心は自然的な心へ流れ入って、その自然的な心の中に在るものを刺激し、そのものを一種の視覚をもって観察し、そのようにして判断し、結論を形作っている。これらの二つの心は明確に区別されていることは以下の事実から極めて明白である、すなわち、多くの人物のもとでは自然的な心は合理的な心を支配しており、ましてやそれと同一のことではあるが、外なる人が内なる人を支配しており、仁慈の善の中にいる者のもとにのみ、すなわち、自らが主によって導かれることに甘んじる者のもとにのみそれは支配してはいないで、仕えているのである。

 

 

天界の秘義3029

 

自然的な人の中に為されるものはことごとく、また自然的な人の性質はいかようなものであるかは、合理的なものの中に認められている、なぜなら人間の中の低いものは高いものにより認められるからである(2654番を参照)。そこから『その僕はかれに言った』により主が自然的な人について認識されたことが意味されている。

 

 

天界の秘義3030[2]

 

純粋な合理的なものは善から存在しているが、しかし真理から発生してくる(existit)。善は内なる道により流れ入ってくるが、しかし真理は外なる道により流れ入ってくる。かくて善は合理的なものの中に善自身を真理に連結させ、それらのものが[善と真理とが]合理的なものを存在させるのである。善がその合理的なものの中で真理に連結していないかぎり、合理的なものは存在していない、たとえその人間は論じることができるため、それが存在しているように見えるとしても存在はしていないのである(1944番)。

 

 

天界の秘義3030[4]

 

 内なる方法により形作られるところの、合理的なものの善それ自身は、土地そのものであるが、しかし真理はこの土地に播かれねばならぬ種子である。純粋な合理的なものはそれ以外のいかような方法によっても決して生まれはしない。それが主のもとでも同じ方法で発生して、主御自身の力により神的なものになされるために、主は世に来られたのであり、他の人間が生まれるように生まれることが主の意志であったのである。もしそうでなかったなら、主は、古代でしばしば行われたように、出産[出生]なしに人間的なものをつけたもうたであろう。

 

 

天界の秘義3030[5]

 

 これらが本章に含まれている事柄である、すなわち、真理が自然的な人から呼び出されて、合理的なものの善にいかようにして連結されねばならなかったか、そしてそこの善は神的なものであったため、そこの真理もまたいかようにして神的なものになされなくてはならないかが含まれている事柄である。人間にはこれらの事柄は(とくに合理的なものは自然的なものとは明確に区別されているものであることを知っていないし、それで合理的なものは継続的に形成され、しかもそれが知識により形成されることを知っていない者には)極めて判然とはしないものであって、それでそれらは理解されてはいないが、しかしそれでもそれらは合理的な人と自然的な人とについて何らかの知識を持って、かくて明るくされている者たちには容易に理解される事柄の一つとなっている。天使たちはそれらをことごとく白日の下におけるように見ているのである。

 

 

天界の秘義3030[6]

 

 これらの事柄については若干の観念[考え]を前に言いもし、示しもしたことから得ることができよう、すなわち、合理的なものは真理の方面では記憶知と知識へ注がれる流入により形作られる(1495、1563、1900、1964番)、それはこの二種類の知識から生まれるのではなくて、その知識に対する情愛から生まれている(1895,1900番)、この二種類の知識はたんに善の容器に過ぎない(1469、1496番)、空虚な記憶知は破壊されなくてはならない(1489、1492、1499、1500番)。合理的なものの中では、善の情愛は真理の情愛における霊魂のようなものである(2072番)。合理的な真理の情愛とは、また単なる記憶の真理の情愛とはいかようなものであるか(2503番)、愛と仁慈とに属する天的なものの中に、知識が植えつけられつつある時、知識により外なる人は内なる人に連結する、すなわち、合理的な人は自然的な人に連結する(1450、1451、1453、1616番)。

 

 

天界の秘義3264

 

「サラの下婢、エジプト人のハガルがアブラハムに生んだところの」。これは記憶知の情愛[記憶知に対する情愛]へ注がれる神的な流入から霊的な人が生まれることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『生むこと』の意義は存在するようになることであり(2621、2629番)、『エジプト人ハガル』の表象は外的な人の生命であり(1896、1909番)、『下婢[下女、女中]』の意義は外的な人のものであるところの記憶知と知識とに対する情愛である(1895、2691番)。『サラの下婢』と言われているのは、サラにより主の神的な真理が表象され、それに記憶知に対する、また真理の知識に対する情愛が服従しているためである。イシマエルにより霊的な人が表象されているため、『サラの下婢、エジプト人ハガルがアブラハムに生んだところの』というこの言葉により、記憶知に対する情愛へ注がれる神的流入から霊的な人が生まれたことが意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義3264[2]

 

 人間の合理的なものはこのようにして生まれることについては189、1896、1902、1910、2094、2557、3030、3074番を参照されたい、従って霊的なものはこのようにして生まれるのである、なぜならこのことは合理的なものの中にのみ可能であるからであり、それ故霊的な人と合理的な人とはほとんど同一であって、霊的な者たちは単に理性の性質とその理性から由来してかれらの間に行きわたっている生命の性質とに従ってかれら自身の間で相違しているのみである。かれらが生まれることまたは再生することはいくたの知識の情愛へ注がれる神的な流入から発していることもまた前に見ることができよう(1555、1904、2046、2063、2189、2675、2691、2697、2979番)。イシマエルについて前に述べられもしまた示されもしたことを参照されたい、すなわち、かれにより未だ神的なものでなかったところの主の最初の合理的なものが表象され(1893番)、後に真に合理的なものが、または霊的なものが表象され(2078,2691番)、そのことにより主の霊的な教会が表象されたのである(2699番)。

 

 

天界の秘義3283

 

主の自然的なものは、真理が主の合理的なものに接合されなかったうちは、またその合理的なものが神的なものになされなかった中は、神的なものになされることはできなかったのである。なぜなら自然的なものへ注がれる流入は必ず合理的なものの神的善からその中に在る神的真理をとして発しなくてはならないからである、なぜなら、自然的な人の生命はことごとく知って理知的に行動する方面ではそこから発しているからである、なぜなら合理的なものは自然的なものにおける凡ゆる物を秩序づけるものであって、その中におけるいくたの物の秩序ある排列に応じて[その中で凡ゆるものが秩序よく排列されるに応じて]それらのものを適宜に観察しているからである、合理的なものは高い視力のようなものであって、それが自然的な人の記憶知をのぞきこむときは、いわばそれ自身の下に在る野原を眺めるようなものである。この視力の光は真理の光であるが、しかしその光の起原は合理的なものにおける善から発しているのである。しかしこの主題については今後さらに多くのことを述べよう。

 

 

天界の秘義3288

 

主により再生した者のみが真に合理的なものであるに反し、再生していない者はこのことを把握しないからである、なぜならかれらには合理的なものは自然的なものと同一なものであるからである。

 

 

天界の秘義3579

 

真理が増大し、善が実を結ぶことについては実情は以下のようである、すなわち、合理的なものが自然的なものの中へ流れ入ると、それはそこにその合理的なものの善を全般的な形で提示し、この善を通してその中にいくたの真理を生み出すが、それはほとんど人間の生命が繊維を作り上げ、その繊維を用に応じていくたの形に排列するのと同じである。この善は、天界的な秩序に排列されたこれらの真理を通して、さらに善を生み出し、その善を通して、さらにいくたの真理を生み出すが、その真理は派生したものである。善から真理が形作られ、さらに真理を通して善が形作られ、そのことにより再び真理が形作られることについては、このような自然的な考えをもつことができるが、しかし他生にいる者によらなくては霊的な考えは得られることはできないのである、なぜならそこでは観念[考え]は内に理知が宿っている天界の光から形作られるからである。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

 

 

天界の秘義6240

 

合理的なものの何であるかを簡単に述べよう。内なる人の知的なものは『合理的なもの』と呼ばれているが、外なる人の知的なものは『自然的なもの』と呼ばれており、かくて合理的なものは内なるものであり、自然的なものは外なるものであり、それらは互に他から完全に区別されているのである。しかし真に合理的な人間は、天的な人と呼ばれて、善を認識し、善から真理を認識している者以外の者ではないが、これに反しこの認識を持たないで、たんに何かの事柄が真であると他の者たちから教えられているために、それが真であると知っているのみで、そこから良心を持っている者は、真に合理的な人間ではなくて、内的な自然的な人なのである。主の霊的な教会にぞくしている者たちはこのようなものである。かれらは月の光が太陽の光から相違しているようにも天的な者からは相違しており、それで主は霊的な者には月として現れておられるが、天的な者には太陽として現れておられるのである(1521、1529−1531、4060、4696番)。