合理的・合理性
1.真理を理解する能力
2.真理を理解しようとする情愛が在るならば、その真理に対する情愛の度に応じて真理が認識される
3.いかようにして人間の合理的なものが妊もり、また生まれるか
4.合理的な能力は人間がただその真理を知ることによって形作られ、また開かれるのではなく、その真理に従って生きることにより形作られ、開かれる
啓示による黙示録解説765
実際人間各々は、世で生きている限り、合理性を、すなわち、真理を理解する能力を持っている。この能力は死後も人間各々のもとに存続している。それでも自己への愛から、また自分自身の理知に対する誇りから世で宗教の誤謬に惑溺した者らは、死後真理を理解しようとはしないし、そしてしようとはしないことはできないことである。こうした欲しないためにできなくなることがこうした凡ての者のもとに在って、以下の事情から更に昂進して行くのである、即ち、彼らは主権を求めて誤謬を愛する欲念の歓喜からそれを確認させる新しい誤謬に絶えず惑溺し、かくて理解の方面では誤謬そのものとなり、永遠にそうしたものとなって止まるのである。エレミヤ記のバベルに関わる以下の言葉によってもこれに類似した事柄が意味されている―
神の愛と知恵413
「知恵または理解は、愛により自らに与えられている力により、高揚されて、天界から発する光に属する物を受け、またこれを認めることが出来る」。 人間は知恵のアルカナを聞く時、それを認める能力を持っていることは前の多くの所に示された。この人間の能力は合理性と呼ばれている。それは創造により凡ての人間に与えられている。それは物事を内的に理解し、何が公正で義しいか、何が善で真であるかを決定する能力であり、それにより人間は獣から区別されている。それ故、これが、理解は高揚されて、天界から発する光に属する物を受け、これを認めることが出来ると言われる時、意味されているところである。それがそうであることもまた肺臓は理解に相応しているという理由から肺臓における一種の映像により認めることが出来るのである。(中略)このことは理解が、心臓に相応しているところのその理解に特有な愛の上に挙げられて、天界から光を受けることが出来るという理由から肺臓の中に起っている。が、理解はその理解に特有な愛の上の挙げられる時もなお、その愛から後退しないで、そこから、世の多少の名誉、栄誉または利得を求めるために、知り、理解することを求める情愛と呼ばれるものを得ている。この情愛は凡ゆる愛い密着してその表面となり、愛はそのためその表面では輝いているが、しかし賢人のもとでは、その表面は透明になっている[愛はその表面から輝き出ている]。
神の愛と知恵425[20]
「合理性と呼ばれる理解する能力と自由[自主性]と呼ばれる行動する能力とは依然存続している」。 人間に属しているこの二つの能力は前に取扱った(264−267)。人間は自然的なものから霊的なものとなるために、即ち、再生するためにこの二つの能力を持っている。なぜなら前述したように、霊的なものになって、再生するものは人間の愛であり、そしてその愛は、悪とは何か、善とは何か、それ故真理とは何か、誤謬とは何かを、その理解によって、知らない限り、霊的になることは出来ず、または再生することは出来ないからである。愛がそのことを知ると、何れか一方を選ぶことが出来、もし善を選ぶならば、その理解により、善に達する手段について教えられることが出来る。人間がこの手段を知り、理解することが出来るのは合理性によっており、それらを意志し、行うことが出来るのは自由[自主性]によっている。またこの手段を知り、理解し、考えようと欲する自由も存在している。霊的なまたは神学的な物は理解を超越しているため、理解を離れて信じられなくてはならないと教会の教義から主張する者は合理性と自由と呼ばれるこの能力については何ごとも知らない。その者は合理性と呼ばれる力の存在することを否定せざるを得ない。何人も自分自身から善を為すことは出来ない、従って救われようとする意志から善を為してはならないと教会の教義から主張する者もまた、人間に属しているこの二つの能力の存在を、宗教の原理から否定せざるを得ない。それ故こうした事を確認した者は死後その信仰に応じてこの二つの能力を剥奪され、天界的自由の中にいないで―彼らはその自由の中に居ることは出来たのではあるが―奈落の自由の中におり、合理性から発する天使的知恵の中にいないで―彼らはその知恵の効果の中にいることは出来たのではあるが―奈落の狂愚の中におり、しかも驚くべきことは、彼らはこの二つのの能力は悪いことを為し、誤ったことを考えるときに働いていると主張し、[かくして]悪を為すにあたって自由を働かせることは奴隷であり、誤ったことを考えるために理性を働かせることは不合理なことであることを知らないのである。しかし自由と合理性のこの二つの能力はその何れも人間のものではなく、人間の中の主のものであって、人間のものとして人間に僭取されることは出来ず、実際また人間のものとして人間に与えられことは出来ず、絶えず人間の中の主のものであり、しかも決して人間から取り去られはしないことに注意しなくてはならない、これはそのものがなくては人間は救われることは出来ないためである、なぜなら(前述したように)そのものがなくては人間は再生することは出来ないからである。この理由から人間は自分自身からは真のものを考えることも出来ず善いものを為すことも出来ないことを教会により教えられる。しかし人間は自分自身から考えるように考え、善いものを恰も自分自身から為すように為すことを信じなくてはならないことが極めて明白である。何故ならもし彼がこれを信じないならば、彼らは真のものを考えないし、、また善いものを為すこともなく、そのため宗教を持たないか、または自分自身から真のものを考え、善いものを為し、かくして神的なものを自分自身に帰するからである。人間は恰も自分自身から真のものを考え、善を為すかのように、真のものを考え、善を為さなくてはならないことは、「新エルサレムの生命の教義」の始めから終わりまでに見ることが出来よう。
2.真理を理解しようとする情愛が在るならば、その真理に対する情愛の度に応じて真理が認識される
神の愛と知恵404[7]
「第二の連結は理解に対する情愛を通して生まれ、そこから真理の認識が発生する」。 これはその事柄を合理的な洞察により検討しようと欲する者にはすべて明白である。真理に対する情愛と真理の認識とは理解の二つの力であって、それらは或る人物の中には一つのものとして調和しているが、他の者の中にはそのように調和していないことは合理的な洞察から明白である。それらは真理を理解を以て認めようと欲する者の中には一つのものとして調和しているが、単に真理を知ろうと欲する者の中には調和してはいない。人各々理解しようとする情愛にいる限り真理を認識することもまた明らかである、なぜならもし真理を理解しようとする情愛を取り去るならば、真理の認識はなくなり、真理を理解しようとする情愛が在るならば、その真理に対する情愛の度に応じて真理が認識されるからである。健全な理性を持つ者であって真理を理解しようとする情愛を持ち、真理を認識しない者は決していないのである。人は各々合理性と呼ばれるところの、真理を理解する能力を持っていることは前に示した。
3.いかようにして人間の合理的なものが妊もり、また生まれるか
新エルサレム27
いかようにして人間の合理的なものが妊もり、また生まれるか(2094、2524、2557、3030、5126番)。これは人間のもとにある知識と科学の中へ主が天界を通して流入されることにより行なわれ、そこから高揚が生まれてくる(1895、1899〜1901番)。
おまえの母は大いに恥じている、おまえを生んだ者は恥辱に満たされている、見よ、終わりは荒野、干ばつ、砂地となり、エホバの怒りのため、それに住む人はなく、全く荒廃するであろう、バビロンを通り過ぎる者はことごとく驚いて、その凡ての禍のために嘲るであろう(エレミヤ50・12、13)。
4.合理的な能力は人間がただその真理を知ることによって形作られ、また開かれるのではなく、その真理に従って生きることにより形作られ、開かれる
天界と地獄468
合理的な能力はいかようにして培われることが出来るかもまた簡単に述べよう。純粋な合理的な能力は真理から成っていて、誤謬から成っておらず、誤謬から生まれるものは合理的なものではない。真理には三種類のもの、即ち、社会的なもの、道徳的なもの、霊的なものがある。社会的な真理は王国[国家]内の司法と政治の事柄に、全般的には王国内の公正な、公平なものに関係している。道徳的な真理は交わりと社会的な関係の方面の各人の生活の事柄に、全般的には誠実で正しいものに、個別的には各種の徳に関係している。しかし霊的な真理は天界と教会の事柄に、全般的には愛の善と信仰の真理とに関係している。各人には生命の三つの度が在る(まえがきの267参照)。合理的な能力は社会的な真理によりその第一の度まで開かれ、道徳的な真理によりその第二の度まで開かれ、霊的な真理によりその第三の度まで開かれる。しかしこれらの真理から合理的な能力は人間がただその真理を知ることによって形作られ、また開かれるのではなく、その真理に従って生きることにより形作られ、開かれるのであって、それに従って生きることにより霊的な情愛からそれを愛することが意味されている。
霊的な情愛から真理を愛することは、公正で公平なものを、それが公正で公平であるために愛し、誠実で正しいものを、それが誠実で正しいために愛し、善で真のものを、それが善で真であるために愛することであるが、それに従って生きはするものの、形体的な情愛からそれを愛することは、自己、その名声、名誉、または利得のためにそれを愛することである。それゆえ人間が、その諸真理を形体的な情愛から愛するに比例して、彼は合理的でなくなるのである、なぜなら彼はその諸真理を愛さないで、彼自身を愛し、これに真理が、ちょうど召使いがその主人に仕えるように仕え、そして真理が召使いとなると、その真理はその人間にその生命の如何なる度も開かず、最初の度さえも開かないで、単に物質的な形をとった知識として、記憶の中にのみ宿り、そこに形体的な愛である自己への愛と連結するのである。これらの事から人間はいかようにして合理的なものになるかが明らかとなるであろう、即ち、彼は天界と教会とに属した善と真理への霊的愛により第三の度までも合理的になり、誠実で正しいものへの愛により第二の度まで合理的になり、公正で公平なものへの愛により第一の度まで合理的になるのである。後の二つの愛もまた善と真理への霊的愛から霊的なものになる、なぜならこの霊的愛はその二つの愛へ流れ入って、それと連結し、その中にいわば自分自身の肖像を形作るからである。