合理的な善
天界の秘義1950[2]
純粋な合理的なものはことごとく善と真理から、すなわち、天的なものと霊的なものから成っている。善または天的なものはその合理的なものの霊魂または生命そのものであり、真理はまたは霊的なものはそこからその生命を受けているものである。天的な善から発している生命がないなら、合理的なものはここに記されているようなものとなり、すなわち、それはすべてのものに反抗して戦い、すべてのものはそれに反抗して戦うのである。合理的な善は、いかに攻撃されても、決して戦いはしない、なぜならそれは[合理的な善は]おだやかで、優しく、忍耐づよく、素直であるからである、なぜならその性格は愛と慈悲のそれであるからである。それでもそれは戦いはしないけれど、すべてのものを征服するのである、またそれは争闘については決して考えないし、また勝利のためにほこりもしない、そのことはそれが神的なものであって、それ自身により安全であるためである。なぜならいかような悪も善を襲うことができないからである、悪は善が存在しているスフィア[霊気]の中には存続することすらできない、なぜならこれが単に近づいてくるのみで、悪は悪自身によって後退して、後に倒れてしまうからである、なぜなら悪は奈落的なものであるが、善は天界的なものであるからである。天的な霊的なものの場合も、すなわち、天的な起原から発している真理の場合も、または善から発している真理の場合も非常にそれに類似しているのである、なぜならこの真理は善により、形作られている真理であって、それは善の形と呼ばれてもよいからである。
天界の秘義1950[3]
しかしここにイシマエルにより表象されて、この節に記されているところの、善から分離した真理は、全くそれとは異なっていて、野のろばのようなものであり、すべてのものに反抗して戦い、またすべてのものもそれに反抗して戦うのであって、事実それは争闘以外にはほとんど何ごとも考えはしないし、またそれ以外には何ごとも呼吸しないのである、その全般的な喜びは、またはそれを支配している情愛は征服することであり、それは征服すると、勝利をほこり、そのためにそれは『Onager』または荒地のらば、すなわち、他のものとはともにいることのできない野生のろばとして記されているのである。こうした生命は善の無い真理の生命であり、実に、仁慈の無い信仰の生命であり、それで人間が再生しつつあるときは、それは実に信仰の真理により遂行されはするが、しかしそれと同時に仁慈の生命によっても遂行されるのであって、この仁慈の生命を主は信仰の真理が増大するに応じて密かに注ぎこまれるのである。