合理的自由
神の摂理73
「合理的な自由」は名誉または富を得る手段として認められている名声への愛から生まれている。この愛の歓喜は道徳的な人間として外面的に見られることであり、人間はこうした名声を愛するため、詐欺、姦淫、復讐、瀆神を慎んでいる、そしてこれは慎重な判断を要する事柄であるため、彼は自由にその理性に従って行動し、従って誠実な、正しい、貞潔な、友情ある人間の役割を演じ、またそれを為すように、その理性を用いて適当な言葉で弁護さえも出来るのである。しかしその合理的な能力が単に自然的なものであって、同時に霊的なものでないならば、この自由は外なるものにすぎず、内なるものでない。なぜなら彼は善を内的に愛するのでなく、前述したように、自分の名声のために外面的にこれを愛するにすぎず、それでその行う善い行為は真の善ではないからである。彼はまたこうした事は公共の善のために為さなくてはならないと言うかもしれないが、公共の善に対する愛からそれを言うのでなく、自分の名誉または利得に対する関心から言うのである。それゆえ彼の自由は公共の善に対する愛から何物をも得ていないし、その理性も同じくそこから何物をも得ていない。なぜなら理性はただ彼の愛に同意するにすぎないからである。それ故この合理的な自由は事実自然的な自由にすぎない。この自由もまた主の神的摂理により凡ての者に与えられている。