誤謬の源泉

 

 

天界の秘義1017

 

かくて彼は仁慈を斥け、仁慈の業を取るに足らぬものとし、信仰の考えの中にのみ止まっているが、信仰はその本質的なもの、すなわち、仁慈がなくては信仰ではないのである。この原理を自己自身の中に確認するにあたって彼はそのことを善の情愛[善を求める情愛]から些かも行わないで、自分のいくたの欲念に耽溺して生きるために、快楽の情愛[快楽を求める情愛]から行っているのである。そしてこうした部類の人々に属して、信仰のみを多くの事柄により確認している者はたれでもそうしたことを真理の情愛から行っているのではなくて自分自身の栄誉のために行っているのである。すなわち、他の者よりも更に偉大なものとして、更に高揚されているものとして人から思われ、かくして冨と栄誉とをもった者らの間で高い地位を得るために行っているのである。かくて彼はそれを情愛の歓喜から行っているのであって、この歓喜により(信仰のみを)確認させる事柄が増大するのである。なぜなら今し方言ったように、情愛の歓喜の如何に、増大が応じているからである。全般的には、原理が誤っているときは、誤謬以外の何物もそこからは由来することができないのである。なぜなら凡ゆる物はその第一原理にそれ自身を順応させるからである。実に―わたしは経験からそのことを知っているのであるが、この経験については主の神的慈悲の下に今後述べよう―信仰のみにかかわるこのような原理を確認して、なんら仁慈の中にいない者は主が愛と仁慈とについていくども言われたことをすべて些かもかえりみないで、恰もそれを見ていないような者になっているのである(マタイ3・8、9、5・7、43−48、6・12、15、7・1−20、9・13、12・33、13・8、23、18・21−23および最後まで、19・19、22・34−39、24・12、13、25・34、40、41、43、マルコ4・18−20、11・13、14、20、12・28−35、ルカ3・8、9、6・27−39、43から終りまで、7・47、8・8、14,15、10・25−28、12・58、59、13・6−10、ヨハネ3・19、21、5・42、13・34、35、14・14、15,20、21、23、15・1−19、21・15−17)。

 

 

天界の秘義1212

 

「ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムにきて、レシャにさえもたっした」。これらはその知識の終局となっている誤謬と悪とを意味していることは聖言の歴史的な部分と予言的な部分におけるその言葉の意義から認めることができよう。全般的に誤謬には二つの起源があり、一つは自己と世を求める愛にぞくした欲念であり、他は理論を通して働く知識 (cogniotines et scientifika) であり、このようにして発生してくる誤謬が諸真理を制圧しようとするとき、その誤謬が『ソドムとゴモラとアデマとゼボイム』により意味されるのである。誤謬と誤謬から発した悪とが内なる礼拝を欠いた外なる礼拝の境界であることはたれでも認めることができよう。こうした礼拝には死んだもの以外には何ものもない、それでこうした礼拝の中にいる人間は何処に身を向けても、誤謬に陥るのである。かれを真理の道に導き、そこに留めておく内的なものは一つとしてなく、ただ外なるもののみがあって、それがかれを欲念と幻想とに導かれるままに何処へなりと連れ去って行くのである。ソドムとゴモラとアデマとゼボイムは聖言の歴史的な部分にも記されているため、その各々のものによりとくに意味されていることは主の神的慈悲の下にそこに説明されるであろう。

 

 

天界の秘義1047

 

 「そしてわたしが地の上に雲をもたらすとき」。これは人間の意志の部分の人間自身のもののために仁慈の信仰が現れない時を意味することは、今し方地について、または人間の意志の部分の人間自身のものについて言われたことから明白である。すなわちそれは人間の知的な部分の中へ、不明確なものを、または誤ったものを絶えず注ぎこむといった性質のものであり、その不明確なものが『一面に雲となってかげらすもの』であって、凡ゆる誤謬の源泉となっているのである。このことは自己を求める愛と世を求める愛が―それらは人間の意志に属したものであるが―憎悪以外の何ものでもないという事実から充分に明らかである。なぜならたれでも自分自身を愛するに応じて益々隣人を憎むからである。そしてこれらの愛は天界的な愛に極めて対立しているため、相互愛に反したものが必然的に絶えずそこから流入し、この凡てのものが知的な部分の中で誤謬となるからである。ここからその暗黒と明確でないもののすべてが発している。黒雲が太陽の光をくもらすように、誤謬は真理をくもらせる。そして誤謬と真理とは丁度暗黒と光のように、共になることができないため、その一方は他方が来ると去ってしまうことが明らかに生まれてくる。そしてこうしたことが交互に起ってくるため、それでここに『わたしが地の上に雲をもたらすとき』と言われているのである、すなわち意志の部分の人間自身のものを通して、仁慈の信仰が、または真理がそこから派生する善とともに現れず、まして善がそこから派生する真理とともに現れないとき、と言われているのである。

 

 

天界の秘義1188

 

 教義のいくたの誤謬が『ニネベ』により意味され、他の起源から発したそのような事柄も『レホボテとカラー』により意味されていることは聖言のニネベの意義から明白であり、その意義については間もなく述べよう。こうした種類の誤謬は三つの起源から発している。最初のものは明るくされていない理解の不明確な状態における感覚の迷妄から発しまた無知から発していて、そこから『ニネベ』である誤謬が起っている。第二の起源はそれと同じ原因から発しているが、しかし革新または卓越を求める圧倒的欲念といったものをもっていて、こうした起源から発した誤謬は『レホボテ』である。第三の起源は人間が己が欲念を甘やかさない事柄をことごとく真理として認めることを欲しないという点で、意志から発しており、引いては欲念から発しており、そこから『カラー』と呼ばれている誤謬が発している。凡てこてらの誤謬はアッシルを通してまたは信仰の諸真理と諸善とについて色々と論じることから起っている。

 

[2]『ニネベ』は明るくされていない理解の不明確な状態における感覚の迷妄から発したまた無知から発した誤謬を意味していることはヨナにより明白であり―かれはニネベにつかわされたが、その都はかれらがそのようなものであったため赦されたのであった―またそのことはニネベについてヨナ書に記された事項からも明白であり、そのことについては主の神的慈悲により他のところに述べよう。そこの事項は歴史的なものであるが、それでも予言的なものであって、聖言の他の凡ての歴史的なもののように、そうしたアルカナ[秘義]を含み、表象しているのである。

 

[3]イザヤ書にも同じく、そこにはアッシルの王についてかれがニネベに止まり、かれの神ニスロクの家に身をかがめた時、かれの息子たちが剣でかれを殺したと言われている(37・37,38)。これらの事柄は歴史的なものであるけれども、しかも予言的なものであって、同じようなアルカナを含み、また表象しており、ここでは『ニネベ』により内に誤謬を宿した外なる礼拝が意味され、それが偶像崇拝であったため、かれはその息子たちにより剣で殺されたのである。『息子』は、前に示されたように、誤謬であり、『剣』は聖言の凡ゆるところにおけるように誤謬の刑罰[誤謬を罰すること]である。

 

新共同約聖書 コンコルダンス P400

 

ニネベ・・・アッシリアの都

 

 

天界の秘義1295

 

誤謬には二つの起原があり、一つは真理に対する無知から発し、他は欲念から発している。真理に対する無知から発した誤謬は欲念から発した誤謬ほど有害ではない。なぜなら無知の誤謬は人が幼少の頃からそのように教えられてきたということから起っているか、または種々の業務のために気が散って、真であると言われているものが本当に真であるか否かを点検しなかったということから起っているか、または真のものと誤ったものとについて判断をする能力をたいして持っていなかったということから起っているか、その何れかであるからである。こうした源泉から発した誤謬は、もしその人間が何かの欲念からその誤謬に向ってたきつけられて、それを弁護するほどにもそれをたいして確認もしないし、それでそれを自分自身に説きつけもしさえしなければ、たいして害を加えはしないのである、なぜならそのようなことをすることによりかれは無知の雲をぶあつなものにして、それを真理を認めることができないほどにも暗黒に変えてしまうからである。

 

[]しかし欲念の誤謬は誤謬の起原が欲念であるとき、すなわち自己への愛と世への愛である時存在する。例えばたれかが人心を捕え、これを指導するために教義の何かの点をとらえて、それを公言し、それを自己に有利に説明し、または歪め、またそれを記憶知から発した理論によっても、また聖言の文字の意義によっても確認する時のようなものである。ここから派生した礼拝はそれが外面的には如何ほど聖く見えるにしても汚れている、なぜなら内的にはそれは主を拝する礼拝ではなく、自己を崇める礼拝であるからである。こうした人間はまた如何ようなものをもそれが自己に有利になることができない限り、それを真のものとして認めもしないのである。こうした礼拝が『バベル』により意味されているものである。しかしこのような礼拝の内に育てられて、それが誤っていることを知りはしないが、仁慈の中に生きている者の場合は異なっている。かれらの無知には無垢が存在していて、その礼拝の中には仁慈から発した善が存在している。礼拝の冒瀆性は礼拝そのものよりもその礼拝の中にいる者の性質から述べられるのである。

 

 

天界の秘義1679[2]

 

悪から発した誤謬と、誤謬と誤謬から発した悪とは異なっている。誤謬は意志にぞくした欲念から発しているか、または理解にぞくするところの受け入れられた原理から発しているか、その何れかである。

 

 

天界の秘義4729

 

なぜなら誤謬には三つの源泉が在るからであり、一つは教会の教義であり、他の一つは感覚の迷妄[妄想]であり、第三は欲念の生命である。

 

 

天界の秘義5149[2]

 

二つの起原から発している誤謬が在る、すなわち、教義の誤謬と悪の誤謬が在る。教義の誤謬は善を消滅させはしない、なぜなら人間は教義の誤謬の中にいても、なお、善の中にいることができるからであり、それで凡ゆる教義の人間は、異邦人ですらも、救われるが、しかし悪の誤謬は善を消滅させるものである。

 

悪はそれ自身においては善に対立しているが、それでもそれはそれ自身によっては善を消滅させはしないで、誤謬によってそれを消滅させるのである、なぜなら誤謬は、真理が善をとり巻いているとりでのようなものであるため、善にぞくする真理を攻撃するからである。このとりでが誤謬により攻撃されるのであり、それが攻撃されると、善は破壊されるのである。