疑惑
天界の秘義1820
「わたしはわたしがそれを嗣ぐことを何によって知りましょうか」。これは充分に確信する[保証される]ことを望んだところの、主の愛に対する試練を意味していることはその言葉そのものの中に含まれている疑惑から認めることができよう。試練の中にある者は仰がれている目的については疑惑を持っている。仰がれている目的は愛であり、それにむかって悪い霊らと悪い魔鬼らは戦って、そのことによりその目的を疑わせるのであり、その愛が大きければ大きいほど、ますますかれらはそれを疑わせるのである。愛されるその目的が疑われないなら、実に絶望に置かれないならば、試練は存在しないであろう。結果についての確信[保証]は勝利に先立っており、勝利にぞくしている。
[2]僅かな者しか試練における実情を知っていないため、それをここにかんたんに説明しよう。悪霊らはその人間が愛しているもの以外のものに対しては決して戦いはしない、かれがそれを熱烈に愛すれば愛するほど彼らは益々猛烈に闘争するのである。善のいくたの情愛にかかわるものに対して戦う者は悪い魔鬼であり、真理のいくたの情愛にかかわるものに対して戦う者は悪霊である。かれらは人間が愛している最小のものでさえも認めるとすぐに、またはその者に歓ばしいまたいとしいものを匂りによりいわば認めるとすぐに、たちまちそれをおそって、それを破壊しようと努力し、そのことによってその人間全体を破壊しようと努力する、なぜなら人間の生命は愛から成立しているからである。かれらにとっては人間をこのようにして破滅させるにまさって歓ばしいものはないのであり、またかれらは主によって放逐されない限り、未来永劫までも、そのことを止めようともしないのである。邪悪で狡猾な者らは人間の愛そのものの中にその愛にこびることによって徐々にかれら自身を入りこませ、かくしてその人間をかれら自身の間に引き入れ、そして間もなくかれを引き入れてしまうと、その者の愛を破壊し、そのことによってその人間を殺してしまおうと試みるが、しかもそれは理解もできない無数の方法により行われるのである。
[4]
かれらは何ものにもまさって良心を破壊することに最大の歓喜を感じているからである。
マリア・ワルトルタ25・9/天使館1巻P206
聖母がマリア・ワルトルタに:
わたしが主に希望したのは空しいことだった、とわたしに思い込ませようと圧力をかけてくる失意に、わたしがどう挑んだがを誰が語り得るでしょう?おお!それはサタンの怒りだったとわたしは思います。背後から疑惑が襲いかかり、その冷たい触手がわたしの魂を捕らえ、その呪縛でからめとろうと伸びてくるのを感じました。疑惑は、霊に死を招くほど危険なものです。疑惑は、『絶望』という名の死に至る病の最初の徴候だからです。それに魂を奪われないよう、神を失うことがないようありとある力を振り絞って反抗しなければなりません。
マリア・ワルトルタ26・3/天使館1巻P211
ヨセフが聖母に:
「いいえ、背いていました、マリア。このような濡れ衣を着せられれば、わたしだったら自分を必死で弁護するでしょう。だがあなたは・・・あなたに問い正すこともせずに決断しようとしていたわたしに対して、自分を弁護しようとはしなかった。
わたしはあなたに疑心を抱き、あなたを侮辱しました。疑心はそれを抱くだけで相手を侮辱することなのです。疑心のある者は人を知ることはありません。
マリア、わたしは知るべきあなたを知らないでいました。だが、わたしが堪えたこの苦しみ、・・・三日間の責め苦に免じて、わたしを赦してください、マリア」。