義務
1.仁慈の義務
2.単純な心から最初為された以前の業は責務として認められるようになる
3.義務を遂行しようとする愛
1.仁慈の義務
真の基督教425
「仁慈は貧しい者に施しを、窮した者に援助を与えることを包含するが、然し、是は慎重に為されねばならない。」
仁慈の業務と仁慈の慈善とを区別することが必要である。仁慈の義務は仁慈そのものから直接に発し、上述したように我々の日々の職に含まれている。然し仁慈の慈善は我々の職業の普通の義務の外にある。それは慈善と呼ばれるのは、それが全く自発的のものであり、それを受け入れる者によってそのようなものとして受け入れられ、その仁慈家はそれを与える際、自分以外の何人ともそれを議する必要はないからである。普通一般の考え方によれば、仁慈は単に貧しい者に与え、窮した者を援助し、寡婦と孤児の世話をし、病院、治療所、養育院、孤児院、教会の建物及び資金のために寄付することに在る。然し、この多くは仁慈とは少しも関係を持っていない。仁慈そのものはこのような慈善に在ると考える者は、これを功績として極めざるを得ない。彼らは是を否定するにしてもその功績に対する信念は内に潜んでいる。このことは死後極めて明白である。何故なら、彼らはその時己が良き業を数え始め、救いを報酬として要求するからである。然し、その時彼らの業の起原と性質が問いただされ、若し、それが自惚、名声欲、単なる寛容、友情、自然的な気質、或は偽善から発していることが発見されるならば、それはその起原に従って審かれる。何故なら、起原が業の性質を決定するからである。然し、真に仁慈を持つ者はルカ伝(14・12−14)の主の御言葉に従えば、公正と判断とによって行動し報酬を考えず善き業をなす者である。彼らは又上述の仁慈の業を責務として考える。
2.単純な心から最初為された以前の業は責務として認められるようになる
真の基督教426
世で仁慈の業と呼ばれているものを為した多くの者は、是を一種の法皇の免罪符のように見做し、それが彼らを彼らの罪から浄め、彼らを真に再生した者と共に天国に入らしめると考え、しかも姦淫、憎悪、復讐、詐欺等、一般の肉欲を罪と考えないで、心のままにこれに耽溺する。然しその善い業は背景に悪魔のいる天使或は高価ではあるが中に蛇が一杯いる函として現すことが出来よう。この慈善の行為を為す者が上述した悪を、仁慈には忌むべきものとして避けるならば、事態は全く異なってくる。こうした行為、特に貧しい人々や乞食に施しをすることは多くの点に於て有益である。何故ならこうした外的な行為によって、少年少女、召使、その他の性格の単純な者達は仁慈の最初の教訓を受け、こうした行為は最初は未熟な果実のような仁慈の初歩であるからである。然し、仁慈と信仰の正当な概念が之に附加される時、それは熟した果実のようになり、かくて単純な心から最初為された以前の業は責務として認められるようになる。
神の愛と知恵142
主に対する愛にいる者は凡て主により導かれることを何物にもまさって愛し、主のみが自らを支配されることを願うため、これに反し自己への愛から発する支配への愛にいる者は、自分自身により導かれることを何物にもまさって愛し、自分自身のみが支配することを願うため、彼らは反対の方向に面を向けている。これは自己への愛から発する支配への愛と呼ばれるが、それは用を遂行しようとする愛から発する支配への愛も在るからである。この用を遂行しようとする愛から発する支配への愛は隣人に対する愛と一つのものとなっているため、霊的な愛である。しかもこれは支配への愛と呼ばれることは出来ず、義務を遂行しようとする愛と呼ばれ得るものである。