天界の秘義1861[5]

 

マラキ書にはー

 

  見よ、その日は炉のように燃えながらくる、すべてたかぶっている者は、また邪しまなことを行う者はことごとく切株となるであろう、そのくる日は彼らを燃やし、彼らには根も枝も残さないであろう(4・1)。

 

 ここの『燃える炉』も前と同じことを意味し、『根』は仁慈を、『枝』は真理を意味しており、それは残されはしないのである。

 

 

天界の秘義4231

 

「それでいちぢくの木からのたとえを学びなさい。あなた方はその枝が今や柔らかになって、その葉を出すと夏が近づいたことを知っています」

は、新しい教会の最初のものを意味しており、いちぢくの木は自然的なものの善であり、その『枝』はその自然的なものの善から発した情愛であり、『葉』は真理である。(中略)

『いちぢくの木』はそれが聖言に言われている所では常にその内意では自然的なものの善を意味しており(217番)、その『枝』はその自然的なものの善の情愛[その自然的なものの善から発している情愛]であることは、枝はその幹から発生するように、情愛は善から発生するためであり、『葉』は真理であることは前に見ることができように(885番)。この凡てからそのたとえの中に含まれていることが今や明白である、すなわち、新しい教会が主により創造されつつあるときは、先ず最初に自然的なものの善が現れるのである、すなわち、外なる形を取った善がその情愛と真理とともになって現れるのである。自然的なものの善により、人間がその中へ生まれてくるところの、または人間がその両親から取得するところの善が意味されているのではなく、その起原の点では霊的なものであるところの善が意味されているのである。この善の中へはたれ一人生まれていないのであって、主によりその中へ善と真理とにかかわるいくたの知識を通して導き入れられるのである。それゆえ人間はこの善の中に(すなわち、霊的な善の中に)いない中は、その者とともに生まれている善からいかほど教会の人間であるように見えるにしても、教会の人間ではないのである。