動揺

 

天界の秘義847

 

「水は行ったり、帰ったりしながら、地から退いた。」これは真のものと誤ったものとの間の動揺を意味していることはすでに言ったことから、すなわち、ノアに関わる洪水の水は、または氾濫は試練を意味したことから明らかである、なぜならここでは試練後の最初の状態が主題となっているため、『水が行ったり、帰ったりしながら退くこと』は真理と誤謬との間の動揺以外には何ものをも意味する筈はないからであろう。しかしながらこの動揺の性質は試練の何であるかが知られない限り知られることはできないのである、なぜなら試練のいかんにその試練の何であるかが知られない限り知られることはできないのである、なぜなら試練のいかんにその試練の後の動揺が応じているからである。試練が天的なものであるときは、動揺は善と悪との間に在り、それが霊的なものであるときは、動揺は真のものと誤ったものとの間に在り、それが自然的なものであるときは、動揺は欲念に属した物と欲念に反した物との間に在る。

 

 

天界の秘義847[2]

 

試練には多くの種類のものが在り、それらは全般的には天的なものと霊的なものとであって、これらは決して混同されてはならない。天的な試練は主に対する愛の中にいる者にのみ在りうるのであり、霊的なものは隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ在りうるのである。自然的な試練は全くこれらのものとは異なっており、実際は試練ではなくて、自然的な愛が不幸、病気により、または身体の血液と他の液体が悪化した状態により襲われて、そこから生まれてくる心労に過ぎないのである。この簡単な説明から試練の何であるかが、すなわち、それは何であれ、人間のいくたの愛に対抗する物によりひき起される苦悶と心労であることがある程度知られることができよう。かくて主に対する愛の中にいる者にあっては、この愛を攻撃するものは、何であれ最も内なる責苦を生み、それは天的な試練であり、隣人に対する愛に、または仁慈にいる者にあっては、この愛を攻撃するものは、それが何であれ、良心の呵責を生み、これは霊的な試練である。

 

 

天界の秘義847[3]

 

しかし自然的な者にあっては、かれらが屡々試練、良心の呵責と呼んでいるものは試練ではなくて、かれらが名誉が、世の善い物が、名声が、快楽が、身体の生命とか言ったものが失われるのを予見し、知った時のように、かれらの愛が攻撃されるところから生まれてくる心労に過ぎないのであるが、それでもこれらの苦難は何かの善を常に生んでいる。試練はさらに自然的な仁慈にいる者によっても経験され、従って凡ゆる種類の異端者、異邦人、偶像教徒により経験されていて、それはかれらの抱いているその信仰の生命に攻撃が加えられることから生まれている。しかしこれらは単に霊的試練に類似しているに過ぎない苦痛である。

 

 

天界の秘義848

 

試練が終わると、いわば同様のようなものが起り、もしその試練が霊的なものであったなら、それは真のものと誤ったものとの間の動揺であり、それは以下のことから充分に明白になるであろう、すなわち試練は再生の始まりであり、再生はすべて人間が新しい生命を受けることを、またはむしろ生命を受けて、人間でないことから人間となり、または死んだ者から生きた者とされることを目的としているため、それで単なる動物に過ぎないその者の前の生命が試練により破壊されるとき、かれは真のものと誤ったものとの間に動揺しないわけにはいかないのである。真理は新しい生命に属し、誤謬は古い生命に属しており、それで前の生命が破壊されて、こうした動揺がおこらない限り、霊的な種子は、土地がないため播かれることができないのである。

 

 

天界の秘義848[2]

 

しかしながら前の生命が破壊されて、このような動揺がそこから生まれてくるときその人間は真で、善いものをほとんど知っておらず、実に真理のようなものが在るか否かもほとんど知っていないのである。かくて、例えば、かれが仁慈の諸善について、または善い業と呼ばれているものについて反省して、自分は自分自身からそれを行って、自分自身の中に功績を持つことができるか、できないかと考える時、かれは明確でない暗黒状態に置かれてしまい、何人も自分自身からでは、または自分自身のものからでは善を行うことはできない、まして何人も功績を持つことはできない、善はことごとく主から発しており、功績は主のみのものであると言われると、ただ驚き怪しむばかりであるにちがいない。信仰の他の事柄の場合も同じであるが、しかしそれでもその心の明確でないものと暗いものとはそれとわかるほどに徐々に明るくされて行くのである。再生はみどり児として生まれる場合と正確に一致している。そのときはかれの生命は極めて鮮明なものではない、かれはほとんど何事も知っておらず、それで最初は単に事物の全般的な印象を受けるに過ぎないのであり、それがその中に個別的な観念を挿入され、その個別的な観念の中にさらに微細な事柄が挿入されるにつれて、徐々に明確なものになって行くのである。このように全般的なものは個別的なものにより明らかにされ、かくてその子供は事物の存在のみでなく、その性質と特質とを知るようになるのである。霊的な試練(の洪水)から浮かび上がってくる人間も同様であり、他生について、誤謬の中に在り、剥奪されつつある者の状態もまた類似している。こうした状態は動揺と呼ばれ、ここには『水が行ったり、来りしながら、退くこと』により記されている。

 

 

 

天界の秘義857

 

 『水は行ったり、減ったりしていた。』これはいくたの誤謬が見えなくなりはじめたことを意味していることは、『水は行ったり、帰ったりしながら、退いた』と言われている前のところで示されたことから明らかであるのみでなく、言葉そのものからも明らかである。しかしながらここには『水は行ったり、減ったりしつつあった』と言われ、このことにより、前の句のように、真のものと誤ったものとの間の動揺が意味されているが、しかしここではその動揺は減退しつつあったことが意味されている。(前に言ったように)試練の後の動揺の実情は、人間は(そのさい)真理とは何であるかを知っていないが、徐々に動揺が止むにつれ、真理の光が現れてくるということである。この理由は人間はこのような状態にいる限り内なる人は、すなわち内なる人を通して主は外なる人に働きかけられることができないということである。内なる人の中には、前に言ったように、善で真のものを求める情愛である残りのものが在るが、外なる人の中には欲念とそこから派生している誤謬が在り、この後のものが征服されて消滅しない限り、内なるものから、すなわち、内なるものを通して主から発している善と真理に対する道が開かれないのである。

 

 

天界の秘義857[2]

 

それ故試練は人間の外なるものが征服されて、その内なるものに服従させられることをその目的としているが、このことは以下の事実からたれにでも明白となるであろう、すなわち(不運、病気、心の悲哀の間のように)人間の愛が攻撃されて、破壊されるや否や、その者の欲念は減退し始め、同時にかれは敬虔に語りはじめるがしかし以前の状態に帰るや否や、その外なる人が支配して、かれはそのような事をほとんど考えなくなるのである。これに類した事が形体的なものが消滅され始める死の時間に起っているが、ここからたれでも内なる人のいかようなものであるかを、また外なる人のいかようなものであるかを、また残りのもののいかようなものであるかを、また外なる人に属した欲念と快楽は主が内なる人を通して働き給うのをいかようにして妨げるかを認めることができよう。このことからまた、試練により、または良心の刺と呼ばれる内なる苦痛により遂行されることもまた、すなわち、外なる人が内なる人に服従させられることもまたたれにも明らかである。外なる人の服従は以下のもの意外の何ものでもない、すなわち善で真のものに対する情愛が欲念とそこから派生してくる誤謬により妨害されたり、抵抗されたり、窒息させられたりしないということである。欲念と誤謬との止むことがここに『行ったり、減ったりしつつあった水』により記されているのである。

 

 

天界の秘義5881

 

「かれらはかれの前に仰天したからである」。これはかれらの間の動揺を意味していることは、『仰天すること』の意義から明白であり、それは動揺であり、仰天はそれ以外の何ものでもないのである。動揺により自然的なものにおける諸真理を新しく処理し、秩序づけることが意味されており、その秩序づけることについては、記憶知と真理が人間の記憶の中で配列される秩序は人間には知られていないが、しかし主が良しとされるときは、それは天使たちに知られることを知らなくてはならない、なぜならそれは驚嘆すべき秩序であるからである。それらは小さな束のようになって密着しており、そしてその小さな束そのものも共に密着しており、しかもそれはその人間が心の中で考えついた事物の関連に順応しているのである。この密着は全く人間が信じることができないほどにも驚嘆すべきものとなっており、他生ではそれは時としてまのあたりに示されるのである、なぜなら霊的なものである天界の光の中にはこのような事物は眼の視覚に示されることができるからであるが、しかし世の光の中では全く示されることはできないのである。記憶知と真理とは専ら人間の愛によってのみこうした維管束の形に配列されており、すなわち、自己をまた世を求める愛により奈落の形に配列されるが、しかし隣人に対する愛と神に対する愛により天界の形に配列されるのである。それでその人間が再生しつつあって、内なる人の善と外なる人の諸真理との連結が行われつつある間には、諸真理の間に動揺が起きるのである、なぜなら諸真理はそのとき異なった配列を受けるからである。ここで意味されているものは、またかれらが『仰天したこと』により意味されているものはこの動揺である。そのとき起きる動揺は、前の状態の変化から起きる不安により、すなわち、その状態の中にあった歓喜を剥奪されることから起きてくる不安により明らかにされるのである。この動揺はまた過去の生活―善と内なるものとそのものとは最低の位置に斥けられていたということ―にかかわる不安により明らかにされるのであり、その不安が以下の記事にとり扱われているのである。

 

 

天界の秘義5882

 

 

すなわち、内なるものが外なるものに、または善が真理に連結するとき、先ずその人間が真理に感動し、かくて善に感動することを認識する能力が与えられ、そのとき動揺が感じられ、次に内的な交流が流入により与えられなどするのである。このことからここのヤコブの息子たちが表象している自然的なものは新しい自然的なものであることが明らかである。なぜならその前の状態は変化しているからである(5881番)。