大脳

 

 

霊魂と身体の交流13

 

 人間は生命ではなくて、神から発している生命を受ける器であり、知恵と結合した愛が生命であり、また神は愛そのもの、知恵そのものであり、かくて生命そのものであることは前に証明した。ここから、人間は知恵を愛するに応じて、または愛のふところの中に在る知恵が人間のもとに在るに応じて、彼は神の映像となり、すなわち、神から発している生命を受ける器となるが、反対に、彼が反対の愛に居て、そこから狂気に居るに応じて、神から生命を受けないで、地獄から生命を受け、反対に、彼が反対の愛に居て、そこから狂気に居るに応じて、神から生命を受けないで、地獄から生命を受け、その生命は死と呼ばれる。愛そのものと知恵そのものとは生命ではなくて、生命のエッセであるが、しかし愛の歓喜と知恵の楽しさとが―それは情愛であるが―生命を構成している。なぜなら生命のエッセはこれらのものにより存在するからである。神からの生命の流入は、丁度春時の光と熱との流入のように、人間の心に、また凡ゆる種類の鳥や獣に、実に植物にもその歓喜と楽しさとを注ぎ入れ、かくて植物は芽を出して、果を結ぶのである。なぜなら、楽しさと喜びとが顔をほころばせて、霊魂の愉しさの流入に応じさせるように、愛の歓喜と知恵の楽しさとは心をひろげて、流入に適応させるからである。知恵の愛に感動する人間は、一つは生命の木であり、他は善悪を知る木の二本の木の在るエデンの園に似ている。生命の木は神から愛と知恵とを受けることであり、善悪を知る木は自分自身からそれらを受けることである。しかし後者は狂っておりつつも、自分は神のように賢明であると信じているに反し、前者は真に賢明であって、神のみが賢明であられるが、何人も賢明ではないと信じており、また人間はこのことを信じるに応じて賢くなり、また自分がそのことをねがっていることを感じるに応じてさらに賢くなると信じている。しかしこのことについては「結婚愛」を取扱った著作に挿入されている説話にさらに多くのことを見ることができよう(132−136)。

 

私はここにこれらの事を確証する天界からのアルカナを附加しよう。天界の天使たちはすべて太陽としての主にその額を向け、地獄の使いはすべてその頭の後ろを主に向け、後者はそれ自身では欲念であるところの、その意志の情愛に流入を受けて、理解にこれを支持させるが、前者はその理解の情愛に流入を受け入れて、意志にこれを支持させる。ここからこれらの者は知恵に居るが他は狂気にいる。なぜなら人間の理解は額の下に在る大脳に宿り、意志は頭の後ろに在る小脳に宿っているからである。

 

誤謬から狂っている人間はその者自身の悪の欲念を支持し、それを理解から理論により確認するが、賢明な人間はその意志の欲念の性質を真理から認めて、これを抑制することを知らない者がいようか。賢明な人間がこれを為すのは、その顔を神に向け、すなわち、神を信じて、自分自身を信じないからであるが、しかし狂った人間がそれを為さないのは、その顔を神にそむけ、すなわち、自分自身を信じて、神を信じないからである。自分自身を信じることは、自分は自分自身から愛し、自分自身から賢いのであって、神によるのではないと信じることであり、これは善悪を知る木の実を食うことにより意味されているが、神を信じることは、自分は神から愛し、神から賢明であって、自分自身によるのではないと信じることであって、これは生命の木の実を食うことである(黙示録2・7)。

 

神からの生命の流入は人間における愛と知恵との状態に応じて受け入れられることは、これらの事柄から認め得られようが、しかし依然夜の月光の中に認められるようにしか認められないであろう。この流入はさらに植物に注がれる光と熱との流入により説明されることができよう。すなわち、植物はその植物を形作っている繊維の構造に従って、かくて受け入れ方に従って花を開き、実を結んでいる。それはまた宝石に注ぐ光線の流入により説明することができよう。すなわち宝石はその宝石を形作っている部分の位置に従って、かくてまた受け入れ方に従って光線を種々の色に変化させている。同じくまたそれは光学ガラスにより、雨滴により説明することができよう。すなわちそれらは投射、屈折に従い、かくて光の受け入れ方に従って虹を現出させている。霊的な光の対する人間の心もそれに類似している。すなわちその光は太陽としての主から発出し、たえず流れ入るが、しかし多様に受け入れられるのである。

 

 

神の愛と知恵384

 

 小脳はとくに意志の器官であり、大脳は理解の器官である。

 

 

真の基督教564

 

悪の歓喜は地獄の歓喜である。それは地獄から吐き出され、足の裏に、背中に、頭の後部に流れ入る。もし、それが頭の前部に胸に流れ入るならば、その人間は地獄の奴隷となるであろう。何故なら、大脳は理解と知恵の宿る所であり、小脳は意志と愛との宿る所であるから。これが二つの脳のある理由である。この地獄的な歓喜は霊的に合理的な、道徳的なものによってのみ矯正され、変えられることが出来る。

 

 

 

結婚愛444

 

前部の下には大脳が在リ、後部には小脳があります。後のものは愛とその幾多の善に、前のものは知恵とその幾多真理に捧げられています。