地形

1.野・畠

2.土地

4.岡

5.道

6.島々

8.谷

9.森

10.庭園

11.川

12.泉

13.山に登る

15.坑

 

 

1.野・畠

天界の秘義3310

[畠]は信仰にぞくしている事柄が、すなわち、教会のものである霊的な真理がその中に植付けられなくてはならないところの生命の善であることは、マタイ伝の主の譬から極めて明白である―

種をまく者がまくために出て行った。まいている中に、或るものは固い道の上に落ちた、が、鳥が来て、それを食い尽くしてしまった。他のものはたいして土のない石地に落ちた、土が深くなかったので、それはすぐ芽を出した。が、陽が上ったとき、やかれて、根がなかったので、枯れてしまった。他のものは茨の中に落ちた。茨は大きくなって、それをふさいでしまった。しかし他のものは良い土地に落ちて、果を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の果を結んだ。聞く耳のある者には聞かせなさい(13・3〜9、マルコ4・3〜9、ルカ8・5〜8)。

ここには畠[野]の中の―すなわち、教会の―四種類の土または土地が取り扱われている。「種」は主の聖言であり、かくて信仰にぞくしていると言われている真理であることが、また「良い土地」は仁慈のものである善であることが明白である。なぜなら聖言を受けるものは人間の中の善であるからである。「固い道」は誤謬であり、「石地」は善に根ざさない真理であり、「茨」は悪である。

 

天界の秘義3317

「エソウは野から来た」

エソウ・・・自然的な真理の生命の善

野から来る・・・生命の善を追求すること。なぜなら野[畠]に物思いにふけることは、野[畠]は教会の善を意味しているため(2971)、善の中で熟考することを意味。

 

 

天界の秘義2969

 

「エフロンの畠」。

 

これは教会にぞくしたものを意味していることは以下から明白である、すなわち、『畠』の意義は教会であり、また教義であり(368、2936番を参照)『エフロン』の表象は教会にぞくしている信仰の善と真理とがその許で受けられることができた人たちであり、(2933番)、そこから『エフロンの畠』は教会にぞくしたものを意味している。

 

 

 

 

 

 

2.土地

天界の秘義10570

教会。

「土地の面に」・・何処でも教会が存在する所。

なぜなら「地」または「大地[陸]」と同じく「土地」によっても教会が意味されているからである(9325)。

「土地」は「畠」が教会を意味していると同じ理由から教会を意味しており、かくて種々の種子を受け入れることから、またその種子の成長と生産物から教会を意味しており、その種子により信仰の諸真理と愛の諸善とが意味され、人間はその信仰と愛との諸真理と諸善とを、土地が種子を受容する器であるように、受容する器となっているが、しかし教会は、教会がそのもとにあって、地または大地に住んでいる人々に因んで「地」または「大地」と呼ばれているのである。

 

 

3.山

 

4.岡

 

天界の秘義795

隣人に対する愛。

 

「山は平安をもたらすであろう、岡は、義をもって」(詩篇72・3)

「山」主に対する愛

「岡」隣人に対する愛

そのいずれも最古代教会のもとに在ったようなものである。最古代教会はこうした性格のために、それは聖言では「山」と「岡」により意味されている。

 

 

5.道

 

天界の秘義627

また『道』の意義が真理の理解であり、すなわち、真理そのものであることから明らかである。『道』は真理の理解について、すなわち真理について述べられていることは前の色々な所に引用した記事から、また以下の記事からも明らかである。モーセの書には―

 

 エホバは言われた、起きよ、早くここから降りよ、あなたの民は自らを腐らせた。彼らはわたしが彼らに命じた道から突然離れて後に向き、自分のために鋳像を作った(申命記9・12,16)。

 

 これはかれらが真理である戒めから離れ去ったことを意味している。

 

 

天界の秘義795

信仰の諸真理。

「わたしはわたしの山の凡てを道とし、わたしの大路は高く挙げられるであろう」(イザヤ49・11)

「山」は愛と仁慈を意味し、「道」と「大路」はそこから派生する[由来する]信仰の諸真理であり、その信仰の諸真理は愛と仁慈をその最も内なるものとしてそこから発している時は「高く挙げられる」と言われている。

 

 

8.谷

 

天界の秘義1723

外なる人。

外なる人はそれが下方に存在しているという事実から、「谷」と呼ばれている。

 

天界の秘義3417

「ゲラルの谷間に天幕をはり、そこに住んだ」(創世記26・17)

主が低い合理的なものへおもむかれたことを、すなわち、内的な外観から外的な外観へおもむかれたことを意味。

真理が、生命の中には余りいないで信仰の教義的なものの中にいる者らに把握されるように、またそうした者の資質に適応されるように主がその真理を処理されたことが意味されている。

 

「天幕をはる」秩序づける

「ゲラルの谷間」低い合理的なもの、また真理の外観

なぜなら「谷間」は低いものを意味し、またはそれと同一のものであるところの、外的なものを意味しており(1723)、「ゲラル」は信仰にぞくしている事柄を意味し、かくて真理にぞくしているものを意味しているからである。(1209,2504,3365,3384、3385)

 

 

天界の秘義4715

 

下の方にあるそれらの事柄(1723,3417)

教会の低いもの。低い事柄。記憶の、感覚の事柄。

礼拝の外なる事柄。

 

谷間は山と岡との間に、またその下に在ったため、それで「谷間」により教会の低いまたは外なるものが意味されている。なぜなら岡と山とのより教会の高いまた内なるものが意味され、「岡」により仁慈のものである事柄が、「山」により主に対する愛のものである事柄が意味されるからである。(795、1430、2722、4210)

またカナンの地により主の王国とその教会とが意味されているため、それでそれは「天の雨水をすいこむ山と岡の地」と呼ばれている(申命記11・11)。ヨセフがここでヘブロンの谷間からつかわされたと言われているのは、その使命は信仰について教えた者らに対するものであったためである(4705)。なぜなら信仰の中にはいるが、仁慈の中にはいない者らは低い物の中にいるからである。なぜならかれらのもとでは信仰はただ記憶の中に在り、そこから口の中にあるのみであって、心の中にはなく、そこから業の中にもなからである。

 

 

9.森

 

黙示録講解730ハ

知識。

 

 

10.庭園

 

黙示録講解730ハ

理知。

 

 

11.川

黙示録講解730ハ

「高地の川」は霊的な真理から発した理知を意味。

 

 

12.泉

 

黙示録講解730ハ

「谷間の真中の泉」は自然的な真理から発した理知を意味。

 

同730ハ

「荒野を水のプールとなし、乾いた地を水の泉とする」(イザヤ書41・18)

前には何ら真理がなかった所の霊的な人と自然的な人とを真理をもって満たすことを意味。

 

 

13.山に登る

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P214

アグラエについて、主がアンドレアに:

「贖われたいという望みは、もはや赦免に値します。死んだにしても許されたはずです。彼女は間違いを踏み越えて、真理を探したのですから。しかし、死んだのではなくて、贖いの山のふもとにたどり着いたところです。痛悔の涙をこぼし打ちひしがれているが、その涙が彼女を次第に強くし、ひいては荷を軽くします。私は彼女を見ています。太陽に向かって登り、頂上にたどり着いた時には太陽なる神の栄光に迎えられます。おまえは祈りで彼女を助けなさい。」

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P234

マリアがアグラエに:

「かぶりを振らないで。邪欲を知らなかった人だけが清いものと思うのですか。魂はもう処女に、美しさに戻れないと思っているのですか。娘よ!すべての主の恵みである私の清らかさと、失った清らかな峰へ逆戻りしようとするあなたの雄々しい登山とを比べると、あなたの方がずっと偉大であると信じなさい。あなたは、肉欲、習慣などさまざまな欲求に逆らい、それを立て直しています。私におけるそれは、呼吸と同じ生まれながらの賜物です。あなたは思い出さないように、欲求しないように、応じないようによく考えて、愛情と肉欲とを断つべきです。

 私?・・・数時間前に生まれたばかりの幼な子に肉欲があり得ますか。そして、それがないのは幼な子の手柄ですか。私も同じです。私は全人類を被害者にした、悲劇的なあの飢え渇きが何か知りません。私には神に対するいとも聖なる飢え渇きしかないのです。けれども、あなたはそれを知らず、自分でそれを習いました。恐ろしいもう一つの悲劇的な飢えと渇きを、いまはあなたの唯一の愛となった神の愛でこなしました。」

 

 

15.坑

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P55

穴蔵から霊魂を引き上げて下さった主は 祝されますように