ぶどう
1.ぶどうの木
2.ぶどう園
3.ぶどう園で働く
4.ぶどうの実
5.ぶどう酒
6.ぶどう酒を飲む
7.仲間のぶどう園に来たときは、
8.酔いどれ
1.ぶどうの木
天界の秘義1071
「ぶどう園」または「ぶどうの木」は、すでに示したように、霊的な教会であり、または霊的な教会の人間
「ぶどうの実」「ふさ」「たば」はその果であって、仁慈を、仁慈に属したものを意味
「ぶどう酒」はそこから生まれた信仰を、また信仰に属した凡ての事柄を意味
「ぶどう酒を飲む」
信仰に属した事柄を探求しようと願う
天界の秘義5113[14]
『ぶどうの木』は真理から発した善により、また善から発した真理により新しくされ、または再生した知的な部分であることは、主が聖さんを制定された後で、その弟子たちに言われた御言葉から明白である―
わたしはあなた方に言います、わたしは今から後はこおぶどうの木からできたものを、新しくあなた方とともに父の王国で飲むかの日までは飲まないでしょう(マタイ26・29)。
知的な部分を新しくし、または人間を霊的なものにするところの、真理から発した真理とは『ぶどうの木からできたもの』と、それを『飲んで』自分のものとすることにより意味されている。(『飲むこと』は自分のものとすることであり、それは真理について述べられていることは、前の3168番に見ることができよう)。これは他生でなくては充分に行われないことは、『わたしが父の王国であなた方とともにそれを新しく飲む日まで』により意味されているのである。『ぶどうの木からできたもの』により(未醗酵の)ぶどう液またはぶどう酒が意味されてはいないで、主の王国の天界的なものが意味されていることは非常に明らかである。
天界の秘義9139[5]
枝はぶどうの木にとどまらなくては、それ自身では果をむすぶことはできないように、あなたらも、わたしの中にとどまらなくては果をむすぶことはできない。わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたし無しでは、あなたらは何一つ行うことはできない(ヨハネ15・4−6)。
『ぶどうの木』は主に対する信仰であり、従って信仰の方面の主である、なぜなら信仰は主から発しているため、主は信仰であられるからである、なぜなら主から発している信仰以外の信仰は信仰ではないからである。ここからまた『ぶどうの木』は主に向けられた信仰を意味している。
2.ぶどう園
天界の秘義124
知恵、理知、理性、知識は人間のものでなく、主のものであることは、主の教えられた凡てから極めて明白である。例えばマタイ伝には主は御自身をぶどう畠を作り、その周囲に垣根を作り、それを農夫たちに貸し与えた家の持ち主にたとえられており(マタイ21・33)、ヨハネ伝には―
真理の霊はあなたらを真理の凡てへ導き入れるでしょう、かれはかれ自身で語るのではなく、何であれその聞くことを語るでしょう。かれはわたしを栄化するでしょう、わたしを崇めるでしょう、それはわたしのものを受けて、あなたらにそれを明らかにするからである(ヨハネ16・13,14)。
また他の所には―
人は天から与えられなくては、何も受けることはできない(ヨハネ3・27)。
それが真にそうであることは天界の若干のアルカナしか知らない人にも知られている。
天界の秘義9139
『畠』の意義は善の方面の教会であり(2791,3766,4982,7502番)かくて教会の善であり、『ぶどう園』の意義は真理の方面の教会であり、かくて教会の真理である。『畠』が善の方面の教会を意味していることは、小麦と、大麦のような畠の物が教会の内なる善と外なる善とを意味しているためであり(3941、7602、7605番)、『ぶどう園』が真理の方面の教会を意味していることは、ぶどう園に属した『ぶどう酒』が善の真理を意味しているためである(1071、6377番)
天界の秘義9139[2]
『畠』と『ぶどう園』にこの意義があることはその起源を霊界の表象的なものから得ているのである。なぜなら霊たちの頭上の天界の天使たちが善の中にいる者たちの集まりについて話し合っているとき、その霊たちの前に小麦と大麦とに満ちた畠が現れ、その天使たちが善の真理の中にいる者たちの集まりについて話し合っているときは、ぶどうの実に満ちたぶどう園が酒ぶねとともに現れるからである。こうした表象的なものは地上にこうした物が存在しているという事実から発しているのではなくて、相応[相応しているもの]から発しているのである。すなわち、小麦と大麦とは、またはそこから作られたパンは、愛と仁慈との善が霊魂を養うように、身体を養い、ぶどう酒も“飲み物として”同じような働きをしているのである。ここから聖言には愛の諸善と信仰の諸真理とは『食物と飲物』と呼ばれ、実にそうした意義においてまたそれらは天界の食物と飲物となっているのである(56−58,680,681,1973、1974,4459,4792,5147,5293,5576,5579,5915,8562番を参照)。
[3]
『ぶどう園』は信仰の諸善と諸真理との方面の教会を意味し、その教会は霊的な教会と呼ばれていることは、『ぶどう園』を記した聖言の記事から明白である、例えばエレミヤ記には―
多くの羊飼いはわたしのぶどう園を破壊した、かれらはわたしの畠を足下に踏みにじった、かれらは好ましい[心が望む]わたしの畠を人かげもない[物淋しい]荒地として、かれはそれを(ぶどう園を)人かげもない所とした(エレミヤ12・10,11)。
ここでは『ぶどう園』と『畠』とは明らかに教会を意味しており、教会は信仰の真理と仁慈の善から教会であるため、ここの『ぶどう園』は真理の方面の教会を、『畠』は善の方面の教会を意味していることは明らかである。
[4]
『ぶどう園』
霊的な王国
『オリーブ園』
天的な王国
3.ぶどう園で働く
黙示録講解194(2)
『ぶどう園で働くこと』は、聖言から得た真理と善とにかかわる知識を生命[生活]の用に適用し、そこから[自ら]のため[自ら]霊的な生命を得ること
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P384
祈りの中で主とともに生きるときに、わたしたちは主を知り、主を知ったときには、その愛が主のぶどう園に行き、主のために働くよう、わたしたちを急き立てるのです。そのときこそ、わたしたちは主ご自身の子供になり、主を愛するようになるのです。
トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・47・2
自分の仕事を大事にして、わたしの葡萄畑で忠実に働け。そうすればわたしはあなたの報償(むくい)となるだろう。書き、読み、歌い、嘆き、沈黙し、祈り、雄々しく辛いことを忍べ。永遠の生命はこれらのすべての戦闘(たたかい)、いな、いっそう大いなる戦闘をもする価値があるのである。いつか平和がくるだろう、その日は主がごぞんじであるが、そのときには、いまのような昼夜の区別がなくなって、いつまでも光あり、終わりなく明るく、揺ぎない平和と、安らかな憩いとがあるだろう。
4.ぶどうの実
天界の秘義1071
「ぶどうの実」「ふさ」「たば」はその果であって、仁慈を、仁慈に属したものを意味
7.仲間のぶどう園に来たときは
天界の秘義5117[13]
あなたはあなたの仲間のぶどう園に来たときは、心のままに、あくまでもぶどうを食べてよい、しかし器の中へ一つも入れてはならない(申命記23・24)。
これは異なった教義と宗教とを奉じている他の者たちと交わっている者はすべてかれらの仁慈の諸善を学んで、それを受け入れても良いが、しかしそれにしみ込んで、それを自分自身の真理と連結してはならないことを意味しているのである。『ぶどう園』は教会を意味しているため、それは教義または宗教の在る所を意味しており、『ぶどうの果』は仁慈の善であり、『器』は教会の真理である。
天界の秘義5432[5]
しかし真理と生命とのために、従って主の王国のために真理を愛している者たちは実さい教会の教義的なものを信じてはいるが、それでも真理のみを求めて聖言を研究し、その真理からかれらの信仰と良心とが形作られているのである。もしたれかがかれらに向かってあなたらはあなたらがその中に生まれた教会の教義的なものの中に止まっていなくてはならないと告げるなら、かれらは、もし自分たちがユダヤ教、ソツニウス主義、クェーカ主義、キリスト教異教主義の中に生まれ、または教会の外にすら生まれたとするなら、やはりそれと同じことがそうした信念を抱いている者らから自分たちに言われるであろうと反省し、また何処にも、ここにこそ教会が在る!ここにこそ教会がある!ここにこそ真理が在って、他の何処にもない!と言われていることを反省するのである。そしてそれが実情であるため聖言は主に向かって光により明るくされるように敬虔に祈りつつ研究されなくてはならないと、かれらは考えるのである。このような人物は、一個の教会である者は各々その者の信仰から生きていることを知っているため、教会の何人も乱さないし、また他の者を決して糾弾もしないのである。
8.酔いどれ
天界の秘義1072
「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。
これはかれがそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。
そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。
それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。
[2]
霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能なかぎりそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理がかれらから認められない、何か明確でないものがかれらの道に現れるや否や、それをわきにおいて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握できるものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気のさたであると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。
しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみねがい、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることはできないと言うのである。このことのみからでもかれらは何ら信仰を持っていないことがすぐさま知られるのであり、かれらは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べはじめ、たとえそれが永遠につづいても決して黙従しようとはしないということがかれらの不信仰のしるしとなっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤をつみ重ねるのである。