ぶどう酒

 

 

マルコ2・21−22

 

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

 

 

マタイ9・16−17

 

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。

 

 

ルカ5・36−39

 

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 

 

 

テモテ1・5・23

 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。

 

 

 

 

1.ぶどう酒

 

天界の秘義1071

 

「かれはぶどう酒を飲んだ」。これはかれが信仰に属した事柄を探求しようとねがったことを意味していることは『ぶどう酒』の意義から明白である。『ぶどう園』または『ぶどうの木』は、すでに示したように、霊的な教会であり、または霊的な教会の人間であり、『ぶどうの実』『ふさ』、『たば』はその果であって、仁慈を、仁慈に属したものを意味している。しかし『ぶどう酒』はそこから生まれた信仰を、また信仰に属した凡ての事柄を意味意味している。かくて『ぶどうの実』はその教会の天的なものを、『ぶどう酒』はその教会の霊的なものである。前のものは、または天的なものは、前に言ったように意志に属しており、後のものは、または霊的なものは理解に属している。かれが『ぶどう酒を飲んだこと』はかれが信仰に属した事柄を探求しようと欲し、しかもそれを理論により行おうと欲したことを意味していることは、かれが酔ってしまったことから、すなわち過誤に陥ったことから明白である。

 

 

 

[4]『ぶどうの実』が仁慈を意味しているように、ぶどう酒はそこから生まれてくる信仰を意味している。なぜならぶどう酒はぶどうの実から作られるからである。

 

[6]ぶどう酒は主に対する信仰を意味したため、ユダヤ教会では信仰は生けにえではぶどう酒を捧げることにより表象されたのである(民数期15・2−15、28・11−15、18から終りまで、29・7から終りまで、レビ記23・12、13、出エジプト記29・40)それでホゼヤ書には以下のように言われている―。

 

 打穀場[殻打ち場]と酒ぶねも彼らを養わない、新しいぶどう酒はその中で欺くであろう、彼らはエホバの地に住まないであろう。エフライムはエジプトにかえり、アッシリヤで清くないものを食べるであろう。彼らはエホバにぶどう酒を注がないであろう、(その捧げもの)もかれには喜ばれないであろう(9・2−4)。

 

 ここではイスラエルまたは霊的教会が主題となっており、またその中にいて信仰の聖い真の物を知識と理論とにより探求しようと欲することにより、それを歪曲し、汚してしまう者が主題となっている。『エジプト』は記憶知であり、『アッシリヤ』は理論であり、『エフライム』は論じる者である。

 

 

天界の秘義1517

 

 ぶどう酒の匂いが認められたが、それは友情と正しい愛から互に挨拶を交わしており、それでその挨拶の中には真実なこともまた含まれている者たちから発しているとわたしは告げられたのである。この匂いは多くの変化をもって存在していて、形の美しい者たちのスフィアから発している。

 

 

霊界日記6059

 

法皇派の者らが聖餐の礼典においてパンとワインとを分離した事情について

 

聖餐の秘蹟[礼典]について、法皇派の者らの間では、なぜかれらはパンとワインとを分離して、一般人にはパンのみを与えて、自分ら自身はワインを飲むか、について話し合われたが、それでも、それは主によってはそれとは異なったことが制定されたのであって、そうしたことはワインが欠乏しているという理由のため、必然から起こったのではないのである。

 

なぜならイタリ―、フランス、スペイン、ポルトガル、ドイツの内部、ハンガリーではワインが在り、また、イギリス、オランダ、スエーデン、デンマーク、改革派のいるドイツの部分におけるように、ワインが生産されていない所では、ぶどうは生育しないのに、それは聖餐の秘蹟には用いられているからである。

 

法皇派の者らは以下の私的な理由でないかぎり、いかような理由をもあげることはできなかった、すなわち、修道僧らが死者の霊魂のためにミサを執行し、他の行事に携わっているさい、その仕事がつづいて、そのため、心身ともに疲労することがないように、そのさいワインを飲んで、気力を回復するためである。

 

他のいかような理由も発見されることはできなかったが、しかしそうしたことは主の神的な摂理の下に起こったのである、と言われたのである。

 

なぜなら、かれらは、教会から凡ゆる善と真理とを剥奪したさい、パンとワインとを分離したからである、それは、善は、もしそれが真理から分離するなら、善ではなく、すなわち、善は真理の中に在るときは善であり、真理も善から真理とならなくてはいかような方法によっても真理とはならないからである。

 

 

ヨハネ2・1−12

 

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 

しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

 

イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

 

 

2.ぶどう酒を飲む

 

天界の秘義1071

 

「ぶどう酒を飲む」

信仰に属した事柄を探求しようと願う

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館第2巻/159・7

 

主が洗者ヨハネの弟子たちに

 

「しかし・・・あなたのお考えでは、わたしたちは洗礼者と共にいる方がいいのか、それともあなたと共にいる方がいいのでしょうか?」

 

「古い葡萄酒がある間は、最早その味が舌に馴染んでいる葡萄酒を飲みなさい。その後・・・それが腐った水に変わり、どこにでも悪臭を撒き散らすようになったら、あなたたちは新しい葡萄酒を愛でるようになるでしょう」。

 

「洗礼者はその業を再開するでしょうか?」

 

「もちろんです。わたしはもう彼に或知らせを送りました。行きなさい、行きなさい。あなたたちにそれができるうちに、あなたたちのヨハネを享受し、彼を幸せにしてやりなさい。その後で、あなたたちはわたしを愛するでしょう。またあなたたちは行き悩むでしょう。なぜなら・・・古い葡萄酒に引っかかった者で、ある日突然、新しい葡萄酒を欲しがる人はいないからでもあります。そして言うのです。『古い葡萄酒はもっと旨かった』と。またわたしは実際に、あなたたちには酸っぱく思われるに違いない特別の味をもつでしょう。しかしあなたたちは、一日々々、この命の味を味わうことになるでしょう。友人たちよ、さようなら。神はあなたたちと共に」。