爆発

 

出エジプト記34・29−30

 

 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。

 

 

真の基督教209(六)

 

「聖言の霊的な意義に関わる若干の驚異すべき事柄」

 自然界には、聖言からは何等驚異すべき事柄は生まれない。何故なら、その霊的な意義はそこには人々に明らかではなく、また彼らはそれをそれがそれ自体に於て在るがままに内的に受け入れないからである。然し霊界にはそこから多くの驚異が生まれる。何故なら、かの世界には凡ての物は霊的であり、そして自然的なものが自然的な人々に影響するように、霊的な物が霊的な人々に影響するからである。私はここに僅かな事柄を記しておく。聖言は神殿の中に保存せられ、大きな星のように、時としては美しい虹の後光を帯びた太陽のように輝いている。この事は宮が先ず開かれる時生ずる。聖言の一節が紙に記され、空中に投ぜられると、その紙そのものはそれが切られた形のままに輝くため、霊達は聖言によって種々の輝いた形のものを、実に鳥や魚の形をさえ生み出すことが出来ることを私は眺めて知ったのであるが、そのように聖言の真理は凡て輝くのである。然し更に驚嘆すべきことは、若し何人かがその開かれた聖言に己が顔なり、手なり、或は、衣服なりを擦り合わせてその文字に触れるならば、その顔、手、服は恰も彼が星の輝きの中に立っているかのように輝くのである。この事を私はしばしば驚異を以て眺めた。そのことによって私はモーゼがシナイ山から契約の石板を携え降って来た時その顔の輝いていた理由を示されたのである。

 更に、若し虚偽に取り憑かれた者が、その聖所に置かれた聖言を眺めるならば、暗闇にその眼は蔽われ、聖言は彼に暗黒に見え、時として煤に蔽われているように見えるのである。若し彼が聖言に触れるならば、大爆発が続いて起り、彼は部屋の一隅に投げ出され、そこに暫くの間死んだように横たわるのである。虚偽に取り憑かれた者が一枚の紙に聖言の記事を記し、これを空中に投げるならば、同様の爆発が起り、紙は千々に切断されて消失してしまう。同じ事が、若し紙が最も手近の片隅に投げられても生ずる。私はしばしばこの事を見たのである。それ故教義上の虚偽に取り憑かれた者は聖言によって天界との交わりを何ら持たず、聖言を読むにしても、それは空中に打ち上げられた花火のように途中で霧散し、消失してしまうことが私に明らかとなった。その反対が主に助けられ、聖言から教義上の真理を持つ人々に生ずる。彼らは聖言を読むや、それは天界へ登り、彼らを天使達と結合させる。天使達自身下界で何かの義務を果すために天界から降って来る時に、特にその頭の辺が小さな星に取り囲まれているように見えるが、それは彼らが聖言から神的真理を持っていることを表わしている。

 霊界には地上に在る物と同じ物が存在している。然しそれらは霊的な起原を持っている。例えば黄金、銀、凡ゆる種類の宝石は、聖言の文字的な意義にその霊的な起原を持っている。これが黙示録に新しいエルサレムの石垣の基礎は十二の宝石として記されている理由である。何故なら、石垣の基礎は聖言の文字的な意義から発する新しい教会の教義を意味するからである。同じ理由からアロンのエポデにはウリム、タンミムと呼ばれる十二の宝石がつけられ、これによって天界から応答が与えられた。更に大いなる驚異が真理に対する聖言の力に関連しているが、これは余りに偉大である故、それに就いて叙述しても全く信ぜられないであろう。霊界では聖言は山や岡を覆し、これを遥か彼方に移し、海に投じ、その他それに類した事を多く行なうのである。約言すれば、主の聖言による力は無限である。