媒介的なもの
天界の秘義5948
「あなたらの目にあなたらの持物を惜しませてはならない」。これは手段的なもの[媒介的なもの]をかえりみてはならないことを意味していることは、『持物』または『器』の意義から明白であり、それは手段的なもの[媒介的なもの]である。そうしたものをかえりみてはならないことが『あなたの目に惜しませてはならない』により意味されているのである。本質的なものと手段的なものがある。本質的なものが何処かで結果を生み出すためには、それは、その活動する手段である媒介的なものを持たなくてはならない。なぜなら手段が形成されているままに、本質的なものは活動するからである。例えば、身体はその霊の媒介的なものであり、外なる人は内なる人の媒介的なものであり、記憶知は真理の媒介的なものであり、真理は善の媒介的なものであるというようになっている3068、3079番)。
天界の秘義5948[2]
聖言で媒介的なものは『器』と呼ばれ、現在の場合では『持物』と呼ばれているが、それはそれが移住について言われ、かくて家の中の物について言われているためである。しかし本質的なものは聖言では『物[品物]』と呼ばれて、媒介的なものにより活動するものである。かくて内的なものは外的なものを通して活動するため、それは相対的には本質的なものである。媒介的なものがかえりみられてはならないことにより、この媒介的なものが目的として認められてはならず、本質的なものが目的として認められなくてはならないことが意味されているのである。なぜなら媒介的なものが目的として認められるに応じて、本質的なものは後退して、消滅してしまうからである。かくてもし記憶知が目的として、認められて、真理がかえりみられないなら、真理はついには消滅してしまい、真理が何か在るか否かも認められることができなくなってしまうのである。同様に真理が目的として、認められて、善がかえりみられないなら、善もついには消滅して存在しなくなるのである。さらに、地の物、または身体の物、または世の物を目的とし、かくてそうした物のみをかえりみて、天界のものをかえりみない者らのもとでは、天界のものは消滅してしまい、ついには天界のものはほとんど何一つ承認されなくなるのである。こうした、またそれに類した事柄が『あなたの目にあなたの持物を惜しませてはならない』により意味されているのである。
天界の秘義5948[3]
しかし以下のことを知られたい、すなわち、『本質的なもの』と『媒介的なもの』とは相対的な言葉であり、すなわち、本質的なものが本質的なものとして呼ばれるのは、それが他の物をその媒介物または器官としてそれにより働くためである。しかしその他の物が本質的なものであったものにより活動するとき、そのときはその本質的なものは媒介的なものになる、といったようになるのである。さらに創造された宇宙にはそれ自身において本質的なものは何一つ存在してはいないのであり、それは専ら至高者の中にのみ、すなわち、主の中にのみ存在しており、主はエッセ[存在]または本質的なものそれ自体であられるため、エッセ[存在]から『エホバ』と呼ばれたもうているのである。他の凡ての物は媒介的なもの[手段的なもの]にすぎない。それでこの凡てから、前に言ったように本質的なものが目的として認められて、手段的なものが目的として認められてはならないため、主のみがその目的として認められなくてはならないことが生まれてくるのである。