あわれみ

 

慈悲

 

 

1.聖書

2.あわれみ

3.あわれむ

4.神はあわれみの深淵

5.最も内なる、最も優しい愛

6.訓戒

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ9・10−13

 

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 

 

マタイ14・13

 

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群集はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群集を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

 

 

 

ルカ6・35−36

 

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

 

 

 

 

2.あわれみ

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P30

 

 「私は、愛とあわれみの言葉で語ります。ラザロ、これだけは信じてもらいたい。倒れた人に対しては、呪いの言葉よりも、愛の一つのまなざしの方がもっとききめがあるということを・・・」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P100

 

「実際、暗闇の中に花婿を見分けることはできない。そして愛に刺された魂は、自分の苦しみに何らかのうるおいを見いだそうとする。そして、それが何かの愛の中に見つかると思っている。いやいや魂のまことの愛は一つだけである、それは神である。神の愛が刺すこのような魂たちが愛を探す。

 

自分の中で光がほしい、と考えればまことの愛に会えるのに、かえって病人であるかのように手探りで愛を探し、そして人間が愛と言っているけがらわしいものにぶつかるがまことの愛は見つからない。愛とは黄金、感覚、権力ではなく神である。おお、あわれな人々、もしその人々がなまけずに永遠の花婿の招きを受けたならば、“開けよ”といわれる神に自分の心の戸を開いたならば、他のにせの愛に迷わなかったであろうに。

 

おお、皆に剥がれ、傷つけられ、叩かれているあわれな魂たち!しかし、神だけはあわれみを知らないこのようなからかいに加わらない。むしろ傷を手当てするのに自分の涙をこぼし、自分の子供をダイヤモンドの服で覆う。“いつまでも自分の子供”・・・神だけが・・・。そして、父とともに神の子らとが、主を祝しましょう。神は罪びとのために私をここに遣わし、そして、こう言わせる。

 

『ゆるしなさい。いつもゆるせ。すべての悪をよいものに変えよ。どんな侮辱でも恵みに変えよ』私は“こうしなさい”と言うだけではなく、“私のするようにせよ”と言う。私は敵さえも愛し祝福する。なぜなら、彼らによって彼らのために私の友人である、あなたたちのところに戻ることができたからです。あなたたち皆の上に平和がありますように」

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P101

 

なぜ、来てはいけなかったのですか。彼女もアブラハムの娘ではありませんか。兄弟である、あなたたちと弟子であるおまえたちから、彼女には何も知らせないと誓ってほしい。彼女の思うようにさせよ。私を、からかうかもしれないが、思うようにさせよ。

 

泣くか、思うようにさせよ。ここに残りたいか、思うようにさせよ。ここから逃げたいか、思うようにさせよ。あがない主、または、あがない主になりたい者の秘訣は絶えず忍耐、慈悲、根気を保ち、そして祈ること、これだけである。ある病気の場合、他のどんなゼスチュアも余計です・・・。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P132

 

「(前略)マテオ、あなたに対してこれとちがうやり方だったか」

「いいえ、主よ」

「しかし、本当のことを言いなさい。あなたを納得させたのは、あなたに対しての私の忍耐であったか、それともあなたに対してのファリサイ人たちの苦々しい、とがめであったか」

 

「あなたの忍耐でした。そのために今、私はここにいます。ファリサイ人たちが、そのいつもの軽蔑の言葉と呪いとをもって逆に私を何もかも軽蔑する人間に変え、その軽蔑のために今までやっていた悪いこと以上の、悪いことをしようとさえ考えた。ことは今、言ったように起こります。罪を犯しているために罪びととして、とり扱われると感じる時、人はその時により固くなるものです。しかし侮辱の代りに愛撫がくる場合、まず、びっくりし、次に涙がこぼれる・・・。そして泣き出す時には罪の土台がくずれて倒れる。人は、慈悲の前に全く裸となって、その慈悲で、自分を覆うようにと心からこいねがうのです」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P560/131・6

 

行きなさい。しかしその前に、町の門に子だくさんの一未亡人がいて飢え死にしかかっていることを、あなたたちに知ってほしい。借金を払えずに家を追い出されました。そして、彼女を追い出すことしかしなかった家主に、未だに『ありがとう』と言える人です。わたしは彼女と子供たちにパンを買うためあなたたちの献金を使いました。でもあの人たちには避難する場所が要ります。憐みはが最も喜ばれる生贄です。あなたたちはどうか善良であってください。わたしはの名において、あなたたちに報いを約束します」。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P102

 

愛とはあわれみである。

 

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝/P255

 

どんなに叱られるよりも、あなたのたった一つの愛撫のほうがずっと心を打ちました。私は恐れると、たじたじとなってしまう性質ですが、愛によれば進むばかりでなく、飛んでいきます。

 

 

3.あわれむ

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P99

 

「平和、平和!彼らも何時かは真理へ引かれて来るかもしれない。平和が必要です。彼らをあわれむことです。私たちは初めてこの地に来たのだから、彼らは私たちを知らないのです。他の所でも、こういう例はあったでしょう。同じように反抗して後で心を入れ替えたでしょう」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P138

 

「これからは、夜道も安心してください。道を警備します。これは盗賊に対する警備です。安心して旅ができるでしょう。私は・・・」

下士官はこれ以上、何を言ってよいか分からない。イエズスは微笑んで言う。

「これからは正しい生き方をして欲しい。盗賊に対しても、義務をきちんと果たす一方で残酷な扱いはしないように。彼らはただ不幸なのだから。そして何時か皆、何を行ったか、神に報告しなければなりません」

 

 

4.神はあわれみの深淵

 

あかし書房/マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P300

 

「アグラエ、あなたは主のことがまだ分かっていない!主へのあなたの望みは、主があなたの愛に応え、あなたの友人であり、あなたを招き、呼び、あなたを欲しがっている証なのです。神は人間の望みを前にして、手をこまねいていたりはしない。なぜなら、その心にその望みをおこしたのは、すべての人間の創造主である彼ご自身がおこしたからです。“神の望みは、いつも人間の望みの先にある”神はいとも完全なものであり、その愛は人間の愛よりも強く、勤勉です」

「だけど、神はどうして・・・泥のような私まで愛せるのですか」

「あなたの知恵だけで推しはかろうとしない方がよい。神は人間の知恵には不可解としか見えないあわれみの深淵なのです。かえって愛の知恵、霊の愛によって分かります。この愛は、神の奥義の中に躊躇することなく入り神と霊魂との関係の奥義までに入り込みます。繰り返して言いますが、神がこれを望むから、その中に入るのです。」

 

 

5.最も内なる、最も優しい愛

 

天界の秘義5691

 

「なぜなら彼は憐れみの念に動かされたからである」。これは愛から発した慈悲を意味していることは、『憐れみの念に動かされたこと』の意義から明白であり、それは愛から発した慈悲である、『慈悲』と言われているのは、かれは未だ彼から承認されていなかったからであり、『愛から』と言われているのは、媒介的なものとして彼が彼から発出していいたからである。原語では『憐れみ』は、最も内なる、最も優しい愛を意味している言葉により意味されている。

 

 

6.訓戒

 

天界の秘義6737

 

「彼女は彼を憐れみ」。これは神的なものから発した訓戒を意味していることは、『憐れみを持つこと』の意義から明白であり、それは主から発した仁慈の流入である、なぜなら(ここにパロの娘がその子供がいの箱舟の中に置かれて泣いているのを見たように)だれかが悲惨な状態に陥っている者を仁慈から見る時は、憐れみの念が起り、そしてそれは主から発しているため、それは訓戒であるからである。更に認識を得ている者が憐れみの念を感じる時は、彼らは助けを与えるように主から訓戒されていることを知るのである。