あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに

受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう

 

 

霊界日記4775

 

 次いでわたしはそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、すなわち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。わたしは彼らが以下のように言うのを聞いた、宇宙の創造者は世に人間の前に現れたまわないわけにはいかないのである。なぜならその方は人間を創造られ、愛されておられ、死後の生命が在り、かくて人間を永遠に救おうと望まれているからであり、またその方は、人間の目にさえも、人間の形をとって現れたもうたに違いないのである、と。するとその霊たちは以下の事実について共に話した。すなわち、現今、基督教世界にいる者らは、とくに、学者らは、全く他の見解をもっている、すなわち、主は人間として生まれられて、人間として現われられたからには、その者は、その人間的なものの方面では、宇宙の神であるはずはなく、ましてや、凡ゆる物の創造者でありうるはずはない(と考えているのであり)そのことが彼らの性質が歪められているというしるしとなっているのである。なぜならその知的な部分の中には腐敗してはいない何らかのものが在り、ましてやその意志の部分の中に腐敗してはいない何らかのものが在る者たちの中には、宇宙の神は全く人間として現れたまわないわけにはいかないということが生来植えつけられているからである。そこから、古代人は、神が地に現れたもうた際、その方を、宇宙の創造者、神と呼んだのである、例えば、アブラハムとその他の者は(そのように呼んだのであり)、同じく、ギリシャのその時代の異邦人たちも ― 彼らは他の者たちにもまさって賢明であったが ― その神々を凡て人間としたのである。例えば、サターン、ジュピタ、ネプチューン、ジュノー、ミネルヴァ、その他多くの者を人間としたのである。同じく諸国民も、偶像を作る所ではことごとく、同様に振舞ったのである。なぜなら彼らの中に、彼らがその神を見、かくして神を承認することが生来具わっているからである。このことは、主から発している神的真理[神の真理]は、天界全体のみでなく、そこにいる天使各々の中にも人間の形を着けているという理由から起っているのである。なぜなら神的真理は、その形では、人間であるからである。ここから天界の凡ゆるものは人間と相応していることが生まれており、そのことについては、「天界の秘義」の3624―3649番を参照されたい。彼らはこうした事柄を互に話し合い、以下のことを怪しんだのである。すなわち、教会が在る地域の中では学者の僅かな者しか主を神としては承認しようとはしていないが、そのことは単に主が人間であられたという理由にすぎないのであり、人間的なものを神的なものとするものは何であるかを、彼らは全く把握していないからである、と。しかし私はまた或る者たちが以下のように言っているのを聞いたのである、すなわち、教会内で或る者たちが聖者を神として拝していることは許しから発しており、そのことは目に見える神の考えが死滅しないことを目的としており、彼らはかくして、神的なものが人間の形をとっており、すなわち、主から発出している神的なものが凡ゆる形において人間であるという何らかの考えを、自然から、保有するためである、と。

 

 

 

天界の秘義5

 

特に天界全般に認められている信仰の教義について教えられたのである。

 

 

 

続最後の審判とバビロンの滅亡76

 

これが世にいるときですらアフリカ人の性格である故、現在、彼らに啓示がなされ、それは中央から始まって、周りに伝えられているが、しかし海には達していない。彼らは彼らの主を天地の神として承認し、訪れて来る地方の修道僧や、また三重の神性とただ考えるのみで救われると言う基督教徒を笑って、言う、礼拝をしている者で、その宗教に従って生きない者は無い、それに従って生きない者は、天界から何物も受けないから、愚鈍で、邪悪なものになるに違いない、と。彼らはまた巧妙な邪悪を愚鈍と呼んでいる。なぜならその中には生命はなくて死があるからである。私は天使たちがこの啓示のために喜んでいるのを聞いた。なぜなら信仰の事柄の上に引かれていた盲目のカーテンによってこれまで閉じられていた人間の合理的なものとの連絡が、その啓示により彼らのために開かれたからである。「主に関わる、また聖言に関わる新エルサレムの教義」と「新エルサレムのための生活の教義」の中に今や公にされた真理がその国に住んでいる者たちに天使的な霊により口授されていることが天界から私に言われたのである。

 

 

 

真の基督教851

 

本書の「記憶すべき事柄」を読む多くの者はそれを想像の虚構物であると信ずるであろうと私は予想している。しかし私は完全に目覚めている状態において見かつ聞いたものを記したに過ぎないことを厳かに宣言する。何故なら主は御自身を私に顕し、黙示録における新しいエルサレムにより意味されている主の新しい教会の教義を教えるために私を遣わすことを良しとし給うたからである。この目的のために主は私の霊の眼を開き給い、これにより私は霊界の天使達と交わり、同時に自然界の人々と交わったのである。そしてこれが既に二十七年間継続しているのである。

 主が何人かの霊の眼を開き、かくしてその者を照らし、その者に教えることを良しとし給わない限り、キリスト教世界で誰が天界と地獄について知ることが出来ようか。上述の「記憶すべき事柄」に記されているような事柄が天界に存在することは黙示録のヨハネ伝および旧約聖書の予言者達の記事によって明白である。

 

 

 

聖書25

 

 聖言の霊的意義が現今主により明らかにされた理由は純粋な真理の教義が今や啓示されて、この教義のみが ―他の教義ではない― 聖言の霊的意義に一致しているということである。さらにこの意義は主が雲の中に栄光と力とをもって現れたもうことにより意味されており(マタイ24・30,31)、その章[マタイ24章]は代の終りを取扱っていて、代の終りによって教会の最後の時が意味されているのである。聖言の霊的意義を開くこともまた黙示録に約束されているのである。それはそこで『白馬』により、また凡ての者が招かれている『大いなる晩餐』により意味している(黙示録19・11−18)。

 

 

 

聖書26

[5]「今後聖言の霊的意義は主から純粋な諸真理にいる者にのみ専ら与えられるであろう」。

 

この理由は何人も主のみによらなくては霊的意義を認めることはできず、また主から純粋な諸真理にいなくてはそれを認めることもできないということである。なぜなら聖言の霊的意義は専ら主とその王国とを取扱っているからであり、これが天界の主の天使たちが認めている意義である、なぜならそれがそこの主の神的真理であるから。

 

 

 

白馬11

 

内意はそれ自身では教会の純粋な教義である(9025、9430、10401)。聖言をその内意に従って理解している者は、教会の真の教義そのものを知っている、なぜなら内意にそれが含まれているから(9025、9430、10401)。

 

 

 

新エルサレムの教義260

 

内なる意義は教会の教義そのものである(9025、9430、10400番)。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223

‘88・5・16

 

イエス?

 

私です、聖書を未だ理解していないすべての霊魂のために祈りなさい この人びとはあまりにも多くの部分の解釈を間違え 光を与える可能性のある箇所全体を切り落し 照らされる可能性のある豊かな部分を剃り落としてしまう。 聞いて理解するよう努力しなさい:「ある時 巨大な畑を整地している種蒔きがいた、この人は蒔くのに一番上質の種を選び ♡ 最良の麦を収穫するはずであった! さて 刈り入れ時になったとき、そしてそれは何と豊かな収穫だったか! 敵が一群の烏を畑に送り込んだ、この畑は、非常に大きな愛と犠牲によって 汗水流して準備されたもので 国全体を養い、誰も飢えることのないであろう、豊かな収穫が約束されていた、ところが、敵によって送り込まれた烏は収穫からほうぼうを摘んでは、少しでも多くを平らげ 荒らしていった ♡ この種蒔きが一部始終を見ていて 烏を追い払うために召使いたちを送らなかったなら、収穫全体が食い尽くされていたであろう」 ♡ 

 

主よ では説明して下さいますか?

 

♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ 愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠-という−ベルトで あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは ヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)! 皆を一致させる ♡

 

 *聖書のこと

 **21・15−17

 ***イエスはここでは断固としておられました。

 

イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。

 

そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、

 

はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン

 

指をあなたの心に置かせなさい 我が祭壇が燃え立ったままであるように、全くの無に等しいながら 私 神は、あなたを愛している、あなたを遣わしたこの使命を、達成するに必要な力を与えよう、気を落さないで、忍耐を持ちなさい、まもなくあなたは我が家に帰って来る、私のもとに、私たちのところに(*)、平和を受け、教会が通るであろう刷新のために祈りなさい、私 主は、皆を愛している ♡ 「私たち」!

 

  聖マリアもご一緒で、十歳か十一歳の頃に受けた私の幻視が思い出されました。

 

はい、主よ、永遠に。

 

♡ 来なさい。