天界の秘義2405[2]

 

このときがまたは状態が、主がそのとき来られるため、または、それと同じことではあるが、主の王国がそのとき近づいてくるため、聖言では『夜明け』と呼ばれている。善い者の場合も類似している、なぜならそのようなときにかれらのもとに朝のうす明りまたは夜明けに似たものが輝き出るからであり、それで聖言には主の降臨は『朝』にたとえられ、また『朝』とも呼ばれている。たとえばホゼア書には―

 

 二日の後エホバは私たちを再び生かし、三日目に私たちをよみがえらせ、私たちは彼の前に生きるであろう、私たちは知るであろう、私たちは従って行ってエホバを知るであろう、エホバが出て行かれるのは夜明けのようである(ホゼア6・2、3)。

 

『二日』は先行する時と状態を意味し、『三日目』は審判をまたは主の降臨を意味し、それでその王国の接近を意味しており(720、901番)その降臨または接近は『夜明け』にたとえられている。

 

 

天界の秘義2405[3]

 

サムエル書には―

 

 イスラエルの神は朝の光のようである、陽は登り、雲のない朝、その輝きから、その雨から地から作物が生まれる(サムエル後23・4)。

 

「イスラエルの神」は主を意味している、なぜならそれ以外のイスラエルの神はその教会には意味されなかったのであり、主はその各々のまたすべてのものの中に表象されたもうたからである。ヨエル書に―

 

 エホバの日が来る、それは切迫しているからである、暗黒と暗闇の日、雲と不明の日、山々の上に拡がった夜明けのように(ヨエル2・1,2)。

 

ここにもまた主の降臨とその王国がとり扱われており、そのときここにロトがソドムの男らから分離されているように、善良な者が悪い者から分離され、善良な者が分離された後、悪い者が滅びるため、それは『暗黒と暗闇の日』と呼ばれている。

 

[4]主の降臨またはその王国の接近は『朝』にたとえられているのみでなく、実際『朝』とも呼ばれていることは、ダニエル書に見ることができよう―

 

 聖い者は言った、その幻は、不断の生けにえは、荒らす[荒廃させる]咎は何時までつづくでしょうか。かれはわたしに言われた、夕と朝の幻は真理である(ダニエル8・13、14,26)。

 

ここの『朝』は明らかに主の降臨を意味している。

 

[7]

『朝』はその本来の意義では、主を、主の降臨を意味し、かくて主の王国の接近を意味しているため、その他それに意味されていることが明白であり、すなわち、新しい教会の勃興が意味され(なぜならそれは地上の王国であるから)、しかもそれが全般的にも、個別的にも、また最小の個別的なものにおいても、意味されているのである、すなわち、全般的には、地球上に何か新しい教会が建てられつつあるときが意味され、個別的には人間が再生し、新しくされつつあるときが意味され(なぜならそのとき主の王国がかれの中に起って、かれは教会となりつつあるからである)、最小の個別的なものでは、愛の善と信仰とがかれの中に働きつつあるときがことごとく意味されている、なぜならそのことの中に主の降臨があるからである。ここから三日目の朝に主が復活されたことは(マルコ16・2、9、ルカ24・1、余0・1)主が日々実に各瞬間においてさえも再生した者の心の中に復活されることに関連して、このあらゆる事柄を(実に個別的にも、また最小の個別的なものにおいても)含んでいるのである。

 

 

天界の秘義3458

 

「かれらは朝早く起きた」。これは明るくされた状態を意味していることは、『朝』と『早く起きること』の意義から明白であって、それは明るくされた状態である、なぜならその最高の意義では『朝と暁[夜明け]』は主であり、内意では主の愛の天的なものであり、かくてまた平安の状態であり(2333、2405、2540、2780番)、その内意では『起きる』ことは高揚されることを意味しているからである(2401、2785、2912、2927、3171番)、この凡てからかれらが『朝早く起きたこと』が明るくされた状態を意味していることが明白である。