彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

(マルコ16・17)

1.聖言より

2.信じる者

3.主の名において魔鬼を追い出す

4.新しい言葉

5.蛇をとり上げる

6.致死的なものを飲むにしても害を受けはしない

7.手をおくことにより良くなる

8.印し

 

1.  聖言より

 

マルコ16・16―18

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る

 

2.信じる者

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義10392

 

 ここからマルコ伝の主の御言葉により意味されていることを認めることができよう―

 

信じて、洗礼を受ける者は救われるが、しかし信じない者は罪に定められる(マルコ16・16)。

 

「信じる者」は主を承認し、主から聖言を通して神的な諸真理[神の諸真理]を受ける者であり、「洗礼を受ける者」は主によりこの諸真理により再生する者である。

 

3.主の名において魔鬼を追い出す

 

黙示録講解706[14]

 

 霊的に理解された主の名は主から聖言を経て発する教義の凡ゆるものを意味しており、「魔鬼」は凡ゆる種類の誤謬を意味し、かくてこれらのものは主から聖言を通して発する教義により追い出され、すなわち、取り去られるのであり、

 

4.新しい言葉

 

黙示録講解706[14]

 

「新しい言葉」は新しい教会の教義的なものを意味しており、

 

 

黙示録講解455ハ[21]

 

さらに、主が復活されたもうた後使徒たちと他の者たちとが新しい舌で話したこともまた主を、また新しい教会の真理を告白したことを意味している。そのことはマルコ伝に以下のように言及されている―

 

イエスは言われた、信じる者たちには以下のようなしるしがともなうであろう、すなわち、わたしの名においてかれらは魔鬼を追い出すであろう、またかれらは新しい舌で話すであろう(マルコ16・17)。

 

「魔鬼を追い出すこと」は悪の誤謬を遠ざけ、斥けることを意味し、「新しい舌で話すこと」は主を、また主から発する教会の諸真理を告白することを意味している。

 

「舌」は普通の意味における話を意味しないで、教会の真理から発する告白を意味し、反対の意味では何らかの宗教の誤謬から発した告白を意味。

 

 

5.蛇をとり上げる

 

黙示録講解706[14]

 

「蛇」は悪意の方面の地獄を意味し、かくてかれらはそれにとりつかれて悩まされることから安全になるのであり、

 

 

黙示録講解581[2]

 

「蛇」・・・感覚的な人間、感覚的なものそのもの。それに噛まれることは致死的な損害を意味。

 

 

黙示録講解581[6]

 

奈落の霊らの狡知と悪意とは主から庇護されている者たちには些かも危害を加えることはできないこともまた主の以下の言葉により意味されている―

 

弟子たちは蛇とさそりとをふみつける力を、敵の凡ゆる力を治める力を持つであろう(ルカ10・19)。

またかれらは蛇を取り上げ、何か死をもたらす物を飲む力をもつであろう、それはかれらを害いはしないであろう(マルコ16・18)。

 

「蛇をふみつける」は奈落の一味の者らの詐欺、狡知、邪悪な術策を軽べつし、軽視することを意味し、それ故「敵の凡ゆる力を治める」と附言されており、「敵」はその一味の者であり、「その力」はその狡知である。

 

6.致死的なものを飲むにしても害を受けはしない

黙示録講解706[14]

かれらは地獄の悪意に感染しないであろうを意味した

 

7.手をおくことにより良くなる

黙示録講解706[14]

「病んだ者は手をおくことにより良くなるであろう」は不法と罪と呼ばれる霊的な病を、天界と交流し、かくて主と交流し、連結することによりいやされることを意味したのであり、弟子たちの手をおくことは主と交流し、連結することに相応し、かくて主の神的な力により不法を除かれることに相応しているのである。

 

8.印し

黙示録講解706[14]

イエスは弟子たちに言われた、これらの印しが信じる者たちに従うであろう、わたしの名においてかれらは魔鬼を追い出すであろう、かれらは新しい言葉を話すであろう、かれらは蛇を取り上げるであろう、もしかれらが死をもたらすものを飲むにしても、それもかれらを害わないであろう、かれらは病んだ者に手をおくならば、かれらは良くなるであろう、と。そしてかれらは出て行き、凡ゆる所で説いたが、主はその言葉につづく印しによりかれらとともに働かれた(マルコ16・16,17,18,20)。

 

これらは奇蹟であったものの、「印し」と呼ばれたのは、それらがそれらを行われた主の神的な力を立証するものであったためでありそれゆえ「主はこれらの印しによりかれらと共に働かれた」と言われている。

 もしこれらのものが悪い者らに適用されたとするなら、それらは「おどろくべきもの」と呼ばれたことであろう。なぜなら悪い者らのもとではそうしたものはたんに驚きをもって、心を満たして、打つであろうが、依然説得して信仰を得させはしないからであるが、しかし善い者たちにあっては異なっている。なぜならかれらのもとではその同じものは立証であり、説得して信仰を得させ、それゆえ、それらは「印し」と呼ばれ、「これらの印しは信じる者たちについて行くであろう」と言われている。

 

 しかしいかようにしてこれらの印しは説得して信仰を得させるかを簡単に話そう。これらの奇蹟的な印しは、「かれらは魔鬼を追い出すにちがいない」、「新しい言葉を話すにちがいない」、「蛇を取り上げるにちがいない」、「もしかれらが何か致死的なものを飲むにしても、それはかれらをそこないはしない」、「手をおくことによりかれらは良くなるであろう」といったものはその本質とその起源においては霊的なものであって、そこからこれらのものが流れ出て、結果として発生したのである。なぜならそれらのものは主からの流入により霊界からその凡てのものを取得した相応したものであったからである。