ヴァッスーラの口述筆記

 

 

 

天使館/ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P43〜

 

ネランク:口述筆記をした後で、『神のうちの真のいのち』に収められたものは、1985年からずっと保管していらっしゃったのですか?

 

ヴァッスーラ:最初の数か月はルーズリーフに書いていたのですが、そちらは捨てるか紛失してしまいました。その後はデパートで買った、ごくシンプルな赤色の学童用ノートに書くようになりました。ギリシャ人にとって、赤は復活を象徴する色なのです。すべて鉛筆書きです。お見せしましょう。ノートは64ページ綴りのもので、今では87冊になりました。それに天使との会話を書きとめたノートも5冊あります。

 

ネランク:口述筆記には、どのくらいの時間がかかるのですか?15分とか30分とか書き続けられますか?

 

ヴァッスーラ:そのときによりけりですね。5分のこともあれば、10分、15分のこともあります。でも本当に重大な事柄を口述筆記する場合は、たとえば現在ローマ・カトリック教会内部で起っている反逆の問題などは、ずいぶん時間がかかります。一度など、九時間も筆記したことがありました。

 

ネランク:休みもとらずに?

 

ヴァッスーラ:まさか。途中で何度かお休みします。

 

ネランク:それに、聞いた話によると、電話がかかったり玄関で呼び鈴が鳴ったりすると、途中でやめて、それからふたたび口述筆記にとりかかることもお出来になるそうですね?

 

ヴァッスーラ:そのとおりです。

 

ネランク:いつも使われるのは英語だけですか?

 

ヴァッスーラ:そうです。いつも英語です。私のもっとも得意な言葉ですから。

 

ネランク:これらの文書はすべて、筆跡鑑定家の鑑定を受けたのですか?

 

ヴァッスーラ:はい。それも三人の鑑定家の。最初はミュニエ氏、次いでカーティ司祭、三番目はロンバル氏です。

 

 このあたりで、ヴァッスーラさんが口述筆記した文字の鑑定を依頼されたJ・Aミュニエ氏の分析をご紹介しましょう。ミュニエ氏には、あなたが四十七歳の女性で、二つのタイプの字を書くことだけ明かしてあります。けれども最初の文字は口述筆記で、二番目はヴァッスーラさん自身のふだんの文字であることは伏せてあります。J・Aミュニエ氏はパリ控訴院に派遣されている筆跡鑑定家です。

 

 

筆跡鑑定による解釈

ミュニエ氏には事前の情報はない。また英語を話さないので、本文の内容は考慮されていない。

大きな字体の解釈:

―(ものすごい地球の磁力)

―快い喜びをともなう、内包された熱意、つまり一種の充足感を生み出す発電機のようなもの。

―彼女は自分を越えた力に満たされている。

―彼女は目に見えないさまざまな力を付与されており、それに対して一種の原始的な素朴さで対応している。別の部分において、彼女には洗練されたところもまたある。

―自分が強烈に感じ取っている、目に見えない力を確信している。

―彼女は伝達と増幅の中枢のような仲介者である。神秘家のような信仰の持ち主。

―ある種の静かな熱意、充足感を感じている。

―不滅のものとおぼしい、目に見えない力を与えられて、はっきり二つに分裂している。

―書体はいずれにしても、常識からすれば、いささか奇妙。

―きわめて熱心な、素直で聞き分けのよい生徒。

―夢遊状態にあるかのように、外界のことには無関心。

―目に見えない言葉を媒体として世界を非常にはっきりと感知することができる。

―きわめて集中力があり、豊かな内向性がある。

―自由に振る舞ってはいない。どこかぎこちない。自分自身をしっかりコントロールしている。おそらく態度も、立ち居振る舞いも自己抑制されている。

 

小さな字体の解釈:

―自分の世界に住むパーソナリティーの持ち主。

―精神異常者ではない。

―頭脳は、少なくともかなりいい女性。

―独自の論理に従う。

―ある種の統合された能力を持つ。

―細やかな心配りをする、親切で、温和な女性。

―目的を追う人。その目的に向ってひたすら邁進する。

―高度の霊感感応者。

―この女性の人生は、一つの理想に輝いている。

―彼女にとって、その他のことは、まったく重要でない。

 

ネランク:ただ単に文字や書体のみを対象にする筆跡学の研究のほかに、言語学的な分析はまったくないのでしょうか? たとえばいくつかの言葉が使用される頻度を分析することによって、文体のちがい、文法上の形式の違いを突き止めることができます。もしすでに行われていなければ、興味深いのは、言語学者が研究をして、文中の聖書の釈義や引用を捜し出すことです。

 

ヴァッスーラ:その分野の研究は、ポーランド人のミシェル神父がなさっています。

 

ネランク:また、ヴァッスーラさんが最初お書きになったのは1985年から86年にかけてのものですから、言語上の変化が、とりわけ聖書と接することで生じたかどうかを調べるのも興味深いことです。ヴァッスーラさんがメッセージを作成なさったのなら、引用が多くなっているはずです。筆記しておられる間に、どなたかの観察を受けたことはありますか?

 

ヴァッスーラ:はい。その一人は、フィリップ・ロロンというフランス人の心理学博士です。この方は『ヴァッスーラが書くのを見た』という題名の本を出版されました。私が筆記しているあいだ、博士もその場にいらしたので、よくご存じです。お書きになったものを引用しましょうか。

 

ネランク:そうですね。ここに興味を引く箇所があります。

 

「ヴァッスーラは、三月十四日の月曜日の、午後二時半から三時半の間、メッセージを受け取る様子を、私一人にだけ見せることを承知してくれた。祈りによる準備のあとで、彼女はひざまずいて、<主よ>と筆記で問いかけた。それから<私である>というエジプトの神官文字を受け取った。次いで同じ書体でメッセージが届いた。彼女は筆記する前にしばしばその言葉を口にしたが、それは明らかに心の中での言い回しだった。だが単なる聞き取りではなかった。なぜならそれまでの文字とは異なっていたからだ。鉛筆はより硬く握られ、よりまっすぐに立っているので、速度はほんのわずかだが遅くなった。いずれにしても、先ほどの文字と同じように伸びやかだが、さらに決然として、筆圧がもっと強かった。ためらいも、動揺もまったく認められなかった。

(・・・・)

 

 ヴァッスーラの意識は完全にはっきりしている。現実を遊離した状態ではない。手首に触れると、それを感じ取り、周囲の世界も見ている。ときには彼女に話しかけることもできる。彼女が書いているときに、手首を抑えようとしてみた。神官文字の時は、桁外れというほどではないが、強い抵抗があった。前腕のあたりの筋肉に緊張があり、その腕を私の方や自分の方へと行き来させながら、手は同じリズムで書き続けていた。その時、私の胸と顔のあたりがひどく暑くなりはじめた。額に汗が出ていると思ったほどだが、額をぬぐうと、汗は出ていなかった。」

 

 ヴァッスーラ夫人に与えられた、多かれ少なかれ口述筆記の形態をとる賜物がどんな形をとるものかについての話しの最後に、『ヴァッスーラ、われらの時代のエキュメニズムのカリスマ』と題されたフェルナンド・ウマ―ニャ・モントヤ神父の著書から、以下の長い抜粋をご紹介するのは興味深いと思う。この本の正確な出典については、巻末の参考書目に掲載した。この分析では「口述筆記」をいくつかの段階に分けてあるので、現象をよりよく理解することができる。

 

1.口述筆記

 ヴァッスーラは口述されたことを逐語的に書き取る形態を好むが、それは自分が書かなければならないことを、正確に聞き取ることができるからである。神はしばしば、彼女が知らない言葉をお使いになるので、その言葉を理解するために辞書を引かなければならない。彼女は心の中で神の言葉を「聞き」、その口調、感情、声の抑揚を詳しく説明することができる。それと同時に、自分が聞いたことを書かせようとする、ある力を感知している。ヴァッスーラは自己の自由を失っているわけではない。口述を受けているとき、彼女は完全に自分を制御しており、外部の世界や身近な人々と接触し、個人の自立を保っている。たとえば途中で電話や呼び鈴に返事をしたあとで、ふたたび中断した箇所から筆記することができる。

 口述筆記の文字は直立し、はっきりしていて、穏やかであり、日常書いている右に傾いた小さな文字とはまったく異なっている。

 

2.言葉によらない啓示

 神の出現の二番目の型は、言語によらない、つまり言葉のない、内面での啓示の拝受である。すなわち神がヴァッスーラ自身の言葉で書くことをお望みになる、なにがしかの考えや内容に関わっている。この型の啓示は、神に理解させていただいたことを、忘れる前に示されたように、もっとも適切な言葉を探し出して表明する努力をしなければならないので、前述の口述筆記よりむずかしい。それは天国のことを語るための啓示を心の中で受けたアヴィラの聖テレサが、主なる神からのメッセージを、忘れずに書こうとして、大急ぎで礼拝堂から飛び出さねばならなかったという有名な逸話に似ている。ヴァッスーラがときに綴りを間違えるのはそのためである。なぜなら彼女は神が啓示されたこと、あるいは理解させたことを「自己流」に書くからである。彼女が書き忘れていたり、欠けていることがあれば、神はそれを思い出させるか、さもなければ直ちに訂正させる。ヴァッスーラは最初は急いで書き取り、次に個人的な部分はわきにどけて、書いたものを「清書する」。彼女があとで清書をするときに、神は必要であれば訂正をなさる。

 

3.言葉による啓示

 三番目の型である言葉による啓示は、神がもっと急いでヴァッスーラに話され、あることをまとめて一挙にお伝えになるときに現れる。だからできるだけ大急ぎで書かなければならない。その場合は、ヴァッスーラが文章を作成する。しばしば小さな綴りの間違いがあるのは、そのためである。神が話しておられる間、彼女は神と親しく交流している。ついでこの親しみから離れて、神から教えられたことをできるだけうまく書こうと努める。

 ヴァッスーラが、一語一語言われたとおりに筆記してゆく一番目の型を好んでいるのは明らかである。そうすることで、どの言葉も神からのものであることを確信できるからである。

 ヴァッスーラに与えられたカリスマという賜物は、きわめて複雑である。我々はそれを、パウロの預言の類に特有のものとして分類することができる。すなわち神から受け取った、共同体のための言葉を伝達するために、ある人間に与えられた恩寵の類である。ヴァッスーラの場合、この預言の賜物はさまざまな様相を呈している。

 

(1)知的な見神

 ヴァッスーラは「霊魂の目」によって、心の中に主を「見る」ことができる。彼女はそれを描写し、主の顔と表情、それに主の霊魂の状態を細部にわたって説明することができる・・・・。こうした「知的な見神」は多くの聖人や神秘家にしばしば見られる。

 

(2)聴き取り

 ヴァッスーラは心の中で神の声を「聴き」、神の声のアクセント、音調、抑揚、神が彼女の「霊魂」に語りかける声にこめられた感情を感じ取ることができる。これも前述のように、内面のことばである。

 

(3)肉体の運動

 ときに神は書かせるために、彼女の手を動かされる。ある場合は、手の動きと内面の言葉は同時に起り、連動する。別の場合は、先に内面の言葉と啓示があり、次いでそのあとに始めて手の動きによる筆記が行われる。

 

(4)「類似の霊感」

 旧約聖書にはしばしば、神からの「書き記せ」という命令が登場する。「このことを文書に書き記して記念とし・・・・」(出エジプト記17・14)。「これらの言葉を書き記しなさい」(出エジプト記34・27)。「律法の言葉をすべて書き記しなさい」(申命記27・3、8)。「今、行って、このことを、板の上に書き記せ・・・・」(イザヤ書30・8)。「あなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい」(エレミヤ書30・2)。「その時、人の手が現れて書き始めた・・・・」(ダニエル書5・5)。「幻を書き記せ。板の上にはっきり記せ」(ハバクク書2・2)。「あなたが見たもの、それを書物に書き記しなさい」(ヨハネ黙示録1・11)。「それゆえに、あなたが見たものを書き記しなさい」(ヨハネ黙示録1・19)。「それから、書けと私に言う声が、天から聞こえてきた」(ヨハネ黙示録14・13)。書き記す預言者たちは、聖書の啓示の中で第一等の場所を占めている。しかしながら聖なる文字については、ローマ・カトリック教会の歴史においても、類似のケースがないわけではない。それどころか、教会史を通して、同じような「霊感」に浴した文書、つまり聖霊が現れて、書く者の霊魂を照らし、神からのものを正しく「判断するための」光と明晰さをこれに与え、さらにそれらを文字にする力と能力を与える、そういった聖霊の御業と出現に浴した、数え切れないほどの文書を目の当たりにすることができる。教皇と教会の神父や博士の文書は、神の「特別の臨在」の実りとして知られている。偉大な神秘家の文書は、それらの文書が単に人間によって書かれたものであるかもしれないが、内面の恩寵であり、真の霊感、すなわち彼らを良く導くための神の出現なのである。ヴァッスーラのケースは、真に偉大な力と類似の、霊感の賜物である。この霊感は、他のものとは異なる。というのもいかなる人間による探求の作業も必要としないものだからである。ヴァッスーラは逆に、あらゆる神学上の問題にまったく無知であるにもかかわらず、神は彼女をお選びになった。彼女が書いたものは、神の直接の働きの所産である。彼女を教育したのも、すべてを伝授したのも、口述しているのも、霊感を吹き込んでいるのも神であり、彼女が書き記したのは、神が啓示されたことである。

 

(5)「主なる神の御姿の識別」

 内面の言葉に加えて、神はヴァッスーラに、ご自分の姿を「識別する」術をお教えになった。イエスは「霊魂の目で見ること」ができるようなやり方で、霊的に、彼女の心の中にご自分の姿を現される。だがそれは自動的なものでも、魔術でもない。ヴァッスーラはたゆまぬ努力を続けながらゆっくりと進歩してゆき、生き生きとした活動的なイエスの姿を識別することができるようになったのである。主は彼女に、識別することを少しずつ「教えて」いった。あらゆる恵みの賜物は、こうした段階的な教育を必要とする。恵みの賜物に自動的なものも、魔術的なものもない。あるのは常に、遅々として、困難な、苦しい歩みである。他のすべての恵みの賜物と同じように、神は人間的なやり方で、少しずつ、その賜物の用い方を練り上げるようお導きになる。癒しの賜物、ことばの賜物、神の息吹を識別する賜物なども同様である。恩寵はゆっくりと、いくらかは本人の献身的な協力を期待しながら作用する。ヴァッスーラもまたこのようにして、主の現存を識別する恵みの賜物を学んだに違いない。主は彼女に対して霊的に姿を現されたがその結果、神が地上におられたときのように、人としての主を、知的な幻覚として「見る」ことができたのである。彼女は肉体を有する神の物腰を、面差しを、肉体に現れた霊魂の状態の印象を、さらにその他を見分けることができる。主の現存を識別できるこの賜物は、内面での言葉と垂直な文字で書かれた「具体的な指導」とで完全なものとなる。以上のように、全くのところ非常に複雑で、並外れて豊かな賜物である。

 

(6)「典礼にのっとった厳かな」文字

 ヴァッスーラが口述筆記した文字は垂直で、はっきりしていて、典雅であり、彼女自身のものとはまったく異なっている。それは「典礼にのっとった厳かな」とか「聖なる」と呼ばれている文字である。自動記述ではない。口述筆記の文字については、まさにこの点が問題になる。というのも、潜在意識に起因する、あるいは悪意に起因する自動記述の現象はよく知られるところだからである。この現象が起こるとき、書いている人間は、その内容を自覚せずに、不思議な力に突き動かされている。自動記述の極端なケースでは、鉛筆が手を無理やり動かしながら、いわば勝手に動くのである。ヴァッスーラの場合は、そのようなことは全くない。彼女には意識があり、自立しており、自由である。望むときに中止して、再び続けることも、ただ書かないでいることも出来る。彼女の手が「いわば抵抗できない」やり方で動いたのは、神が姿を現わされた最初の日々だけである。だが、彼女自身は自分が何を書いているのかを、常に自覚していた。彼女はいつでも自由に中止したり、続けたり、中断することが出来る。ときに、メッセージがひどく長い場合は、時間を節約するために、普段の自分の字で書かねばならないこともある。その後の清書の際には、主からのメッセージを書きとめるときの書式である。垂直の文字で書くのである。この文字のかもしだす美しさ、調和、平安と、筆致の威厳、高貴さ、表現の典雅さは感動的である。文字を見るだけで、彼女に霊感を与えた聖霊の存在が感じられる。秩序、明晰さ、簡素さ、気品がその出所をよく表している。典礼にのっとった厳かな文字やイコンなどに見られる縦の広がりの優位は、彼女に浸透している信仰の深さを示している。硬直性もぎこちなさもまったくないし、混乱も無秩序もなく、自動筆記に特有の混乱もない。ヴァッスーラも、彼女の感情も、気質も個性も性格も、厳かな文字の陰に消えている。唯一、表に現れているのは、彼女に霊感を与えている、荘厳で威厳ある現存である。唯一、表にはっきりと現れているのは、聖なるものの現存である。