ヴァルトルタ自叙伝

 

 

2018年/春秋社/殿村直子訳/

マリア・ヴァルトルタ/自叙伝

 

 

 

1.書く瞑想

2.イエズスのところへ行きましょう

3.偽善ではいけない

4.言わせておく

5.沈黙

6.福音を日々の糧とする

 

 

 

 

 

 

 

1.書く瞑想

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P342

 

「私があなたにお話しし損なったもう一つのことは私が書くことで瞑想する習慣を手に入れたことです。このことから霊的な恩恵を大変受けてきました。書くことは瞑想の主題に精神を集中させますし、また、精神的不毛のときに、書いたことを再読できるという利点があります。もし瞑想がいつでも有益であるなら、書かれた瞑想は、二倍有益だと思います。それは瞑想の能力を十倍に高め、内なる光を増大させます。」

 

 

 

 

2.イエズスのところへ行きましょう

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P542

 

さあ、イエズスのところへ行きましょう。いつも行きましょう。もしも、罪の陰りすら感じないほど純粋無垢であるならば、イエズスのところへ行きましょう。イエズスご自身が純粋さに包まれているからです。もし罪があるならば、イエズスのところへ行きましょう。彼はまさに罪人の贖いのために天から来られたのですから。私たちの弱さにブレーキをかけ、改良するのを助けていただくために、イエズスのところへ行きましょう。「明日は、イエズスを受け取ろう」という思いは、いつも野生の馬のように棒立ちになろうとする私たちの情念を制御するのに最良の馬銜(はみ)ですから。また、「今日はイエズスを喜ばせた」という思いは、一日のしめくくりに最良の餞(はなむけ)です。どんな苦痛をも癒やす香油、天使たちに守られて真に休息するための消憂薬です。魂を自分とも神とも和解させて、深い眠りにふける被造物は、甘美な夢を見るでしょう。その夢は、体を回復させ、魂に翼を与えるでしょう。たとえ夢の中ででも、神へと舞い上がる翼を!

 

 

 

 

3.偽善ではいけない

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P542

 

 私たちの人生は、偽善によって組み立てられてはいけません。つまり、罪を犯しては告白し、そしてまた罪を犯すというのでは、いけないのです。そうではなく、愛によって善へと駆り立てられて、キリストの口づけに値する者となるように、悪を抑えるものでなければなりません。もし私たちが良いことをしたなら、微笑みながらイエズスのところへ行きましょう。もし私たちが悪いことをしたのなら、後悔の涙を流しながらイエズスのところへ行きましょう。イエズスは涙を乾かそうとしておられます。彼によって慰められれば、私たちは気力を取り戻すでしょう。もしも自分だけで背負うなら、気力をなくして、飛べなくなってしまうでしょう。神への信頼は、私たち人間のあらゆる欠陥を埋め合わせします。罪意識の欠如ばかりでなく、私たちにつきものの精神的、霊的素質の欠如をも補ってくださいます。神を信頼するなら、私たちのうちでは、どれもこれも改善されるのです。

 

 

 

 

4.言わせておく

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P341

 

私は母の言いたいように言わせて、やりすごしました。

 

 

 

 

5.沈黙

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P313

 

 私は恩知らずで無礼な女性に言い返してやりたい衝動に駆られました。でも、イエズスは彼の受難が始まったまさにその日に、私が自分の自尊心を捧げることを求めているように思えました・・・私は一言も言わずに台所を出ました。もし口を開いたなら、言い過ぎてしまったことでしょう。そこで私は沈黙を選びました・・・ある場合には、沈黙することが臆病な振る舞いではなく、むしろ英雄的な行為なのです。

 

 

 

 

6.福音を日々の糧とする

 

 

ヴァルトルタ/自叙伝/P545

 

キリスト教徒が、もしも自分の頭に大小の本を詰め込むのをやめて、福音を日々の糧とするならば、愛の王道を進むことも、神に身を捧げることも難しくないでしょう。もしも彼らが、キリストの言葉、言葉の中の御言葉に、本当に養われるならば、もう利己主義に苦しむことも、荒々しさで干からびることも、邪推で凍えることもなくなるでしょう。人びとは、もっぱら光の中で歩み、慈愛に生き、平安に休むことでしょう。そして、私たちは、犠牲によって高められるでしょう。犠牲は愛によってなされるときには、重荷ではないのです。

 私たちの毎日の生活と、存在の例外的な時間は、もしも福音の霊に満たされているなら、どんなにか敬虔で大胆なものになることでしょう! すべてのものは、声、光、様相において、どんなに異なる色に染まることでしょう!

 自分のうちでキリストの言葉がいつも響いている人が、どうして不信や絶望に陥ることができるでしょう? 神の子が私たちへの愛のために苦しみに耐えたことを知っている人が、どうして苦しみに嫌悪を感じることができるでしょう? 神があんなにも愛してくださったことを知っている人が、どうして神を恐れることができるでしょう?