接ぎ木
真の基督教524
しかし、これらのことも比較によって説明しよう。罪が悔改めをしない人間の中に止まっている所では、その罪は適当な薬によって癒されない限り、致命的なものとなる種々の病の如きものである。それらは、適当な時期に癒されない限り、拡がって避けることの出来ない死を生む脱疽に似、あるいは表面に持ち出して切開しない限り、近くの内臓に、最後には心臓に膿を注ぎ込み、死をもたらす小膿ほうと膿腫とに似、あるいは檻の中に閉じ込められるか、縛られない限りは、狐が家禽を襲ってこれを殺すように、羊や牛の群れに襲いかかる虎、豹、獅子、狼、狐に似、あるいは押えておかないか、または歯を抜き取らない限り、恐るべき傷を加える毒蛇に似ている。
一群の羊全体が牧羊者によって健全な牧地に導かれて行かない限りは、毒草は彼らを死滅させるであろう。蚕は、その食する木から有害な毛虫が払い落とされない限り、死滅し、それとともに絹も無効となるであろう。納屋あるいは穀倉に置かれた穀物は、空気が自由に入って、そこを不浄なものから清潔に保たない限り黴臭くなるか、あるいは腐敗するかするであろう。火はもし速やかに消されない限り、町、あるいは森全体を焼き尽くすであろう。庭園は、雑草を取り払わぬ限り、間もなくその全面に茨、薊、刺が生えるであろう。
無価値な木はその上に接木された良い木の幹に粗悪な液汁を送り、その粗悪な液汁はそこで変形し、良い果を生み出すことを庭作りは知っている。諸々の悪が悔改めによって除去される人間も同様である、なぜなら彼は枝が葡萄に接木せられるよううに主に接木され、良き実を結ぶからである(ヨハネ15・4−6)。
真の基督教584
(ヨハネ15・5、6)との言によって教え給うように、教会内に主に接木せられる人々もこれと同様である。
天使館/主の祈り/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P8
1943年7月7日
御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを
御父の御旨を行う者は、ゆがめられ、逸脱した意志を殺すことにより、もはや人間ではなく、愛によって動かされる霊となり、愛のうちに生きるようになる。あなたたちは善意をもって、己れの意志を自分の心の中で打ち砕き、そこに御父の御旨を据えなければならない。