ピッカレータにおける三位一体

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P169

 

それは聖母マリアのお清めの祝日で、聖カタリナの出席のもとに地上でイエスと私の霊魂のあいだですでに交わされた最初の神秘的婚姻の式を、聖三位一体と全ての皇宮の御前で更新するためでした。ところが今回イエスは、あれから十一ヶ月後の聖母の聖なるご誕生の祝日にちなんで、三人の神聖な方がたのご承認を得ることを望まれたのです。主は白、赤、緑の宝石に飾られた指輪を取り出されると、それを御父に渡され、御父は祝別されますと御独り子にそれをお返しになりました。いっぽう聖霊は私の右手を持っておられ、イエスが私の薬指に指輪をはめて下さいますと、すぐに聖なる三人の方がたは私に接吻をなさり、かわるがわる特別の祝福をして下さるのでした。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P10

 

それにしても私は口ごもって、何も言うことができません。それでもなんとか人間の言語を用いてもう少しよく説明するならば、この天地に私たちが目にするものはすべて、神の影なのです。なぜなら神は宇宙にご自身の美しさの影を映されたからです。香しさ、または太陽のような光を。太陽には特に神の特別な影があります。太陽はこの自然界の中の他のすべての惑星の王なのです。太陽とは何かしら? それは一つの炎の球なのでしょう。球は一つなのに光線は無数にあります。球が王様なら、その光線はすべて神様のものなのです。

 

 太陽は炎で、同時に光と熱なのです。聖三位一体は、太陽に例えられます。炎は父、光は子、熱は聖霊。太陽は一つなのに。炎から光と熱を切り離せないように、父と子と聖霊の力は一体で、分けられません。(中略)

ああ、神の本質はなんと巧みに太陽になぞらえられるのでしょう。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P34

 

「私は霊魂に三つの方法で自分を現す。力、知らせ、そして愛によって。力はおん父、知らせはみことば、愛は聖霊である。」

 

 その他にも、なんといろいろなことを理解したことでしょうか! しかし残念なことに、私が表現できることはあまりにも少ないのです。

 

 私にとっては次のように考えられました。神は霊魂にたいし、その力をもってすべての被造界のうちにご自分を現されます。全ての存在物のうちに神の全能が示されます。たとえ沈黙の言語によってではあっても、大空、星、他のすべてのものは、ひとつの崇高な存在、創造されなかった一つの存在、そしてその全能性について私たちに語ります。事実、もっとも偉大な科学者がその知識のすべてをもってしても、一番つまらない蚊一匹すらも造り出すことはできません。このことは、一つの非常に権能ある永遠な者が存在するに違いないということを私たちに語ります。それは全てを創造し、全ての生き物に命とその本質を与えてくれた一つの存在です。

 

 宇宙のすべては明白な響きと、拭うことのできない特徴をもって、神とその全能について語ります。ですからそれを見ることができない人は盲目で、しかも自発的な盲人です。

 我らの主イエスは、「知らせ」をもって天から下りて来られることによって、私たちの目には見えないその知らせを、おん自ら地上にもたらしてくださいました。いったい幾つの方法で主はご自分をお現しになったのでしょうか?

 それについては各自理解することができると信じますので、これ以上長引かせないことにいたします。

 

 

聖なる三位一体の神秘

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P65

1900年12月3日

 

今朝私が自分の外にいますと、私の腕の中に幼いイエスがおられるのを見ました。それで主を眺めて楽しんでいますと、いったいどのようにしてか分かりませんが、その小さいイエス様から二番目の小さな幼な児で出てきたかと思うと、すぐに三番目の幼な児も現れました。彼ら同士お互いに別々の子供でありながら、二人とも最初の子供と同じなのでした。そのようなことを見て驚いた私は申しました。

「こうして、もっとも聖なる三位一体の神秘に手で触れることになるのですね。あなた方は一人でありながら、同時に三人です。」と。

 三人とも私に話されましたが、言葉が発音されると、それは唯一の声となるのでした。

「我々の本質は、もっとも清く、単純、そして交流的な愛によって形成されている。真の愛の本質は、権能、善意、美しさ、さらにこの愛が含むすべてのことにおいて同等な姿を産み出す、という特質を有している。我々の全能の力にもっと崇高な輝きを与えるために、我々の本質は卓越性の刻印を押す。この本質は単純で、一致を妨げる物質的なものを有していないので、愛の中で溶解し、三つの人格を形成する。それから再び溶けて、一つだけの人格を形成する。そしてまことの愛の本性として、それは自分自身と同質な姿を産み出すか、または自分が愛する者の姿を取るという事実がまったく真実なことなので、この第二のペルソナは、人類をあがなうため、また人に神性を伝えるために、人の姿と人間性を取ったのであった。」

 以上のことを三人の方たちが話しているあいだ、私は愛するイエスを非常によく区別していました。その方の中に人間性の姿を認めていたからです。イエスのおかげでのみ、私は彼ら三人の存在のみ前に留まる勇気を保っていました。そうでなければ、いったい誰があえてそれをしたでしょうか? 被造物を神性の玉座にまで昇らせ、私たちに三位一体との会話を許すことによって、恩恵という賜物を獲得することができるようにするためにイエスがお取りになった人間性こそが、我ら被造物との接触の可能性を開いてくださったのです。なんと幸せなひとときを味わい、なんと多くの事を私は理解したことでしょう! それを書き表すためには、いつか私の魂が身体から解放されて、イエスのもとにいるときに書く必要があります。事実、身体の中に閉じ込められているときには、牢獄の暗闇、神秘的太陽からの遠距離、主を見ることができない苦しみなどが、何も書けないようにしてしまいます。とにかく私はこの惨めな身体に閉じ込められ、つながれて、苦しみのうちに生きることを余儀なくされています。弱く、牢屋に入れられた者として生きているこの惨めな罪人を、主よ、同情してください。あなたの元に飛んでゆき、もう帰ることがないように、どうかこの牢獄の壁を早く打ち壊してください。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P235

 

いつもの状態の私は、聖なる三位一体を見たのですが、あたかも自分がそれらの方々の間に居るように思えました。聖三位は、世界をどうするかということを決定なさりたいと思って話し合っておられました。

「もし世界に確固とした鞭が遣わされなかったら、すべては終わる。宗教に関しては、人々は野蛮人よりもひどい者に成り下がってしまうだろうから。」