幼いイエスのテレーズ

1873〜1897

 

ドン・ボスコ社/幼いイエスの聖テレーズ自叙伝 その三つの原稿

 

1.主は神

2.希望

3.『キリストに倣いて』

4.摂理

5.ヴァッスーラ

 

1.主は神

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P47

 

「ほんとうにテレーズは、あの年ごろの子には見られないような機知のある即答を自分の倍も年上のセリーヌにします。このあいだもセリーヌが、“どうして神さまがあんなに小さなホスチアのうちにいらっしゃれるのかしら?”と言いますと、おちびさんが答えて、“神さまは全能ですもの、不思議じゃないわ”。“全能って?”“お望みになることは、何でもできるっていうことじゃないの!”」(ポリーヌあて、マルタン夫人。1877年5月10日付)。

 

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P66

 

特に聖体行列が好きでした。神さまのお通りになる道に花を撒くときのうれしさ!けれども花びらを地に撒き散らす前に、できるだけ高く高く投げました。そして投げたバラの花びらが、とうとう聖体顕示器に触れるのを見たときほど、うれしかったことはありません。

 

 

2.希望

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P227

 

 神さまがいつも私を導いてくださった道は、なんと慈しみに満ちているのでしょう・・・。主は、私に何かを望ませる場合には、必ずそのものを与えてくださいます。ですから主の苦い杯も、私にはほんとうに美味に見えました。

 

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P305

 

 それでも、失望するどころか自分にこう言っていました。「神さまが、実現できない望みを起させるはずはない。だから私は、小さくても、聖徳にあこがれてよいはずだ・・・。大きくなる・・・それはとてもできない。欠点だらけの自分をそのまま我慢しなければならない。でも、まっすぐでとても早く行ける小さな道、まったく新しい道を通って天国に行く方法を見つけたい。今は発明の時代で、階段を一段ずつ登らないで済む。お金持ちの家には便利なエレベーターがあるから。私もイエスさまのところまで昇って行くエレベーターを見つけたい。完徳の険しい階段をよじ登るにはあまり小さすぎるから」と。

 

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P369

 

 主はいつも望んでいるものをくださいました。というより、私に与えようとされるものを、私に望ませてくださいました。

 

 

3.『キリストに倣いて』

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P119

 

苦しみは私の心を引きつけ、苦しみが何であるかをまだよく知らないながらも、非常な魅力を感じて心を奪われてしまったのです。それまでは、苦しみを愛さずに苦しんでいましたが、この日以来、苦しみに対して真の愛を感じるようになりました。また神さまのうちにだけ、喜びを見いだしたいという望みも感じました。たびたび聖体拝領のあいだ、『キリストにならう』の中の次の言葉をくり返していました。「イエスよ、言い尽くしがたい甘美よ。私のために地上のすべての慰めを、苦みに変えてください」(『キリストにならう』3巻26章)。この言葉は、何の努力も、何の無理もなく、口をついて出るのでした。

 

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P138

 

過去のことを思い出すと、天からいただいた恵みを見て、感謝に満ちあふれます。私はあまりに変わってしまし、まるで別人のようになりました・・・。私が「自分の行いの上に完全な支配権を握り、その奴隷ではなく、主人になりたい」(『キリストにならう』3巻38章)と望んでいたことは事実です。けれどもこの『キリストにならう』の言葉に強く心を打たれてはいたものの、この計り知れない貴重な恵みは、いわば望みによって買わなければなりませんでした。

 

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P151

 

ずっと前から、私は『キリストにならう』に含まれている“純粋な小麦粉”で養われていました。あのころには、まだ福音書に隠されている宝を見いだしていなかったので、この本だけが唯一の本でした。この大好きな『キリストにならう』の章はほとんど暗記していたくらいで、この小さい本を手ばなしませんでした。夏はポケットに、冬はマフ(註、両手を入れて暖める、毛皮製円筒形の防寒用具)に入れていたので、とうとうそれが習慣になってしまいました。叔母さまのところでは、とてもそれをおもしろがられ、『キリストにならう』をとって手当たりしだいに開き、ちょうど出た章をそらで言わされたりしました。十四歳のとき、神さまは私の知識欲をごらんになって、“純粋な小麦粉”に“蜜と油とを豊かに”添えることが必要であるとお思いになりました。

 

 

4.摂理

 

幼いイエスのテレーズ/自叙伝P24

 

もしすべての人が、教会を学識の光で輝かせた教会博士たちのようだったとしたら、神さまはこの方々のところまでお下りになっても、それほど低くなられたことにはなりません。けれども主は、何もわきまえず、弱々しい泣き声しかあげない幼子や、自然の掟だけを行いの規範としている人々をも造られ、その心までお下りになります。彼らこそ、その単純さによって主のみ心を奪う野の花なのです。神さまは、このように低くお下りになることによって、ご自身の限りない偉大さを示されます。ちょうど太陽の光が杉の大木と同時に、小さな花の一つひとつを、まるでこの地上にはその花しかないかのように照らすのと同じで、主も、一人ひとりに、まるでこの地上にはその花しかないかのように、特別な心をお配りになります。自然界ではいちばんささやかなひな菊さえ、定められたときに花開くことができるよう、四季が配置されています。同じようにすべては一人ひとりのために、いちばんよいように取り計らわれるのです。

 

 

5.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P10

‘87・10・19 スイス

 

ここで一言付け加えたいと思いますが、ギリシャにいる間に、リジューの聖テレジア伝を読んでいました。絶えず彼女の思いが心にあり、バスの中でも 彼女について深く黙想し、愛をこめて考えていたとき、バスが停まり 心はまだ最も深い観想のうちにありながら、見たのです、ギリシャ語で、「あなたを愛しています」という文字がそれぞれ30センチの丈で、二つのハートのマークとともにバス停の屋根に書かれていました、私のところから4メートルの距離に。感覚がふだんと違う次元にいましたので、彼女がこれを伝えているのが解りました。彼女からのメッセージだったのです。