アヴィラのテレサ

1515〜1582

 

イエズスの聖テレジア自叙伝/東京女子カルメル会訳/サンパウロ

 

1.念祷・・・祈り、神と語り合うこと

2.神が与え給わぬもの

3.わが主、わが神

4.神に愛されていることを知ること

5.主をそのご人性において考えること

6.高い所にいる者はたくさんのことを発見する

7.聖い怖れ

8.分配したい望み・・・サマリアの女

9.神を知る

10.キリストを御父の御ふところのうちに見る

11.聖体拝領

12.主の御顔

13.永遠の地獄

14.世間を軽視する

15.主は感謝を要求される

16.読書

17.悪魔に対する対処法

18.私は友人をそのようにもてなすのだ・・・・ヴァッスーラ

19.創造主

20.苦しみ、みじめ

21.無駄にはならない

 

 

1.念祷・・・祈り、神と語り合うこと

 

イエズスの聖テレジア自叙伝8章・5(P89)

 

多くの聖人や徳高い人々が、祈りから引きだす利益についてお書きになりました。祈りと申しましたがそれは念祷のことです。

(中略)

ところで、念祷とは、私の考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と、ただふたりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません。

 

 

自叙伝12章・2(P130)

 

私たちは精神的にキリストの尊前(みまえ)に身をおき、その聖なるご人性に対する最大の愛に少しずつ燃え立ち、常に彼のおそばに侍(はべ)り、彼に語り、私たちの必要とすることをお願いし、悲しみにあっては彼に向かって嘆き、慰めにあっては彼とともに喜び、幸運にあっては彼を忘れないよう警戒し、複雑な祈祷文など求めず、自分の望みや、必要を打ち明ける単純な言葉でお話するようにしましょう。これこそ短時日で進歩させるすぐれた方法です。このように、とうとい伴侶とともに生活することに専心し、そこから最大の利益を引きだすべくつとめ、私たちがこれほどご恩をこうむっているこの聖主に対する真剣な愛を、そこからくみだす者こそ、念祷の道に進歩した者であると私は断言します。

 

 

自叙伝14章・5(P155)

 

主がここで与えられる水は、最も大いなる善、最も貴重な恩恵を含んでいて、前の念祷におけるよりも比較にならぬほどよく徳を成長させます。霊魂はすでに、おのがみじめさを超越しはじめ、天国の光栄の楽しみについてのいくらかの知識を持つお恵みが与えられますから。これは霊魂を成長させ、真の徳そのものであり、すべての徳の泉である神に近づかせるため、たいへん役に立つように思われます。神は、霊魂に自分を与えて、これとお交わりになりはじめ、霊魂がこの種の交わりを感じることをお望みになりさえします。

この状態に達するや否や、霊魂はこの地上の物事について、望みを失いはじめます。それは大してつらくありません。実際霊魂は、自分が楽しんでいる幸福の一瞬間も地上で見いだすことはできないことを、はっきりわかります。富も、権勢も、名誉も、快楽も、この満足を、たとえ一瞬間でさえも、提供することはできません。なぜならそれは真の満足で、霊魂はそれが自分を満ち足らせていることを感じます。私の考えでは、これほどの幸福を地上の喜びのうちに見いだすことは不可能と思います。なぜなら地上の喜びには混じり気のないことは決してありませんから。

ここでは、この念祷の時間中、すべてが純粋の幸福です。悩みは、あとできます。つまりこの恩寵が終ったことがわかり、しかもそれを取りもどすことができず、あるいは、どうしてとりもどすのか、わからない時にきます。苦業や、祈りや、ありとあらゆる犠牲で身を粉にしたとしても、主御自らが、私たちをこの恩寵にまで高められないなら、そういうことはみな、ごくわずかしか役に立たないでしょう。

神はその時、ご自分の偉大さを示そうと欲し給います。主は、ご自分は霊魂のごく近くにましますので、霊魂がもはや使者を送る必要はなく、声を高くすることさえせず、直接に主に語ることができることをわからせてくださいます。なぜなら、霊魂はもうあまりにも主の近くにいるので、主は彼の唇のごくわずかな動きによっても彼を理解なさいます。

 

 

同上・6(P156)

 

 このような言い方は、おかしいように思えます。事実、私たちは、神が、いつも私たちの祈りを聞き給い、いつも私たちとともにましますことを知っています。この点について疑いをはさむ余地はありません。けれども、この至上の君、私たちの主なる神は、ご自分が私たちの祈りを聞き給うことをよくわからせ、ご自分のご現存の効果を感じさせようとなさるのです。彼は、霊魂に内的、外的の大いなる満足を与えながら、特別の様式で霊魂内に働きはじめようというご自分のご意志をお示しになります。主は、これらの楽しみ、喜びは、私が申しましたように、この地上の快楽とは、まったく異なり、いわば罪によって私たちのうちにつくられた空虚を満たすものであることを、霊魂にお表わしになります。霊魂はこれらの楽しみを、自分の最も深い内奥で味わいます。

 

 

自叙伝34章・8(P438)

 

それで私は、いつもひとりで念祷をしていた場所にゆき、深く潜心して、聖主と心おきない対話をはじめました。たびたび私は、主に何を申し上げているのか自分でも知らないのです。話すのは愛です、霊魂はもう夢中になってしまって、神と自分との隔たりを見失っています。なぜなら、霊魂は、自分が神から愛せられていることを知って、自分を忘れてしまいますから。自分は、神と分つことのできない神の特別の所有として神のうちにいるように思え、愚かなことを申します。

 

 

2.神が与え給わぬもの

 

自叙伝11章・14(P125)

 

神のしもべ、学識と判断力を備えた堂々たる男子が、感覚的な信心を神が与え給わぬことに、それほどの悲しみをおぼえるというのは、私に不快を感じさせます。私はもしも神がそれを与え給うなら、それを拒むようにとは彼らに申しません。この場合、彼らはそれを大いに尊重すべきです。なぜなら神は、その時、それが彼らに適しているとお認めになるからです。しかし、もしも彼らにそれが与えられないとしても、少しも心を乱すべきではありません。神が彼らにそれをお与えにならないのですから。彼らは、自分にはそれが必要ではないと悟るべきです。

 

3.わが主、わが神

自叙伝11章・12(P124)

 植物や花が、ある霊魂においては、自分が井戸から引きだす水で成長し、また他の霊魂においては、水なしで成長することを主が欲し給うとて、私になんの関わりがありましょう? おおわが神よ、あなたがよいとお思いになるがままになさってください。

 

自叙伝21章・5(P247)

おおすべての宝の中の宝、おおわがイエズス、次にあなたのご光栄のために少し働く手だてを私の霊魂に作ってやってくださいませ。なぜなら、決して与えることなしに、こんなに多く受けることは、だれも承知したくありませんでしょうから。

 

おお主よ、どのような目に会いましょうとも、私がこんな空手でみ前に出ることをお許しくださいますな。報償はわざに応ずべきものなのですから。私の命、私の名誉、私の意志はここにあります。私はそのすべてをあなたにささげました。私はあなたのものです。あなたの好まれるままに私をおあしらいください。

 

私は、おおわが神よ、自分のなしうることはわずかであることがよくわかります。けれども、どうか私をあなたのおそばに、人が真理を発見するこの絶頂に、とどまらせておいてくださいませ。私からお離れにならないでください。そうすれば私は万事をなしうるでしょう。

 

自叙伝25章・17(P305)

おおわが主よ! あなたはなんとやさしく、注意深く、快く彼らを扱うことをご存知なのでしょう! おおあなた以外のものを決して愛したことのない人は幸いです! あなたはあなたを愛する人々を苛酷に扱われるように見えますが、それは彼らの苦しみの激しさが、あなたの大いなる激しさを悟らせるようにとのみ心からなのです。

 

おおわが神よ、私の魂が悟っているとおりに、あなたのみわざを称揚するために充分な才能と知識と新しい言葉とをだれが持っているでしょう。おおわが神よ、それらはみな私には欠けております。けれども、少なくともあなたが私をお捨てにならなければ、私は決してあなたをお捨てしないでしょう。

 

 

自叙伝28章・9(P341)

それは、想像的幻視によって、聖主のご人性のすぐれたこと、美しさ、光栄を霊魂の目をもってながめているいっぽう、私がお話した知的幻視によって、いかにして救い主は同時に、いっさいをなし得、いっさいを統べ、いっさいを支配し、いっさいをその愛もて満たし給う至上の神にましますかを悟るお恵みが与えられるからです。

 

自叙伝36章・17(P476)

そこで私は神におすがりして、こう申し上げました「あの家は私の家ではございません、あなたのために作られたのでございます。いまはもうだれもあの家のことを心配する人がなくなってしまいました。どうぞ主ご自身がご心配なさってくださいませ」と。

 

自叙伝38章・22(P513)

そうです、わが主よ、わが光栄よ、私の霊魂が感じるこの大きな悲しみの真中(さなか)で、私はある仕方で、あなたに何かのご奉仕をしたと断言したくなります。けれど、ああ私は自分の言っていることを知らないのです。私がこういうことを書きます時、話しているのはもう私ではないかのようです。このようなことを記憶に呼びもどしますと、心は乱れ、なんだか茫然となってしまいます。もしも私が語る感情が私からきたものなら、おおわが神よ、あなたのために私は何かをしたと言ってもよいでしょう。

 

4.神に愛されていることを知ること

 

自叙伝10章・5(P108)

 私どもがある人の恩恵をたびたび思いだしますと、その人をいっそう愛するようになるというのはたいへん明らかなことです。ところで、神は私どもに存在を与え、虚無より引きだし、私どもの存在を支え、私どもを創造するずっと前から、現に存在する人々の各々のため、ご自分の御苦しみやご死去その他のすべての恩恵を準備なさいました。それでこういうことを絶えず思い起こすことが許され、またたいへん功徳になるとすれば、かつては軽佻な会話を喜んだ私が、今日では、主のたまものによって、ただ主とのみ語り合いたいと望んでいることをたびたび認め、見、考えることがどうして私に許されないのでしょうか? これこそ貴重な宝石です。これが私どもに与えられ、自分の所有となっていることを思いだすことは、私どもの恩人を愛するようにと招き、かつ、強調しさえします。これが謙遜に基づいた念祷の全果実です。

 

自叙伝10章・6(P109)

 主はこれらのとうとい真珠を、それらを輝かせ、自分のためにも、他人のためにも、利用することを知っている他の霊魂にお与えになるでしょう。けれども自分が富んでいることを知らない者は、どうしてその宝を利用し、惜しみなくそれを分配することができるでしょう? 私の考えでは、自分が神から寵愛されていることを悟らない時は、私どもの本性から見て、偉大なことへと心が傾くのは不可能だと思います。私どもはあまりにもみじめで、あまりにも地上の物事のほうに傾いているので、天の宝のなんらかの保証を自分のうちに認めないなら、地上のすべての宝を信実に軽蔑し、絶対的離脱のうちに生きるのはたいへんむずかしいのです。

 

5.主をそのご人性において考えること

自叙伝9章・6(P100)

私は、ただ聖主をそのご人性において考えることだけができました。

 

自叙伝12章・2(P130)

私たちは精神的にキリストの尊前(みまえ)に身をおき、その聖なるご人性に対する最大の愛に少しずつ燃え立ち、常に彼のおそばに侍(はべ)り、彼に語り、私たちの必要とすることをお願いし、悲しみにあっては彼に向かって嘆き、慰めにあっては彼とともに喜び、幸運にあっては彼を忘れないよう警戒し、複雑な祈祷文など求めず、自分の望みや、必要を打ち明ける単純な言葉でお話するようにしましょう。これこそ短時日で進歩させるすぐれた方法です。このように、とうとい伴侶とともに生活することに専心し、そこから最大の利益を引きだすべくつとめ、私たちがこれほどご恩をこうむっているこの聖主に対する真剣な愛を、そこからくみだす者こそ、念祷の道に進歩した者であると私は断言します。

 

自叙伝22章・1(P253)

神父様、もしあなたがよいとお思いになれば、私にはたいへん重要と思われる一つのことについてお話したいと思います。それは参考になりますし、またあなたのために必要となることもあり得ますから。なぜなら念祷について書いてあるある種の書物のなかに、次のようなことが説いてあります。(中略)

 

こういう著者たちは、物体的なすべての形象を遠ざけて、神性の観想に上るようにしきりに勧めています。なぜならこういう形象は、たとえ聖主のご人性のそれであろうとも、このように高い状態に達した者にとっては、最も完全な観想のためにじゃまであり、妨害であるからと、彼らは申します。そして自分たちの考えのよりどころとして、救い主が天にふたたびのぼられるにあたって、聖霊のご降臨を使徒たちにお告げになった時おっしゃったお言葉を引き合いにだします。(ヨハネ16・7参照)

 

私の考えではもし使徒たちが、キリストは人であると同時に神であるということを、聖霊降臨後と同じように、その時かたく信じていたのでしたら、主の聖なるご人性は彼らにとって妨げとはならなかったことでしょう。ですから、御母は使徒たちのだれよりも、もっと多くの愛を主に対していだいていらしたにもかかわらず、主はこの言葉を御母にはおおせられませんでした。こういう著者たちにとっては、観想はまったく霊的なわざであるので、物体的形象は、どんなものでもこれを乱し、あるいは妨げることができると思うのです。

 

こういう方法は、私にも時としてはよいもののように思われます。しかし、キリストからすっかり離れ、その神聖なご肉体を、私たちのみじめさ、あるいは、被造物のいずれかと同一視するということは、私にはがまんできません。どうか主のお助けによって、私の言うことをわかっていただけますように!

 

同上・2(P255)

 私はこういう著者たちに反対するわけではありません。彼らは学識もあり、霊的な人々で、自分たちの言うところを知っていますから。それに神は人々の霊魂をいろいろ異なった道や手段によってお導きになります。私はここではただ神が、私の霊魂をお導きになった道についてお話し(他のことに口だしはいたしません)本のなかで読んだことに従おうとしたために陥った危険を示そうと思うのです。一致の念祷に達し、それ以上には行かない人、つまり、恍惚、幻視、そのほか神が与えられる、この種の恩寵に達しない者は私自身もそうでありましたように、これらの著者たちの言うことがいちばんよいと思うでしょう。しかし、もしも私がいつもこういう考えに従っておりましたなら、ただいまいる状態に、私は決して達しなかったと思います。なぜなら私の考えでは、それは一つの誤謬ですから。誤っているのは私かもしれませんが、とにかく私に起ったことを申しましょう。

 

同上・6(P259)

 私たちはただ聖主の聖なるご人性によってしか神のみ心に適うことができず、このご人性を通じてのみ、神は私どもに著しいお恵みをくださろうとなさるのです。神は御自らおおせられたように、そのうちに楽しみをおいていらっしゃいます。私は非常にたびたびそれについて経験をいたしましたし、聖主御自らも私にそうおっしゃいました。もしもいと高き御者に大いなる秘密を打ち明けていただきたいなら、私たちが通るべき門はこれだということを私ははっきりわかりました。

 

同上・8(P260)

たぶん物体的なものをすべて捨て去るのはよいことに違いありません、このように霊的な人々がそう断言するのですから。しかしそれは非常に進歩した霊魂の場合でなければならないと思います。なぜなら、それまでは霊魂は明らかに、被造物によって造物主を求めるべきですから。それにこういうことはすべて主が各々の霊魂にお与えになるお恵みによります。そしてこれは私が口だししたくない問題です。私がわからせたいこと、それはキリストのいと聖なるご人性は、遠ざけるべきものの数に、はいるべきではないということです。この点をよく理解していただきたいので、私ははっきり説明したいと思います。

 

同上・9(P261)

(前略)

しかし私たちのほうからこの聖なるご人性の現存を常に保つことを(どうか私たちがこのご現存をいつも保ったのでありますように!)避けようとしてくふうしたり、気をつかったり、努力したりすること、それが、繰り返して申しますが、私にはよいとは思えないのです。こういう道を歩む霊魂は、いわゆる空を歩んでいるのです。なぜなら、どんなに神に満たされていると自分では信じていても、支えを欠いているように見えますから。この地上に生活している間、そして人間である私たちにとって、聖主のご人性について考えることはたいへんたいせつなことで、私が言ったもう一つの不都合とは、この点をないがしろにすることです。

 

自叙伝28章・9(P340)

ここで主よ、あなたは、神性に結ばれたこの聖なるご人性が、いかに偉大なものであり、どれほどの権能を有し給うかを霊魂に理解させようと欲まれたことがわかります。

 

自叙伝37章・5(P492)

聖主は、神でおありになると同時に人でもおありになるからには、人間の弱さに別にお驚きにならないということを私は悟りました。主は贖うために御自らおいでくださった、あの人祖の罪以来、私どもの憐れな天性はあまたの罪に陥りやすいことをご存じです。

 

 

6.高い所にいる者はたくさんのことを発見する

自叙伝20章・22(P236)

ここで霊魂は、地上の生活にもどらなければならないのを見て苦しみます。ここで、よく飛ぶことができるように翼が生え、生毛はもうぬけてしまいました。彼がキリストのために、軍旗を大きく広げるのもここです。実際この要塞の司令官は、神のみ旗をかかげるためにいちばん高い塔に登った、というよりはむしろ、上げられたにほかならないように思います。そこから、霊魂は、安全な場所にいる者として、下にいる人々を見おろしています。彼はもはや危険を恐れず、勝利を確証された者のように、かえって危険を望みます。そこで、彼は地上のすべてのものが、どんなにとるに足らぬものであるかを、たいへん明らかに見て、そのむなしさを発見します。高い所にいる者はたくさんのことを発見するものです。彼はもはや、我意を持ちたくなく、自由意志さえも、持ちたくありません。それで彼は神にこの恵みを願い、自分の意志のかぎを神にわたします。おや、おや、ここでは庭師が司令官になってしまいました。この霊魂は神の聖旨を果たす以外に、ほかの野心を持っていません。彼はもはや自分に対しても、何ものに対しても、自分の庭のりんご一つに対しても主でありたくはありません。そして、もしも彼の庭に何かよいものがあるとすれば、神御自らが、それを分配してくださるように望みます。なぜなら、霊魂は、もう、何ものをも自分のものとして所有したくなく、主がご自分のご光栄とご意志とに適するとお思いになることに、まったくおのれをまかせます。

 

7.聖い怖れ

自叙伝34章・10(P439)

実際、もしかしたら神にそむいたかも知れないという思い以上に残酷な死は、私にとってあり得ませんでした。私は、この苦悩に圧倒されておりました。

 

自叙伝37章・6(P493)

あなたが、最高の君主にましますのは御自らによることを、認めぬことは不可能です。このような御稜威を見て、恐れずにはいられません。このような御稜威と同時に、私のような者に対してお示しになる、あなたの謙遜や愛を見ますと、ますます恐ろしくなります。あなたのご威光を見る驚きと恐れの最初の感情が過ぎ去りますと、人は自分に関することをなんでも自由に、あなたにお話することができますが、それと同時にあなたにそむくことを恐れる心はいっそう強く残ります。この恐れは、おお主よ、罰の恐怖からきてはいません。そんな恐怖は、あなたを失う恐れに比べてはなんでもありません。

 

8.分配したい望み・・・サマリアの女

自叙伝16章・3(P179)

いよいよ、もう、花は開きはじめ、芳香を放ちはじめます。霊魂はすべての人が自分をながめ、自分が上げられた光栄を理解することを望みます。それは彼らがこれによって、神をたたえ、また、この霊魂自身、神を崇める助けともなるためです。霊魂は自分ひとりだけでは、とても味わいきれないほどの大きな幸福を、彼らに分ちたい望みに燃え立ちます。霊魂は自分の喜びを分つために隣人を呼ぼうとした、あるいは実際に呼んだあの、福音書に語られている女のようだと私は思います。

 

自叙伝19章・3(P208)

これらの霊的利益はしばらく霊魂内にとどまります。霊魂はそれが、自分の結んだ果実ではないことが、はっきりわかりますので、以後は自分を貧しくすることなく、他の人々にそれを分けはじめることができます。もはや彼は、天的宝を所有しているしるしを示します。

 

彼は、それらを分配したい望みに燃え、自分だけをひとりこんなに富ましてお置きにならぬよう、主に懇願します。彼は、自分ではほとんど気づかずに、また自らはその目的のために何もしないのに、隣人に霊的善をもたらしはじめます。しかし、ほかの人々にはそれがわかります、なぜなら彼の庭の花は、あまりにもよい芳香を放つからです。それでほかの人々はそれに近づきたくなります。人々は、彼が徳に富まされていることがわかり、彼の果実は魅力に満ちているのを見て、彼のように、それで養われたく思います。

 

もしもこの土(この霊魂)が試練、迫害、非難、病気―(こういうものがなければこの状態に達する人は少ないでしょう)―によって、深く耕作され、自分自身の利益からの、絶対的離脱によって、すなおになっているならば、水は深く浸みこんで、乾燥に苦しむことは、ほとんどありません。けれども、もしこの土が、私が初めにそうであったように、まだこの世のものに執着し、いばらの中にあるならば、そしてまだ危険な機会をすべて放棄せず、またこれほど高い恩寵に対して、ふさわしい感謝を表さないならば、土はふたたび乾いてしまいます。

 

9.神を知る

自叙伝37章・2(P489)

よりよく神を知る者は、より多く彼を愛し、たたえると私は知っておりますから。

 

10.キリストを御父の御ふところのうちに見る

自叙伝38章・17(P510)

その時、私は聖主のいと聖(とうと)いご人性を、いままでながめることを許されたどの場合よりも、いっそう輝かしい光栄のうちに見ました。感嘆すべき、明らかな認識によって、私はキリストを聖父(おんちち)の御ふところのうちに見ました。それがどういうふうにしてだかは言うことはできません。何も目で見るわけでもなく、この神性の前に自分がいるように思えるのですから。私はあまりにも驚嘆して、数日間も、自分にもどることができなかったと思います。そして最初の時のようではないとはいえ、この御稜威(みいず)高い神の御子を、いつも目前にしている思いがしておりました。

 

11.聖体拝領

自叙伝22章・4(P256)

私は全生涯を通じて、キリストに対して大きな信心を持っておりました、なぜなら、このこと(ご人性を放棄することの意)は、終わりごろのこと、つまり聖主が私に恍惚や幻視のお恵みを賜う以前の時期の終わりごろのことですから。そして実際のところ、このようにひどい錯誤は、ごくわずかの間しか続かず、そののち私は、いつものように、聖主とともにいることのうちに、私の喜びを見いだすためにもどって来るのでした。特にご聖体拝領をした時にはそうでした。私は聖主のご肖像か、聖画をいつも目の前に持っていたいと思いました。自分が望んだように、私の霊魂内にそれを深く刻んで持っていることができませんでしたから。

 

自叙伝38章・19(P511)

(前略)そのあとでご聖体拝領にまいります時、私にお現れになった、あの至高の御稜威高き主が、ご聖体の秘跡のうちにおいでになることを考えます時(聖主はたびたびオスチアのうちに御像[みすがた]をお示しになりますが)私は髪の毛がさかだつのを感じ、自分がまったく無に帰せられてしまったように思いました。おおわが主よ! もしもあなたが、あなたの偉大さをお隠しにならなかったら、これほど汚れたみじめな魂が、どうしてこのようにたびたび、このように偉大な御稜威と一致しようと出て行くことが、あえてできるでしょう。

(中略)

 

同・21(P512)

おお貧しい者の富よ! あなたはなんと感嘆すべき方法で霊魂たちを養うことをご存じなのでしょう! あなたはご自分の宝を全部一度に彼らに示す代わりに、少しずつお示しになります。オスチアのような、ささいな外観のもとに、このように高い御稜威が、隠れていらっしゃるのを見ます時、これほど偉大な上智に感嘆せずにいられず、またどのようにして、主に近づくための力と勇気とを主が私にお与えくださるのかわかりません。

 

自叙伝38章・23(P514)

 ある日、聖体拝領に行こうといたしますと、私は、肉体の目で見るよりも、もっとずっとはっきり霊魂の目で、恐ろしい顔をした二つの悪魔を見ました。彼らは、あわれな司祭ののどを角でもってしめつけているように見えました。この気の毒な人は、私に与えようとしてオスチアを手にしていましたが、私は、聖主が、先ほどお話したあのご威光をもって、私にお現れになるのを見ました。明らかに、わが主は、彼の汚れた手のうちにおいでになったのであり、私は、この霊魂が大罪の状態にあったことがわかりました。おおわが神よ、このように憎々しい顔の真中に、あなたの美しさを見るとはなんということでしょう!

 

これらの悪魔はあなたの御前で、恐れおののいているようで、もしもあなたが彼らをなすにおまかせになったら、喜んで逃げ去ったことでしょう。私は大きな不安に捕らえられ、どうして聖体拝領することができるかわからなくなりました!私はひどく恐ろしくなりました。もしもこの幻視が神からきたものなら、主は、この霊魂の不幸な状態を私にお示しにならなかったように思われました。

 

しかし主は、この霊魂のために祈るように私にお命じになり、これをお許しになったのは、聖変化の言葉の効能がどんなものかを私にわからせ、これらの言葉を言う司祭が、たとえどれほど罪深いものであろうとも、どのように主は、オスチアの外観のもとに現存なさることをおいといにならないかを、私に悟らせるためであるとおおせられました。それはまた私が主の御慈悲がどれほど大きいかをよくわかるためでもありました。主は、私とすべての人々の善益のため、敵の手にご自身をおわたしになるのですから。私はまた、司祭がたは、ほかの者にまして徳高い者であるべきどれほど大きな義務がおありになるか、いと聖なるこの秘跡をふさわしくなく受けることがどれほど恐ろしいことか、大罪の状態にある霊魂において、悪魔はどれほど暴威をふるっているかを、はっきり悟りました。

 

 

 

12.主の御顔

自叙伝38章・21(P513)

神にそむいた霊魂は、主の御稜威を見る恐れによるよりも、このえも言われぬ美しいみ顔が表わす、慈しみと、やさしさに満ちた愛を見ることによって、もっとずっと苦痛と悲哀の情をかきたてられます。

 

13.永遠の地獄

自叙伝32章・6(P405)

 

この幻視のおかげで、私はこれほど多くの霊魂(特別にルーテル派の人々、なぜなら、彼らは洗礼によってすでに教会の一員ですから)の滅びについて大きな苦しみを感じるようになりました。それはまた人々の霊魂に益する者になりたいとの最も強烈な望みをもひき起こしました。これほど恐ろしい苦しみから、ただ一つの霊魂を救いだすためだけでも、私はたしかに、千度の死をも喜んで忍ぶことでしょう。

 

事実、私たちはだれかが、特に私たちがたいへん愛している人が、大きな苦しみや悲しみのうちにあるのを見ますと、自然に同情心が起ります。もしこの苦しみが酷いものであれば、私たちも強くそれを感じます。ところで苦罰のなかでも最大の苦罰に終りなく処せられた霊魂を見ることがどうして堪え得られましょう。それを見て苦しみに砕かれぬ心はありません。私たちはこの地上の不幸には終わりがあることを知ってはいても、それにこれほど同情いたします。来世の不幸には終わりがないのに、これほど多くの霊魂を、悪魔が地獄へ引きずってゆくのを見ながら、どうして私たちは安閑として生きていられるのでしょうか?私にはわかりません。

 

14.世間を軽視する

自叙伝37章・5(P492)

世間を軽視している人々は真実を語り、何も恐れず、また恐れるはずもありません。しかし彼らは宮廷向きではありません。宮廷では、そういうふうにしてはならないのです。かえって、目につく悪を黙認し、失寵の危険にさらされぬため、それについて考えることさえ、あえてしてはならないのです。

 

15.主は感謝を要求される

自叙伝34章・17(P446)

 私はきわめて大いなる御稜威とご光栄とのうちにあるキリストを見奉りましたが、主は私どもの語らいに非常なご満足をお示しになりました、そして、そのことを御自ら私におっしゃいました。主はこのような会話には、いつもご臨席くださり、人々が主について語ることを喜びとする時、非常に光栄を受け給うことを、私に明らかに示そうとお欲(のぞ)みになったのでした。

 

16.読書

自叙伝14章・7(P157)

 それで、私はこのお恵みをよく説明したいと思います。なぜなら、それは初期のお恵みで、主がそれらを与えはじめられる時、霊魂自身それがわからず、どういうふうに進むべきかを知りませんから。神が私に対してなさったように、恐れの道によって、お導きになる時、霊魂は自分を理解してくれる指導者がない場合、大きな苦しみを感じます。これに反して、自分の状態の描写がどこかにしるされているのを見ますと、非常に大きな楽しみを味わいます。その時、霊魂は自分の進む道をはっきりと見知ります。それに、念祷のあらゆる状態において進んで行くために、自分のなすべきことを知るのは霊魂にとって大きな利益です。

 

私のことを申しますと、ずいぶん苦しみました。そして何をなすべきかわからぬために多くの時をむだにいたしました。それで、この静穏の念祷の状態に達しながら、ひとりぼっちでいる霊魂に対して同情に堪えないのです。実のところ私も、この問題に関する多くの本を読みました。けれども、そういう本もごくわずかしかこれについて説明していません。それに、たとえ非常に長い説明を与えたとて、経験の少ない霊魂は自分の状態を理解するために、たいへん困難でしょう。

 

 

17.悪魔に対する対処法

 

アヴィラのテレサ自叙伝25・19(P306)

事実もしもこの主が、私が見、かつ知っているとおり、全能でおいでになり、悪魔たちは彼の奴隷であるなら―これは信仰上の教えですから疑いを入れる余地はないのです―私はこの主、この王の婢女である以上、彼らは私にどんな害を加えることができるでしょうか?

 

なぜ私は全地獄に対抗して戦う力を持たないのでしょうか?私は手に十字架を取りました。そして神は実際に私に勇気をお与えになったように思われました。ごくわずかの間に、私は自分がすっかり変わってしまったのを認めました。そして一度にすべての悪魔と力比べをすることも恐れなかったことでしょう。この十字架をもってすれば、容易に彼らすべてに打ち勝てるように思えました。

 

それで私は彼らに申しました「いまこそ、みなおいで。私は神の婢女だ、私はおまえたちが私に対して何ができるか見たいのだ!」と。

 

自叙伝31・10(P386)

次の話は神の真の僕に役だつでしょう、そして悪魔が恐れさせようとして用いるかのすべての幻影を軽べつするため助けとなるでしょう。私たちが、これらのものを軽べつするたびごとに、彼らは力を失い、私たちの霊魂は彼らのうえにいっそう大きな支配力を持つようになるということを、よく知っておきましょう。

 

 

18.私は友人をそのようにもてなすのだ・・・・ヴァッスーラ

 

天使館/ジャック・ネランク/『あなたは預言を無視しますか 現代の預言者ヴァッスーラに聞く』/P230

                     

ネランク: ルイ14世の最期の言葉をご存知ですか? 何日間もの、かなり長い苦しみがありました。彼は、やがてルイ15世として後を継ぐひ孫を病床に呼び寄せていました。当然子供は、すごく苦しいのかと尋ねます。ルイ14世は「とても苦しいが、私がやった事を償うために、できればもっと苦しみたい」と答えたそうです。ルイ14世が、許してもらわなければならないような沢山の罪を犯したことは、言うまでもありません。

 

ヴァッスーラ: アヴィラの聖テレサの話がありますね。彼女はロバから落ちて凍った急流にとびこんでしまいました。ずぶ濡れになり、凍えて聖テレサはイエスに呼びかけました。「どうして、このような仕打ちをなさるのですか?」。イエスは「私は友人をそのようにして、もてなすのだ」とおっしゃいました。彼女は「そのようなもてなし方をなさって、お友達がほとんどいなくなっても、驚いてはいけませんよ」と言ったそうです。私もある時期に、苦しさのあまり、同じことを口走ったことがあります。「私は聖テレサの言葉を繰り返します。黙ってはいられませんから。そのことは申し上げておかねばなりません」。イエスは黙って一つのメッセージをくださいました。最期に出て行くふりをしながら、こうおっしゃいました。「先ほどのあなたの指摘だが、苦しみからどれだけのものを得られるかが分かれば、もっと苦しみを引き受けさせてくださいと、ひざまずいてせがむことだろう。」

 

 

19.創造主

 

自叙伝10章・5(P108)

 私どもがある人の恩恵をたびたび思いだしますと、その人をいっそう愛するようになるというのはたいへん明らかなことです。ところで、神は私どもに存在を与え、虚無より引きだし、私どもの存在を支え、私どもを創造するずっと前から、現に存在する人々の各々のため、ご自分の御苦しみやご死去その他のすべての恩恵を準備なさいました。それでこういうことを絶えず思い起こすことが許され、またたいへん功徳になるとすれば、かつては軽佻な会話を喜んだ私が、今日では、主のたまものによって、ただ主とのみ語り合いたいと望んでいることをたびたび認め、見、考えることがどうして私に許されないのでしょうか? これこそ貴重な宝石です。これが私どもに与えられ、自分の所有となっていることを思いだすことは、私どもの恩人を愛するようにと招き、かつ、強調しさえします。これが謙遜に基づいた念祷の全果実です。

 

 

20.苦しみ、みじめ

 

イエズスのテレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝11章・11(P122)

 

 これらの苦労はみな価値があります。私は長年間それらを堪え忍んだ経験によって、よく知っております。それで私は、ついにこの祝された井戸から一滴の水を引き出すことの出来た時は、神のご恩寵とみなしておりました。これらの苦しみはたいへんつらいものです。私はそれをよく知っています。それらは、この世の多くの労苦よりも、ずっと勇気を要求します。しかし私は、はっきりと見ました。神はすでにこの世からでさえ、それらに必ずお報いになるということを、実際、主が私の霊魂にご自分を味わわせてくださったこれらの時間のうちのただ一時間だけでも、私が念祷に堅忍するために長い間忍んだ、あらゆる悩みを、支払ってあまりあることは確かです。主は、初心者に、また時としては目的に近づいている人々にも、こういう苦しみやその他の多くの誘惑を、たびたびお贈りになると私は確信しております。それは主を愛する人々を試すためであり、彼らに大いなる宝をお与えになる前に、主の杯を飲むことができるかどうか、主が十字架を担われるのをお助けできるかどうかをごらんになるためです。聖主が私どもをこの道を通してお導きになるのは、疑いもなく私たちの善益のためであり、私たちが、自分がどんなにつまらぬ者であるかをよく悟るためです。のちに私たちに与えられるであろうお恵みは、きわめて高い秩序に属するものなので、ルシフェルのような失落から私たちを守るため、主は、まず、それらを与えられる前に、私たちが自分のみじめさの深淵を経験によって、よく知ることを欲せられるのです。

 

 

21.無駄にはならない

 

イエズスのテレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝11章・10(P122)

 

彼のすべての奉仕がいちどに支払われる時が、いつかくるでしょう。自分の仕事がむだになると恐れてはなりません。彼がお仕えしているご主人はよいご主人で、いつも彼をながめていてくださいます。