天界と地獄

 

天界と地獄1

 主はその弟子たちの前で、教会が愛と信仰との方面で順次変化して行く状態について予言されたその言葉の終りで、教会の最後の時期である代の終りを話されたとき、以下のように言われている。「その日の艱難の後、たちまち陽は暗くなり、月はその光を放たず、星は天から落ち、[諸々の]天の力は揺り動かされるであろう。そのとき人の子のしるしが天に現れるであろう。そのとき地の凡ゆる種族は嘆き、人の子が力と大いなる栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るであろう。かれは大いなるラッパの音とともにその天使たちを遣わし、彼らは天の[この]はてから[かの]はてまでも、四方からその選ばれた者たちをともに集めるであろう」(マタイ24・29−31)。

 この語を文字の意義に従って理解する者たちは、最後の審判と呼ばれる最後の時期に、凡てこうした事柄がその文字に記されているままに起るようになるであろうとしか信じていない。彼らは、陽と月とは暗くなり、星は天から落ち、主のしるしが天に現れ、自分たちは主を雲の中に、ラッパを持った天使たちとともに見るであろうと信じるのみでなく、他の箇所の予言にも従って、目に見える世界の凡ては破滅し、その後で新しい天が新しい地とともに存在するであろうと信じている。

 現在の教会の大半の者たちはこうした見解を抱いている。しかしそのように信じている者たちは、聖言の個々の記事の凡ての内に在るアルカナ[秘義]を知らないのである。なぜなら聖言の個々の記事の各々には内意があって、その内意には、文字の意義にあるような自然的な、世的な物が認められないで、霊的な、天界的な物が認められ、このことは多くの言葉の意義について言われるのみでなく、各々の言葉の意義にも言われるからである。なぜなら聖言は、その個々の記事の中に内意が存在するように、すべて相応によって記されているからである。その意義の性質の何であるかは、「天界の秘義」の中でそのことについて語り、また示した凡てのことから明らかであり、また黙示録に記されている「白馬」を説明するに際して集録したものからも明らかとなるであろう。

主が天の雲の中に来られることを取扱ったところの前に引用した主の御言葉もその内意に従って理解しなくてはならない。暗くなる陽により愛の方面の主が意味され、月により信仰の方面の主が意味され、星により、善と真理との知識が、天にあらわれる人の子のしるしにより、神的真理が明示されることが、嘆く種族により真理と善、または信仰と愛の凡ゆる物が、力と栄光とをもって天の雲の中に主が来られることにより、聖言の中に主が臨在されて、啓示されることが、雲により、聖言の文字の意義が、栄光により、聖言の内意が、大いなるラッパの音をもった天使たちにより、神的真理が発生してくる天界が意味されているのである。

このことから、主のこの御言葉は、最早いかような愛もない、従って、いかような信仰ももはや存在しない教会の終りに、主は聖言の内なる意義を開いて、天界のアルカナ[秘義]を啓示されるであろうことを意味していることが明白となるであろう。以下の頁に明らかにされたアルカナは天界と地獄と死後の人間の生命にかかわるものである。

 今日の教会人は、天界と地獄については、または死後の自分自身の生命については、その事が凡て聖言に記されてはいるものの、殆ど何ごとも知ってはいない。実に、教会内に生まれている多くの者はそれを否定さえもして、心で、誰がその世界から来て、我々に話してくれたかと言っている。それゆえ世の知恵を多く貯えている者らのもとに特に拡がっているこうした否定が心の単純な者や信仰の単純な者にも感染して、彼らを堕落させないように、私は天使たちと交わって、人間が人間と話すように彼らと語り、また諸天界に在る物と諸々の地獄に在る物とを眺めることを許されたのであり、このことは13年も続いているのである。それゆえ私は今これらの事柄を私の見聞したものから記すことが出来るが、それはそのことによって無知[な心]が明るくされて、不信仰も解消するようにとの希望からである。現今こうした直接の啓示が与えられたのは、これが主の来られることにより意味されているものであるからである。

 

 

 

主は天界の神である

天界と地獄2

 

 先ず天界の神は誰であるかを知らなくてはならない、それはそのことに他の凡てのことが懸かっているからである。全天界では、主以外には他の何ものも天界の神としては承認されてはいない。彼らはそこで、主御自身教えられたように、主は父と一つのものであり、父は主の中に、主は父の中におられ、主を見る者は父を見、また凡て聖いものは主から発出していると言っている(ヨハネ10・30、38、14・9−11、16・13−15)。私はこのことについて天使たちとしばしば話したのであるが、彼らは常に自分たちは神的なものは一つのものであって、それは主の中に一つのものとなっていることを知り、また認めているため、天界では神的なものを三つのものに区別することは出来ないと語ったのである。彼らはまた以下のように語った。教会の中から他生に入って来て、三人の神的な存在者〔三人の神〕の考えを抱いている者たちは、その思いは一人の神的な存在者〔一人の神〕から他の神的な存在者〔他の神〕へ移って行くため、天界に入れられることは出来ない。そこでは三〔人の神〕を考えて、一〔人の神〕と言うことは出来ない。(*1)なぜなら天界では言葉は思考〔考え〕そのものから発し、またはそれは語る思考であるため、そこでは各々の者は思考から語るからである。そうした理由から神的なものを三〔神〕に区別して、各々を分離したものとして考えて、その考えを一つのものとして、それを主の中に集中しなかった者は受け入れられることは出来ない。なぜなら天界では凡ゆる思考は伝達されるため、もし三〔神〕を考えて、一〔神〕と言う者が入り込むならば、その者はすぐに発見されて、斥けられるからである。しかし真理を善から、または信仰を愛から分離しなかった者たちは、他生で教えを受けると、主は宇宙の神であられるという、主について抱かれている天界の考えを受けるのである。〔しかし〕信仰を生命〔生活〕から分離した者、即ち、真の信仰の教えに従って生きなかった者らはこれを受けない。

 

*1

基督教徒は他生でその一人の神についての彼らの考えを点検されたが、彼らは三人の神の考えを抱いていることが発見された(天界の秘義2329、5256、10736、10748、10821)。天界では主の中に神の三一性が在ることが承認されている(14、15、1729、2005、5256、9303)。

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。

 

 

 

聖霊について(アタナシウス信条についてに併録P100)

 

 聖霊に反抗する罪は主の神的なものを否定することである(マタイ12・28、32、マルコ3・28、29、ルカ11・20など)。このことは前に言われていることから明白である。彼らは主は『魔鬼の頭により』魔鬼どもを追い出したのである、と言ったが、主はわたしは『神の霊により』、即ち、主御自身の神的なものによりそれを追い出したのである、と言われたのである。心情の中で否定することは赦されはしないのである、なぜならそうした者らは、ソツニウス派の者ら凡ての者のように、天界に入ることは出来ないからである。

 教会内にいて、主の神的なもの[神性]を否定し、父なる神のみを承認する者らもまた救われることは出来ない。彼らの中非常に多くの者は自然を承認しており、それで彼らは神的なものを自然の最小部分としてしか考えない。彼らは主に向くことは出来ないのであり、世を求める愛へ向く理由を述べることにしよう。

 

 

 

 

天界と地獄4

 

 天界の三分の一を形作っている子供たちは凡て、主は彼らの父であられることを教え込まれて、それを承認もし、信じもし、後には主は凡ての者の主であられ、引いては天と地の神であられることを承認し、信じている。子供たちは天界で成長し、知識を通して完全なものにされて、遂には天使の理知と知恵にも達することは以下の頁に見られるであろう。

 

 

天界と地獄5

 

 主は天界の神であられることを、教会に属する者たちは疑うことは出来ない。なぜなら主御自身が「父のものは凡て自分のものであり」(マタイ11・27、ヨハネ16・15、17・2)、「天と地の凡ての力は自分に与えられている」(マタイ28・18)と教えられたからである。天を支配する主は地もまた支配されるため、主は、『天と地の〔凡ての力〕』と言われているのである。なぜなら一は他に依存しているから。(*3)主は天と地とを支配されることは、天と地を支配することは愛の善の凡てと信仰の真理の凡てを受け、引いては理知と知恵の凡てを受け、かくて幸福の凡てを受けることを意味し、約言すれば永遠の生命を受けることを意味している。このことをも主は教えられて言われた、「子を信じる者は永遠の生命を持つ、しかし子を信じない者は生命を見ない」(ヨハネ3・36)。更に、「わたしは復活であり、生命である、わたしを信じる者は、死んでも、生きるであろう。だれでも生きてわたしを信じる者はことごとく決して死にはしない」(ヨハネ16・25、26)。更に、「わたしは道であり、真理であり、生命である」(ヨハネ14・6)。

 

*3

全天界は主のものである、2751、7086.諸天界と諸々の地球における凡ゆる力は主のものである、1607、10089、10827。主は天界を支配されるため、天界に依存する凡ゆる物をも、引いては世界の凡ゆる物も支配されている、(2026、2027、4523、4524。主のみ地獄を遠ざけ、悪から守り、善の中に維持し、かくして救われる力をもたれている、10019。

 

 

天界と地獄6

 

 世に生きていた頃、父を承認はしたが、主を他の人間のようにしか考えず、かくて主が天界の神であられることを信じなかった霊が若干いた。それで彼らは方々をさすらって、主の天界以外の天界が何かあるかないかを、何処であろうとその欲する所で尋ねることを許された。彼らは数日尋ねてみたが、何処にも全くそれを見出さなかった。彼らは天界の幸福を光栄と主権とに置いた者らの仲間であり、その望むものを得ることは出来ず、しかも天界はそうした物から成ってはいないと告げられたため、激怒して、他の者を支配して、世におけるように卓越した栄光を持つことの出来る天界を得ようと願ったのである。

 

 

 

天界と地獄7

 

 天使たちは共に合して天界を構成しているため、彼らは天界と呼ばれているが、しかし全般的にも、個別的にも天界を作るものは、天使たちのもとへ流れ入って、彼らにより受け入れられるところの、主から発出している神的なものである。主から発出している神的なものは愛の善と信仰の真理である。それ故、彼らが主から善と真理とを受け入れる度に従って、彼らは天使となり、また天界となる。

 

 

 

天界と地獄8

 

 諸天界の者は各々、自分は自己自身からは善を何一つ欲しないし、また為しもしないし、自分自身からは真理を何一つ考えはしないし、また信じもしないし、その凡ては神的なものから、引いては主から発しており、自分自身から発している善と真理とは、その中には神的なものから発した生命は何ら存在していないため、善と真理ではないことを知り、信じ、また認めさえもしている。最も内なる天界の天使たちはその流入を認め、感じており、彼らは受けるに応じて、益々自分が天界にいるように自分自身に思われるのであるが、それは彼らは益々愛と信仰との中におり、益々理知と知恵の光の中におり、そこから発する天界の喜びの中にいるためである。凡てこれらの物は主の神的なものから発生し、その中に天使たちの天界が在るため、主の神的なものが天界を作っており、天使たちがその天使たち自身の何らかのものからそれを作っているのではないことが明らかである。ここから聖言では天界は主の住所、その御座と呼ばれ、天界にいる者っちは主の中にいると言われている。しかし神的なものはいかようにして主から発生して、天界を満たしているかは以下に述べよう。

 

 

 

天界と地獄9

 

 天使たちはその知恵から更に進んで、善と真理とは主から発していると言うのみでなく、生命の凡てのものも主から発していると言っている。彼らはそれを以下により確認している。即ち、何物もそれ自身によって存在することは出来ず、それ自身の先に存在するものにより存在しており、かくて凡ゆる物は「最初のもの」から存在し―彼らはそれを凡てのものの生命の存在そのものと呼んでいる―また同じく存続している、なぜなら存続することは絶えず存在することであって、「最初のもの」に媒介物を通して絶えず関連づけられていないものは、たちまち解体して、全く死滅するからである。このことに彼らは以下のことを付言した、生命のただ一つの源泉が在り、人間の生命はそこから発する流れであって、もしそれがその源泉により絶えず存続しないなら、それはたちまち消滅すると。更に彼らは以下のように言っている、主であるその生命のただ一つの源泉からは神的善と神的真理以外には何物も発出しない。この神的善と神的真理とは各人をその者がそれを受けるに応じて感動させており、それを信仰と生活との中に受ける者たちはその中に天界を持つが、それを斥け、または窒息させる者はそれを地獄に変化させる。なぜなら彼らは善を悪に、真理を誤謬に変え、かくて生命を死に変えるからである、と。生命の凡ては主から発していることを、彼らはまた以下により確認している、即ち、宇宙の凡ゆる物は善と真理とに関係しており、人間の愛の生命である人間の意志の生命は善に、人間の信仰の生命である人間の理解の生命は真理に関係している。このことから、善と真理との凡ては上から来ているように、生命の凡てのものもそこから来ていることが推論される。天使たちはこのことを信じているため、その為す善に対する感謝を一切拒絶し、もし誰かが彼らに善を帰すならば、憤って、[身を]退けてしまう。彼らは誰かが自分は自分自身により賢くなり、自分自身により善を為すと信じているのを不思議に思っている。自分自身のために善を為すことは自己から為されているため、彼らはそれを善とは呼ばない。しかし彼らは善のために善を為すことを、神的なものから発した善と呼び、神的なものから発した善は主であるため、この善が天界を作っていると言っている。

 

 

 

天界と地獄10

 

 世に生きている間に、自分の為す善と自分の信じる真理とは自分自身から発しており、または自分自身のものとして自分のものになされるという信念を確認した霊たちは―善行に功績をおいて、義を自分自身に要求する者は凡てそうした信念を持っているが―天界には受け入れられない。天使たちは彼らを避け、愚劣な者、盗人とみなしている。[すなわち]彼らは絶えず自分自身を求めて、主を求めないため、愚劣な者であり、主から主のものを取り上げるため、盗人であるとみなしている。こうした霊は、主の神的なものが天使たちの中に天界を作るという天界の信念に対立している。

 

 

 

天界と地獄11

 

天界に、また教会にいる者たちは主の中におり、主は彼らの中におられることを、主は以下のように言われて、教えられている、「わたしの中に宿りなさい。さすればわたしはあなたたちの中に宿るでしょう。枝はぶどうの木の中に宿らなくてはそれ自身では果を結ぶことが出来ないように、あなたらもわたしの中に宿らなくては、果を結ぶことは出来ない。わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの中に宿り、わたしもその中に宿っている者、その者が多くの果を結ぶのである。なぜならわたしなしではあなたたちは何事も為すことは出来ないからである」(ヨハネ15・4、5)。

 

 

 

天界と地獄12

 

これらの事から今や以下のことが明白となるであろう。即ち、主は天界の天使たちの中の主御自身のものであるものの中に住まわれ、かくて主は天界の凡ゆる物における凡ゆるものであられるが、このことは主から発する善が彼らの中の主であるためである。なぜなら主から発するものは主御自身であり、従って主から発する善は天使たちに対し天界であり、天使たち自身のいかような物も天界ではないからである。

 

 

 

天界における主の神的なものは主に対する愛と隣人に対する仁慈である

 

天界と地獄13

 

 主から発出する神的なものは、間もなく明らかにされる理由から、天界では神的真理と呼ばれている。この神的真理は主からその神的愛を経て天界へ流れ入っている。神的愛とそこから発する神的真理とは比較すれば世の太陽の火とそこから発する光のようなものであって、愛は太陽の火に似、愛から発する真理は太陽から発する光に似ている。相応からまた火は愛を、光は愛から発出する真理を意味している。このことから主の神的愛から発出する神的真理はいかようなものであるかが明白となるであろう。即ち、それはその本質では神的真理に連結した神的善であり、それは連結しているため、天界の凡ゆる物に生命を与えており、それは丁度―春と夏のように―世の光に連結した太陽の熱が地の凡ゆる物に実を結ばせることに似ている。熱が光に連結していない時は、かくて光が冷たい時は実は結ばず、そのときは凡ゆる物は麻痺して、生命がなくなるのである。熱に譬えられる神的善は天使たちにおける愛の善であり、光に譬えられる神的真理は、それを通し、またそこから天使たちが愛の善を得るものである。

 

 

 

 

天界と地獄14

 

 天界を作る天界の神的なものは愛であるのは、愛は霊的な連結させるものであるためである。それは主に天使たちを連結させ、天使たちを相互に連結させ、また天使たちが凡て主の眼前には一人の人間のようなものとなるように天使たちを結合している。更に、愛は各々の者にとり生命の存在(エッセ)そのものであり、それゆえ愛から天使は生命を得、人間もまたそれを得ている。愛は人間の最も内なる生命力であることは、[そのことを]反省する者には凡て明らかとなるであろう。なぜならそれが現存することによって彼は熱し、それがなくなることによって彼は冷たくなり、それを奪われることにより彼は死ぬからである。しかし各人の生命はその者の愛の如何に応じていることを知らなくてはならない。

 

 

 

天界と地獄15

 

 天界には二つの明確に区別される愛、主に対する愛と隣人に対する愛が在る。最も内なる、または第三の天界には主に対する愛が在り、第二の、または真中の天界には隣人に対する愛が在る。二つとも主から発出し、二つとも天界を作っている。その二つの愛はいかように区別され、またはいかように連結しているかは、天界では明澄な光の中に認められるが、世では曖昧にしか認められない。天界では主を愛することは主の人柄(パーソン)を愛することを意味しないで、主から発する善を愛することを意味し、善を愛することは、愛からそれを意志し〔欲し〕、為すことである。同じくまた隣人を愛する言葉は仲間の人柄(パースン)を愛することを意味しないで、聖言から発する真理を愛することを意味し、真理を愛することは真理を意志し、為すことである。このことからその二つの愛は善と真理のように明確に区別され、また善と真理のように連結していることが明らかである。(*3)しかしこれらの事柄は、愛とは何であるか、善とは何であるか、隣人とは何であるかを知らない人間によっては容易に考えられない(*4)

 

*3 主と隣人を愛することは主の誡命に従って生きることである、10143、10153、10310、10578、10648.

 

*4 隣人を愛することはその人柄を愛することではなくて、彼の中にあるものを―そのものから彼の現在の心の状態が起こっているが―愛することであり、かくて彼の真理と善とを愛することである、5025、10336。人柄を愛しはするが、その者の中に在って、その者の現在の〔心の〕状態の源泉となっているものを愛さない者は、悪と善とを同じように愛する、3820。仁慈は真理を意志し〔欲し〕、真理のために真理に感動することである、3876、3877。隣人に対する仁慈は凡ゆる業において、凡ゆる任務において、善い、正当な、正しいことを為すことである、8120−22。

 

 

 

天界と地獄16

 

 私はこの主題について幾度も天使たちと話したことがあるが、彼らは以下のように言った。自分たちは教会の人たちが主と隣人とを愛することは善と真理を愛することであり、またそれを欲することから、それを為すことであることを知らないのを不思議に思っている、人が他の者の欲することを欲し、為すことによって、愛を立証し、そのことによって今度愛される番となり、その愛している者と結ばれるのであって、その者の意志していることを為しもしないで、ただその者を愛することによっては結ばれはしないのであり、そうしたことはそれ自身では愛しないことであることは、教会の人たちは、〔知ろうと思えば〕知ることが出来るのである、と。彼らはまた言った。主から発出する善は、主はその中におられる以上、主に似たものであり、それで善と真理とを欲し、為すことによって、それを自分の生命のものとなす者は、主に似たものとなり、また主と連結することを、人間は〔知ろうと思えば〕知ることは出来るのである、と。意志する〔欲する〕ことはまた為すことを愛することである。それがそうであることを主はまた聖言で教えて、言われている。「わたしの教えを守って、それを為す者は、わたしを愛する者であり、わたしはその者を愛し、その者のもとに止まるであろう」(ヨハネ14・21、23)。更に、「もしあなたたちはわたしの戒めを行うならば、わたしの愛の中に止まるであろう」(ヨハネ15・10、12)。

 

 

 

天界と地獄17

 

 主から発生して、天使たちの心を感動させ、天界を作っている神的なものは愛であることは、天界の凡ゆる経験により実証されている。なぜならそこにいる者たちは凡て愛と仁慈との形であって、言うに言われぬ美しさをもって見られ、愛はその顔から、その言葉から、その生命の個々の凡ゆるものからも輝き出ているからである。更に各々の天使と各々の霊から、生命の霊的なスフィアが発出して、彼らを取り囲み、そのスフィアにより彼らは、ときとしては非常な遠方にいても、その愛の諸々の情愛の性質を知られている。なぜならこのスフィアは各自の情愛の生命とその思考から、またはその者の愛の生命とその信仰から流れ出ているからである。その天使たちから発出するスフィアはその天使たちの眼前にいる者たちの生命の最内部をさえ感動させるほどに愛に満ちている。彼らは時折私からも認められて、そのように私を感動させたのである。天使たちの持っている生命の源泉は愛であることはまた以下のことからも明らかである。即ち、各々の者は他生ではその愛に応じて自分自身を[一定の方向に]向けており、主に対する愛と隣人に対する愛にいる者たちは絶えず主に身を向けているが、しかし自己への愛[自己愛]にいる者らは絶えず主に背を向けている。このことは彼らがその身体をいかほど回転させても起るが、それはそこの空間は彼らの内部の状態に順応しているからであり、また方位も同様にそれに順応していて、世におけるように固定しないで、その顔の向きに従って決定されているからである。しかも彼ら自身を主に向けるものは天使たちではなくて、主が主から発しているものを何なりと為すことを愛する者たちを御自身に向けられるのである。しかしこのことについては、後に天界の四方位を取扱う章で、更に述べよう。

 

 

 

天界と地獄18

 

 天界における主の神的なものは愛であるのは、愛は、平安、理知、知恵、幸福である天界の凡ゆる物の容器であるためである。なぜなら愛は愛自身に適合した物をことごとく受け入れ、それを欲し、それを求め、いわば自発的にそれを吸収するからであるが、それは愛はそうした物により絶えず豊かにされ、完全なものにされることを愛するためである。このことは人間にも知られている。なぜなら人間にあっては、愛は謂わば彼の記憶を覗き込んで、その貯えたものから[愛に]一致した物を引き出し、集め、秩序正しく愛自身の中に、また愛自身の下に排列するが―愛自身の中に排列するのは、その排列されたものが愛に仕える者となるためである―しかしその愛に一致していない他のものは斥け、根絶させるからである。愛の中には愛自身に適合した諸真理を受ける凡ゆる能力があり、またその諸真理を愛自身に連結しようとする願望が在ることは、天界に取り上げられた者たちから私に明らかにされたのである。即ち、彼らは世では単純なものであったものの、天使たちの間にくると天使たちの知恵へ入り、また天界の祝福の中へも入ったのである。その理由は、彼らは善と真理とを善と真理とのために愛し、それを己が生命の中に植え付け、かくして天界をその表現を絶した祝福とともに受ける能力となったということであった。しかしながら自己と世への愛にいる者らは、これらの物を受ける能力を何ら持っておらず、これに反感を抱き、これを斥け、それが彼らに触れるのみで、また入ってくるのみで、逃げ去り、地獄の、彼ら自身の愛に似た愛にいる者らと共になっている。天界的愛の中にそのような祝福の在ることを疑って、それが実際そうであるか、否かを、知ろうと切望した霊たちがいた。それで彼らは天界的愛の状態へ入れられ―それに対立したものはその間遠ざけられたのであるが―前方のやや遠くの辺りへ連れて行かれて、そこに天使の天界を見出した。この天界から彼らは私と語って、自分たちは言葉では表現することが出来ないような内的な幸福を認めると言い、彼らがまた以前の状態へ帰らねばならないことを非常に嘆いたのである。他の者たちもまた天界へ取り上げられた。彼らは更に高く、または更に深く取り上げられるに従って、以前把握出来なかったような理知と知恵の中へ入ったのである。このことから、主から発出する愛は天界と天界に在る凡ゆる物の容器であることが明らかである。

 

 

 

天界と地獄19

 

 主に対する愛と隣人に対する愛とは神的諸真理の凡てをそれ自身の中に包含していることは、主がこの二つの愛について言われたことから明白となるであろう。即ち、「あなたはあなたの神である主を情(ハート)を尽くし、魂を尽くし、心(マインド)を尽くして愛さなくてはならない。これは最大の、また最初の戒めである。第二もそれに似て、あなたはあなたの隣人をあなた自身のように愛さなくてはならない。この二つの戒めに律法と予言者たちの全部がかかっている」(マタイ22・37−40)。律法と予言者たちは聖言の全部であり、かくて神的真理の凡てである。

 

 

 

天界は二つの王国に区別されている

 

天界と地獄20

 

 天界には無限の多様性があり、いかような社会も他の社会とは全く同一ではなく、またいかような天使も他の天使とは全く同一ではないため、天界は全般的に、特定的に、個別的に―全般的には二つの王国に、特定的には三つの天界に、個別的には無数の社会に区別されている。今この幾多に分割されたものを録してみよう。全般的には[二つの]王国に分割されていると言われているのは、天界は神の王国と呼ばれるからである。

 

 

 

 

天界と地獄21

 

 主から発出する神的なものを更に内的に受ける天使たちと、それをさほど内的には受けない天使たちとがいる。それを更に内的に受ける者たちは天的(セレスチャル)天使と呼ばれ、それをさほど内的に受けない者たちは霊的天使と呼ばれている。この理由から天界は二つの王国に区別され、その一つは天的王国と呼ばれ、他の一つは霊的王国と呼ばれている。

 

 

 

 

天界と地獄22

 

 天的王国を構成する天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れるため、内的な、また高い天使と呼ばれ、従って彼らの構成する天界は内的な、高い天界と呼ばれている。彼らが高い、低いと言われるのは、内的な物は高いと呼ばれ、外的な物は低いと呼ばれるためである。

 

 

 

天界と地獄23

 

天的王国にいる者たちの抱いている愛は天的愛と呼ばれ、霊的王国にいる者たちの抱いている愛は霊的愛と呼ばれる。天的愛は主に対する愛であり、霊的愛は隣人に対する仁慈である。そして人が愛するものはその人には善である以上、善は凡て愛に属しているため、一方の王国の善はまた天的なものと呼ばれ、他方の王国の善は霊的なものと呼ばれている。このことから、その二つの王国はいかようにして互いに他から区別されているか、即ち、主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善とが互いに他から区別されると同じ方法で区別されていることが明らかである。そして主に対する愛の善は内的善であり、その愛は内的愛であるため、天的天使たちは内的なものと呼ばれ、高い天使と呼ばれている。

 

 

 

天界と地獄24

 

 天的王国はまた主の祭司的王国と呼ばれ、聖言では主の住所と呼ばれ、霊的王国は主の王者的王国と呼ばれ、聖言では主の王座と呼ばれている。天的神的なものからまた主は世ではイエスと呼ばれ、霊的神的なものからキリスト呼ばれ給うた。

 

 

 

天界と地獄25

 

 主の天的王国の天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れているため、知恵と栄光とにおいては霊的王国にいる天使たちよりも遥にまさっている。なぜなら彼らは主に対する愛にいて、そのため主に更に近く、また更に密接に連結しているからである。彼らはそのようなものであるのは、神的諸真理をその生命[生活]の中に直ちに受け入れたからであり、それを先ず記憶と思考との中に受け入れる霊的天使たちとは異なっているためである。かくて彼らはその諸真理を己が心の中に書き記されて、それらを認め、謂わばそれらを自分自身の中に見、その真理は真理であるか、否かと、それについては決して論じはしないのである。彼らはエレミア記に記されているような者である。「わたしは彼らの心の中にわたしの律法を置き、それを彼らの情(ハート)の中に書き記そう。彼らは各々その隣人に、また各々その兄弟に教えて、あなたらはエホバを知りなさいとは言わないであろう。彼らは、その中のいと小さい者からその中のいと大いなる者にいたるまでも、わたしを知るであろう」(31・33,34)。彼らはイザヤ書では『エホバに教えられた者』と呼ばれている(54・13)。エホバに教えられる者は主から教えられる者であることを、主御自身ヨハネ伝(6・45、46)に教えられている。

 

 

 

天界と地獄26

 

これらの天使たちは神的諸真理をその生命の中に直ぐに受け入れたものであり、また現在も受け入れているため、他の者にまさって知恵と栄光とを得ている、なぜなら彼らはそれを聞くとすぐに、それを欲して、実践はするが、それを記憶の中に貯えて、後になって、それ真であるか、否かとは考えはしないからである。こうした天使はその聞く真理は真理であるか、否かを主から発する真理によって直ぐに知るのである。なぜなら主は人間の意志[欲すること]の中へ直接流れ入られ、人間の意志[欲すること]を通して間接にその人間の思考[考えること]の中へ流れ入られるからである。またはそれと同一のことではあるが、主は直接に善の中へ流れ入られ、善を通して間接に真理の中へ流れ入られるからである。意志に属し、そこから行為に属するものは善であると言われるが、しかし記憶に属し、そこから思考に属するものは真であると言われている。さらに、真理は凡て、それが先ず意志に入る時、善に変わり、愛の中に植えつけられるが、しかし真理が記憶の中にあり、それで思考の中に在る限り、善とはならず、また生きもせず、また人間のものともなされない。なぜなら人間は意志とその理解から人間であって、意志から分離した理解から人間ではないからである。

 

 

 

天界と地獄27

 

 天的王国の天使たちと霊的王国の天使たちとはこのように区別されているため、彼らはそうした理由から同じ所にはおらず、また共に交わりもしない。彼らは、天的霊的なものと呼ばれている中間の天使社会を通してのみ連なっている。この社会を通して天的王国は霊的王国に流れ入っている(*)。そこから、天界は二つの王国に分割されてはいるけれど、依然一つのものとなるようになっている。主は常にこうした中間の天使たちを供えられ、その天使たちを通して伝達と連結が行われている。

 

*その二つの王国の間には、天的霊的なものと呼ばれている天使社会により伝達と連結とが行われている、4047、6435、8796、8802、主は天的王国を通して霊的王国へ流入されている、3969、6366。

 

 

 

天界と地獄28

 

この二つの王国については今後更に多く語るであろう。それで個々の事項はここでは省くことにする。

 

 

 

三つの天界が在る

 

 

 

天界と地獄29

 

 三つの天界が存在し、これらは相互に全く他から区別されている。[すなわち]最も内なる、または第三の天界と、真中の、または第二の天界と、最低の、または第一の天界が在る。それらは秩序正しく互いに他に続き、相互に、人間の最高の部分、または頭、その真中の部分、または身体、最低の部分、または足のような、または家の上の階、真中の階、最低の階のような関係におかれている。主から発出して、下降している神的なものもまたこうした秩序を持っている。ここから、秩序の必然性から、天界は三重のものとなっている。

 

 

 

天界と地獄30

 

 人間の心と性向との属する人間の内部もまた、同じような秩序を持っている。彼は最も内なる部分と、真中の部分と、最も外なる部分とを持っている。なぜなら神的秩序の凡ゆる物は、人間の中へ、その創造において結集され、かくして彼は神的秩序の形とされ、また天界の縮図とされているからである。その理由からまた人間はその内部の方面では諸天界と連なっており、死後天的なものの間に来、世におけるその生活の間に主から神的善と真理とを受けた度に応じて、最内部の、中間の、または最低の天界の天使たちの間に来る。

 

 

 

天界と地獄31

 

 主から流れ入って、第三の、または最も内なる天界の中に受け入れられる神的なものは、天的なものと呼ばれ、そこから、そこの天使たちは天的天使と呼ばれている。主から流れ入って、第二の、または真中の天界に受け入れられる神的なものは、霊的なものと呼ばれ、そこから、そこの天使たちは霊的な天使たちと呼ばれている。しかし主から流れ入って、最低の、または第一の天界に受け入れられる神的なものは自然的なものと呼ばれている。しかしながら、その天界の自然的なものはこの世界の自然的なものに似ないで、霊的な天的なものをそれ自身の中に持っているため、その天界は霊的な自然的なもの、天的な自然的なものと呼ばれ、そこからそこの天使たちは霊的な自然的なもの、天的な自然的なものと呼ばれている。霊的天界である真中の天界または第二の天界から流入を受ける者たちは、霊的な自然的なものと呼ばれ、天的天界である第三の天界、または最も内なる天界から流入を受ける者たちは天的な自然的なものと呼ばれている。霊的な自然的天使は天的な自然的な天使から区別はされるものの、ともに一つの度にいるため、一つの天界を構成している。

 

 

 

天界と地獄32

 

 各天界には内なるものと外なるものとが在る。内なるものにいる者たちはそこでは内なる天使と呼ばれるが、外なるものにいる者たちは外なる天使と呼ばれる。諸天界、または各天界の内なるものと外なるものとは人間の中の意志に属するものとその意志の理解に属するものとに似、内なるものは意志に属するものに似、外なるものはその意志の理解に属するものに似ている。意志の凡ゆる物はそれ自身のものを理解の中に持っている。一は他を離れては与えられていない。意志に属するものは、例えば、焔のようなものであり、その意志の理解に属するものは、その焔の光のようなものである。

 

 

 

 

天界と地獄33

 

 天使たちの内部が天使たちを異なった天界におらせるものであることを明らかに理解しなくてはならない。なぜなら彼らの内部が主へ開かれるに応じて、益々彼らは内的な天界にいるからである。霊にも、天使にも、また人間にも、凡ての者に三つの度の内部が在る。第三の度が開いている者たちは最も内なる天界にいる。第二の度の開いている者たちは真中の天界におり、第一の度のみしか開いていない者たちは最低の天界にいる。その内部は神的善と神的真理とを受けることによって開かれている。神的諸真理に感動して、それを直接に生命(ライフ)の中に容れ、引いては己が意志の中へ容れ、意志から行為の中へ容れる者たちは、最も内なる天界または第三の天界におり、〔そこに〕占める位置は真理に対する情愛から善を受け入れることに応じている。しかしこれらの真理を直接己が意志の中へ容れないで、記憶の中へ容れ、記憶から理解の中へ容れ、そこからその真理を意志し〔欲し〕、行う者たちは、真中の天界または第二の天界にいるが、道徳的な生活をして、神的なものを信じてはいるものの、教えを受けることをあまり求めない者たちは、最低の天界または第一の天界にいる。このことから、内部の状態が天界を作っており、天界は各人の中に在って、その外にはないことが明らかとなるであろう。それは主が以下のように言われて、教えられているところの同じである。「神の[王]国は目に見えるようには来ない。また人は、見よ、ここを、または、見よ、そこをとも言わないであろう。見よ、神の国あなたたちの中にある」(ルカ17・20、21)。

 

 

 

 

天界と地獄34

 

内部は神的なものに更に近く、それ自身において更に純粋なものであるが、外部は神的なものから更に隔たっていて、それ自身においては更に粗悪なものであるため、完全はすべてまた内部に進むにつれ増大し、外部に進むにつれ減退している(*4)。天使の完全は理知、知恵、愛、善い凡てのもの、またそこから発する幸福の中にあるが、そうしたものから離れた幸福の中にはない。なぜならそうした幸福は外なるものであって、内なるものではないから。最も内なる天界の天使たちの内部はその第三の度が開かれているため、彼らの完全は、内部の第二の度の開かれている真中の天界の天使たちの完全に無限にまさっている。同じく真中の天界の天使たちの完全は最低の天界の天使たちの完全にまさっている。

 

*4

内部は神的なものに更に近づいているため、更に完全である、3405、5146、5147。内なるものの中には巨万の物が存在しているが、それは外なるものの中には一つの全般的な物としてしか現れていない、5707.人間は外なるものから内部へ挙げられるに応じて、光の中へ入り、かくて理知へ入り、その挙げられることは雲の中から澄明なものの中へ入るのに似ている4598、6183、6313。

 

 

 

天界と地獄35

 

この区別のため、一つの天界の天使は他の天界の天使たちの間に来ることは出来ない。即ち、たれも低い天界から昇ることは出来ず、またたれも高い天界から降ることも出来ない。たれでも低い天界から昇る者は不安におそわれて、苦しみさえもし、その近づいて行く者たちを見ることは出来ず、ましてその者たちと話すことは出来ない。またたれでも高い天界から降る者はその知恵を奪われ、言葉がもつれ、絶望してしまう。天界は天使たちの内部にあることを未だ教えられていないで、高い天使たちの天界へ入りさえするならば、高い天界の幸福の中へ入るであろうと信じていたところの最低の天界から来ている若干の者が彼らの間に入ることを許された。しかしそのとき彼らは、いかほど探してみても、非常に多くの者が[彼らのまわりに]いたにも拘らず、その誰一人も見なかったのである。なぜならその外来者たちの内部はそこにいる天使たちの内部と同じ度に開かれておらず、従って彼らの視覚も開かれていなかったからである。まもなく彼らは自分たちは生きているのか、いないのか、殆ど分からないほどの心の苦悶に襲われた。それでも彼らは大急ぎでその後にしてきた天界へ、自分たちに似た者たちの間へ再び来たことを喜び、自分たちの生命に和合した物以上の物を自分たちは今後決して求めはしないと約束したのである。私はまた若干の者が高い天界から降ろされて、その知恵を奪われ、遂には自分自身の天界のいかようなものであるかが分らなくなってしまったのを見たのである。しばしば行なわれることではあるが、主が低い天界から天使たちを引き上げられて、高い天界へ入れられ、これにそこの栄光を見させられるときは、こうしたことは起こらない。なぜならそのときは彼らは先ず準備をして、中間の天使たちにつきそわれ、その天使たちを通して、その仲間となる者たちと連なるからである。これらの事からその三つの天界は相互に極めて明確に区別されていることが明らかである。

 

 

 

天界と地獄36

 

しかしながら同じ天界にいる者たちはそこにいる誰とでも交わることが出来るが、しかしその交わりの楽しさは彼らの抱く善の類似性に応じている。そのことについては以下の章に更に述べよう。

 

 

 

天界と地獄37

 

 しかも、諸天界は明確に区別されて、一つの天界の天使たちは他の天界の天使たちと交わることはできないものの、主は全天界を、直接的な流入と間接的な流入によりー御自身から全天界に注ぐ直接的な流入と、一つの天界から他の天界へ注ぐ間接的な流入とによりー連結され、かくしてその三天界を一つのものとされ、凡ゆる物を「最初の者」主から最後のものまでも関連づけられ、かくして関連づけられていない物は何一つ存在していない。媒介物を通して最初の者に関連づけられていないものは存続しないで、消滅し、無となってしまう。

 

 

 

 

天界と地獄38

 

 神的秩序は度の方面でいかようになっているかを知らない者は、諸天界はいかように区別されているかを把握できず、内なるものと外なるものとの意味さえも把握することも出来ない。世の大半の人間は内的なものと外的なものとを、または高いものと低いものとを、純粋なものから粗悪なものに向って連続しているもの、または連続によって結合しているものとしか考えていない。しかし内的なものと外的なものとは連続したものではなく、分離したものである。二種類の度、即ち、連続した度と連続していない度とが在る。連続した度は、光が焔からその不鮮明な状態へ減退して行く度のようなものであり、または視覚が光の中に在るものから蔭の中に在るものへ衰えて行く度のようなものであり、または視覚が光の中に在るものから蔭の中に在るものへ衰えて行く度のようなものであり、または大気の最高のレベルからその最低のレベルに至るその純粋さの度のようなものである。これらの度は距離により決定されているに反し、そうした連続的な度ではなく、分離している度は、先在的なものと後在的なもののように、原因と結果のように、生み出すものと生み出されるもののように区別されている。いかようなものであれ、全世界の凡ゆる物の中には、生み出し、構成するところの、即ち、一つのものから他のものを、その他のものから第三のものをというふうに生み出し、構成しているところのこうした度のあることを、調べてみるならば、認めることが出来よう。これらの度を認めない者は、諸天界の区別を、また人間の内的な能力と外的な能力との区別を決して知ることは出来ず、霊界と自然界との区別も、人間の霊とその身体との区別も知ることは出来ない。感覚的な人間はこれらの区別を把握しない。なぜなら彼らはこうした度にさえ応じた増大と減退とを連続的なものとして認め、かくて霊的なものを自然的なものが更に純粋になったものとしか考えることは出来ないのである。それ故また彼らは外に、[すなわち]理知から遠く離れて立っている。

 

 

 

天界と地獄39

 

 結論として、度を理解できないために、これまでいかような人間の心にも入ったことのないところの、三天界の天使たちにかかわる隠れた事実を述べてみよう。すなわち、各天使には、また人間には、最も内なる度、または最高の度が在り、または最も内なる物、最高の物が在って、その中へ主の神的なものが最初に、または最も近く流れ入り、そこから、秩序の度に従って人間の中に[その最高の内なる物に]続いている他の幾多の内なる物を処理しているのである。この最も内なる、または最高の度は天使と人間に入る主の入口、また天使と人間における主の住所そのものと呼ぶことが出来よう。この最も内なる、または最高の度によって人間は人間になり、それを持っていない獣から区別されている。ここから人間は、動物とは異なって、その心と性向とに属するその内なる物を、主により主御自身にまでも高揚されることが出来、理知と知恵を受け、理性から語ることが出来るのである。彼が永遠に生きるのはこのことによっている。しかし主によりこの最も内なる度の中に処理され、供えられるものは、天使の思考を越え、その知恵を超越しているため、いかような天使の認識の中へも明らかに流れ入っていない。

 

 

 

天界と地獄40

 

さて以上が三天界についての全般的な事実であるが、各天界にかかわる事項は以下に述べよう。

 

 

 

諸天界は無数の社会から成っている

 

 

天界と地獄41

 

 一つの天界の天使たちはその全部が一つの所に共にいるのではなく、その抱いている愛の善と信仰の相違に従って、大小の幾多の社会に区別されている。類似した善にいる者たちは一つの社会を形作っている。諸天界の諸善は無限の多様性をもち、天使各々はその者自身の善である。

 

 

 

天界と地獄42

 

 諸天界の諸々の天使の社会もまたその善が全般的に、また個別的に相違するに応じて、互いに他から隔っている。なぜなら霊界の距離は内部の状態の相違以外の起源からは発してはおらず、かくて諸天界では愛の状態の相違以外のものからは発していない。非常に相違した者は遠く離れ、僅かしか相違していない者は僅かしか離れていない。互い似ていることが彼らを共に近くおらせるのである。

 

 

 

天界と地獄43

 

 一つの社会の中の凡ての者についてもまたそれに類似した区別がある。更に完全な者、すなわち、善にすぐれ、かくて愛、知恵、理知にすぐれた者たちは真中におり、それほどすぐれていない者は周囲におり、その完全の度が劣るに応じて遠ざかっている。それは光が真中から周辺に向って減退して行くのに似ている。真中にいる者たちはまた最大な光の中におり、周辺に向っている者たちの光は、益々減少している。

 

 

 

天界と地獄44

 

 似た者はその似た者に謂わば自発的に引き寄せられている、なぜなら彼らは彼らに似た者とは、彼ら自身の者と共にいるように、また家庭にいるようにも感じるが、他の者とは見知らぬ者と共にいるように、また外にいるようにも感じるからである。彼らはまたその似た者と共にいるときは、自由を持ち、かくて生命の凡ゆる楽しさを感じるのである。

 

 

 

天界と地獄45

 

 ここから善が諸天界の凡ゆる者を共に交わらせるが、彼らはその善の性質に従って排列されていることが明らかである。しかもこのように自分自身を共に交わらせるものは天使ではなくて、その善の根元である主である。主は彼らを導かれ、結合され、区別され、彼らが善にいるに応じて彼らを自由の中に保たれている。かくて主は各々の者をその愛、信仰、理知、知恵の生命の中に保たれ、そのことによって、幸福の中に保たれている。

 

 

 

天界と地獄46

 

 類似した善にいる者たちはまた、以前互いに他を見たことはないものの、丁度世の人間がその親類の者、近親の者、友を知っているように、互いに他を知っているが、それは他生には霊的なものである親類、近親、友情、引いては愛と信仰とに属しているもの以外のものは存在していないという理由によっている。このことは、私が霊の中に在り、かくて身体から引き出されて、天使たちと交わっていたとき、時々私の見ることを許されたところである。そのとき彼らの中の或る者は私が子供時代から知っているもののようにも思えたが、他は全く知っていないもののように思えたのである。私が子供時代から知っているもののように思えた者たちは、私の霊の状態に似た状態にいたが、私が知らないように思った者たちは異った状態にいたのである。

 

 

 

天界と地獄47

 

一つの天使社会を形作っている者は凡てその顔に、個々の相違はあるが、全般的に類似したものを持っている。全般的な類似が個々の変化といかようにして一致しているかは世の類似した物から或る程度把握することが出来よう。各種族は顔と眼にある共通の類似したものを持っていて、そこから他の種族と異なっていることが認められ、またその種族から区別されており、まして一つの家族は他の家族とは区別されていることは知られている。しかしこれは諸天界では更に完全に行なわれている。なぜならそこでは、顔は内的な諸情愛の外なる、表象的な形であるため、その情愛の凡ては顔から現れて、輝き出ているからである。天界では己が情愛の顔以外の顔を持つことは出来ない。また全般的な類似が一つの社会の個人のもとで個々にいかように変化するかも私に示されたのである。一人の天使の顔に似た顔が一つ私に示され、それが一つの社会にいる者たちの善と真理とに対する情愛の変化に応じて変化したのである。その変化は長い間続いたが、全般的に同じ顔が依然一つの面(プレイン)として止まり、他は単にそこから派生したもの、また生み出されたものに過ぎないことを私は認めたのである。かくてその顔を通してその社会全体の諸情愛が示されたのであるが、その諸情愛によりその社会にいる者たちの顔が変化するのである。なぜなら、前述したように、天使の顔はその内部の形であり、かくて愛と信仰とに属した彼らの情愛の形であるからである。

 

 

 

天界と地獄48

 

 このことからまた、知恵のすぐれている天使は他の者の性質をその顔からすぐに認めるようになっている。天界では誰一人その表情によって己が内部を隠してたばかることは出来ないし、また狡猾と偽善によって決して偽ったり、欺いたりすることも出来ない。偽善者らが己が内部を隠し、またその外部を、ある社会に属している者たちの抱いている善の形で現すように作り、かくして自分自身を光りの天使としてたばかり装うことを学んで、幾多の社会に秘かに入り込むことが時々起っている。しかしこれらの者はそこに長く止まっていることは出来ない。なぜなら彼らは[その時彼らの生命とは]反対の生命が流れ入って来て、それが彼らに影響するため、内なる苦悶を感じ、責め苛まれ、顔が死人のようになり、生命を奪われるように思われ始めるからである。そのため彼らは、彼らに似た者のいる地獄に向かって急に彼ら自身を投げ下ろして、以後最早昇ろうとは願わない。これらの者が、招かれた客の中で、婚礼の衣服を着ていないことを発見されて、外の暗黒の中へ投げ出された者により意味されている者たちである(マタイ22・11−13)。