スウェーデンボルグは聖言

 

 

 

 

1.この意義を通して人間と天界の天使たちとの間に交流[伝達]が開かれており

2.この知識を手段として人間は天界と交流することができる

3.内なる善と真理とは天界の天使たちと直接に交流しているに反し、外なる善と真理とは相応したものを通して間接的に交流して、直接的には交流しないのである

4.それでそれは直接天界との交流を生み出します―ベイエル博士

5.歓喜と祝福とが、ましてその人間がその内意に含まれている事柄について何かを把握するとき流れ入ってくるのである

6.内意は、これまで示してきたように、単に外なる意味の中に隠れているかの意味のみではなく、多くの記事の文字の意義が正しく対照される際、そこから生まれてくるもの

7.その展開は一瞬にして行われる、従ってその(天使たちと)共になることもまた一瞬にして行われる

8.主がそのとき話された一切の事柄は聖言である神の真理であられた

9.何ものもそのもの自身から存在しないで、そのもの自身よりも先に在るものから存在し

10.もし人間がそうした意義があることを知り、聖言を読むとき、その知識から考えるなら、彼は内的な知恵に入り、さらに天界と連結するであろう

11.聖言の神的なものはその内なる霊的な意義の中に在る

12.聖言は(人が)聖言を通して天界と連なり、また連結するためにはそれ以外の文体で記されることはできなかった

13.聖言は真理を意味している。それは教義を意味している

14.何れが聖言の書物であるか

15.一つの霊的な観念は多くの天的な観念が含まれている

16.言の凡ての物の中に、またその一つ一つの物の中に、自然的な意義に相応する霊的な意義があり、この意義によって聖言は教会の人々を主と結合させ、また天使達と連ねさせる

17.内意が彼らには聖言

18.その内意が彼らには聖言そのものであった

19.聖言の各々の物と凡ゆる物の中には[聖言の一切のものの中には]内意が在り、内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在る

 

 

 

1.この意義を通して人間と天界の天使たちとの間に交流[伝達]が開かれており

 

主、新しい教会へ招きたもう44/「新しい教会の教典」に併録

 

 これらの極めて明白な証明に加えて、聖言の霊的な意義が主によりわたくしを通して明らかにされたという事実が在り、それは聖言がイスラエルの子孫のもとに記されて以来以前には決して啓示されはしなかったのであり、この意義は聖言の聖所そのものであり、主御自身はその神的なものをもってこの意義の中におられ、その自然的なものをもって自然的な意義の中におられるのである。この意義では一文字すらも主のみによらなくては開かれることはできないのである。これは世の創造以来これまでに与えられた凡ての啓示にも勝るものである。この意義を通して人間と天界の天使たちとの間に交流[伝達]が開かれており、またその二つの世界の連結が遂行されているのである、なぜなら人間は自然的な意義の中にいるとき、天使たちは霊的な意義の中にいるからである。(「真の基督教」における)聖書を取扱った章の中でこの意義について記されたことを参照されたい。

 

 

2.この知識を手段として人間は天界と交流することができる

 

天界の秘義4280[3]

 

 現今ではこうした事柄は逆理のように思われないわけにはいかないのである、なぜなら前に言ったように、こうした知識は全くすたれて、失われているから。それでもこの知識はいかに他の知識にまさっているかは、それがなくては聖言の内意を到底知ることができないという事実から知ることができよう、またそれは人間のもとにいる天使たちが聖言をこの意義に従って認めているためであり、またこの知識を手段として人間は天界と交流することが出来るためである。そして信じがたいことではあるが、内なる人はそれ以外の方法では考えはしないのである、なぜなら人間は身体の中で生きている間はそのことは知ってはいないものの、外なる人が聖言をその文字に従って把握するとき、それと同時に内なる人はそれをその内意に従って把握しているからである。特にこのことは人間が他生に入って、天使となるとき彼は内意を教えられなくとも、自ずから知っているように知っているという事実から認めることができよう。

 

 

天界と地獄114

 

 相応の知識と、その用とについて今若干述べておかなくてはならない。天界である霊界は相応[した物]によって自然界に連結しており、かくて相応[した物]によって人間は天界と連なる(コミュニケイト)ことが出来ることは前に述べた。なぜなら天界の天使たちは、人間のように、自然的な物からは考えないからである。従って、人間は相応を知るとき、彼はその心の思考の方面で天使たちと交わることが出来、かくしてその霊的な、または内なる人の方面で彼らに連結することができるのである。天界が人間と連結するために、聖言は全く相応[した物]により記され、聖言の中の一切の物は相応しているのである。かくてもし人間が相応した物を知るならば、彼は聖言の霊的意義を知り、そこから文字の意義では何一つ認められないアルカナ[秘義]を知ることが出来るであろう。なぜなら聖言には文字的な意義と霊的な意義とがあるから。文字的な意義は世に在るような物から成っているが、しかし霊的な意義は天界に在るような物から成っており、そして天界は世と相応[した物]により連結しているため、凡ゆる物が、一つの点にいたるまでも、それに相応したものを持っている聖言が与えられたのである。

 

 

 

主の聖言20―経験から―(『仁慈の教義』に併録)

 

しかし教義の真理から霊的意義を解釈することは天界を開くからであるが、それはその意義がその中に天使たちが存在している意義であり、それで人間はその意義により天使たちと共になって考え、かくしてその知的な心の中に天使たちを彼自身に連結させるからである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義263

 

主は聖言を通し、その内なる意義によって人間と連結される(10375番)。主は聖言の一切の物により人間と連結されている、それで聖言は他の凡ての文書にもまさって驚嘆すべきものである(10632−10634番)。聖言は記されたからには、主はそれにより人間に語られる(10290番)。

 

 

3.内なる善と真理とは天界の天使たちと直接に交流しているに反し、外なる善と真理とは相応したものを通して間接的に交流して、直接的には交流しないのである

 

黙示録講解376イ(2)

 

 さらに、内なる、また外なる善と真理とが在り、内なる善と真理とは『害ってはならない油とぶどう酒』により意味されているが、しかし外なる善と真理とは聖言の文字の意味中に在るものであるに反し、内なる善と真理とは聖言の内なる、または霊的な意味の中に在るものである、また外なる善と真理とは低い諸天界の中にそこの天使たちのもとに在るようなものであり、すなわち、天界の究極的なものの中に在るようなものであるに反し、内なる諸善と諸真理とはさらに高い諸天界の中にそこの天使たちのもとに、すなわち、第三の天界と第二の天界との中に在るようなものである。これらの諸善と諸真理とは純粋な諸善と諸真理そのものであるが、しかし前のものは相応しているため、真理と善であり、かくて相応しているものであり、内なる善と真理とは天界の天使たちと直接に交流しているに反し、外なる善と真理とは相応したものを通して間接的に交流して、直接的には交流しないのである。このことが、ユダヤ人は文字の意味の中にのみいて、霊的な意味における事柄の意義を何ら知りはしなかったため、霊的な意味には、その善の方面でも、真理の方面でも危害を加えることはできず、従って純粋な善と真理とには危害を加えることが出来なかった理由である。現今キリスト教会も同様に聖言の霊的な意味の中に在る純粋な善と真理には危害を加えることは出来ないのである、なぜならそれはその意味を知りはしないからであり、同時に純粋な善と真理を知りはしないからである。

 

 

4.それでそれは直接天界との交流を生み出します―ベイエル博士

 

静思社/スエデンボルグの生涯と思想/P342

 

翌日彼らは会うと、スエデンボルグはその約束に従って、その文書を差し出した。彼はそれをその二人の紳士の前でポケットから差し出すさい、震えて、非常に感動しているように見えた。涙が頬を伝って流れ落ちていた。彼がその文書をベイエル博士に手渡す際語った言葉はベイエル博士の心に深く刻みつけられた。

『あなた、今日から主はあなたを天使たちの交わりの中へ入れられました。今あなたは天使たちに囲まれています。』スエデンボルグはその翌日オランダへ向け船出することになっていたため、それからしばらくして別れを告げた。

 列席した者たちは深い感動を受けた。その日以来、ギリシャ語に造詣の深い学者でもあったこの愛すべき、敬虔なベイエル博士の心に非常な変化が起った。彼は以前は『興味も覚えないし、把握することもできない』ように思えたその著作を再び読み初めたが、それは人類にとり無限に重要なものであることを知り、興味はさらにかき立てられた。彼はスエデンボルグの著作を系統的に学ぶ必要を感じ、その研究はその生涯の終りまで絶えるときもなく続けられた。彼は公刊された著作の凡てを買い求め、著者と文通し、彼には不明と思われる幾多の教義についてスエデンボルグ自身から教えを受けたのである。

 

 

静思社/スエデンボルグの生涯と思想/P446

 

 ベイエル博士は、その見解を求められて、スエデンボルグの『内意』は聖言そのものであり、聖言の聖いものである、と答えた、『この内意は丁度聖言の文字が使徒たちに述べられたように、天界からその監査官に示されたのであり、それでそれは直接天界との交流を生み出します。』

 

 

5.歓喜と祝福とが、ましてその人間がその内意に含まれている事柄について何かを把握するとき流れ入ってくるのである

 

天界の秘義4027[2]

 

仁慈の情愛の中にいる者たちの場合は非常に異なっている。これらの者はこのような事柄を歓ぶのである、なぜなら彼らのもとにいる天使たちはその人間がそれらの事柄の中にいる時その幸福の中にいるからである、なぜなら彼らはそのとき彼らがその中に存在している主を取り扱っている事柄の中にいるのであり、また隣人とその再生とを取り扱っている事柄の中にいるからである。その天使たちから(すなわち主からその天使たちを通して)歓喜と祝福とが、仁慈の情愛の中にいる人間のもとへ(その人間が)これらの事柄を読んでいる間に流れ入ってくるのであり、とくにその人間が聖いものがそれらのものの中に在ると信じるとき流れ入ってくるのであり、ましてその人間がその内意に含まれている事柄について何かを把握するとき流れ入ってくるのである。

 

 

 

天界の秘義1096[3]

 

天的なものは主と隣人とに対する愛である。愛がないところには、関連は破られて主は現存されない。なぜなら主は専ら天的なものを通して、すなわち、愛を通して流れ入られるからである。天的なものが存在しないときは、霊的なものは決して在りえない。なぜなら霊的なものはことごとく天的なものを通して主から発しているからである。霊的なものは信仰であり、それゆえ信仰は主から仁慈を、または愛を通して発しない限り、信仰は存在しない。自然的なものもそれに類似している。

 

 

霊界日記2185

 

 彼らは、今私と話しているため、以下のように言ったのである、すなわち、自分たちは、あなたが書いた事柄は極めて粗雑なものであるため、その言葉からは、またはその言葉の単なる意味からは内的なものは何一つ理解されることはできない、と考えている、と。私もまた、それがそうしたものであり、それで私の表現は極めて粗雑なものであることを認めたため、それで私は以下のように答えることを与えられたのである、すなわち、私の言葉は、恰も文字の意義のように、その中に純粋な、さらに善い、また内的な事柄が注ぎ入れられることができる器に過ぎない、こうした器は、いわば、予言者たちの書の多くの文字の意義であり、その表現は粗野であるのみでなく、ぬかるみ、糞の山、泥にすら境を接してはいるものの、それでもその中には内的な、清い、神聖な事柄が散布されているのである、例えば、主は怒られる、主は憤怒に満たされたもう、主は殺される、といった表現であるが、こうした表現は極めて粗雑に組み立てられているため、その中へ何か善いものが些かでも注ぎ入れられることが出来るとは殆ど信じられることは出来ないものの、それでもその予言者たちは一般の民衆に把握されるように語ったのであり、彼らがもし他の表現を用いて話したなら、それは理解されはしなかったため、善いものは何一つ注ぎ込まれることは出来なかったのである。それで以下のように附言することを与えられた、もし彼らが文字の意義にとどまろうとするなら、彼らは同じような汚れた物と器からその知識を組み立てたであろうし、そこからその教義を引き出す者らは非常に欺かれるに違いないのである、と。1748年[60歳]6月4日。

 

 

 

天界の秘義1929

 

 これらの事柄が『エホバの天使が荒地の水の泉のそばに、シルに行く道の泉のそばにハガルを見つけたこと』により意味されていることは文字の意義からは決して明らかになることはできず、ましてそれが歴史的なものであるからにはなおさらのことである、なぜならその文字の意義はそうした事柄を意味することからは極めて隔っているもののようにみえるからである。しかしそれでもそれが、こうした事柄が人間に読まれているとき、天使たちの観念[考え]の中に入ってくる意味なのである、なぜなら天使たちはハガルも、水の泉も、荒地も、道も、シルも何ら考えはしないからである。こうしたものは一つとして天使たちには浸透しないで、最初の入口で死滅してしまうのである。しかし『ハガル』により、『泉』により、『荒地』により、『道』により、『シル』により意味されていることは、彼らは理解して、それによって天界的な観念[天界の考え]を形作り、そのようにして主の聖言を認めるのである。なぜなら内意が彼らには聖言であるからである。

 

 

 

天界の秘義3423

 

『かれらは他の井戸を掘った、かれらはそれについてもまた争った』は、聖言の内意を、それが存在しているか否かについて、を意味し、

 

 

天界の秘義3464

 

「その掘った井戸について(それを)彼に示した、彼らは言った、私たちは水を見つけました」。これはこれらのものによる内的な諸真理を意味していることは以下から明白である、すなわち『井戸』の意義は聖言であり(3424番)、『水』の意義は真理であり(2702番)、すなわち、聖言から発している真理であり、かくて『彼らの掘った井戸について(それを)彼に示す』ことは、彼らが教義的なものを得た源泉である聖言について、を意味し、『彼らは言った、私たちは水を見つけました』は、それらのものの中に、すなわち、教義的な事柄の中に内的な諸真理が在ったことを意味している。 なぜなら前に言ったように聖言の文字の意義は水をたたえた井戸のようなものであるため、文字の意義から引き出される凡ゆる教義的な事柄の中には内的な真理が存在しているからである、なぜなら聖言の各々の物と凡ゆる物の中には[聖言の一切のものの中には]内意が在り、内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在るからである。

 

 

6.内意は、これまで示してきたように、単に外なる意味の中に隠れているかの意味のみではなく、多くの記事の文字の意義が正しく対照される際、そこから生まれてくるもの

 

天界の秘義7233[3]

 

 霊的な教会の実情はそうしたものであるため、大半の人物のもとでは信仰が教会の本質的なものとなっており、また彼らは仁慈の教義を何ら持っていないことも怪しむに足りないのである。彼らの教義的なものはそれが聖言から発しているということによっては神的な真理とはならないのである、なぜなら聖言の文字の意義からはいかような教義的なものでも孵化されることが出来、欲念に媚びるものは容易に学ばれることができるのであり、かくてまた、ユダヤ人、ソツニウス主義者、その他多くの者の教義的な事柄の場合のように、誤ったものも真のものとして考えられることができるからである。が、もし教義が内意から形作られるならそのようなことはないのである。内意は、これまで示してきたように、単に外なる意味の中に隠れているかの意味のみではなく、多くの記事の文字の意義が正しく対照される際、そこから生まれてくるものであり、それは主により己が知的なものを明るくされている者たちによって識別されるものである。なぜなら明るくされている知的なものは真の真理そのものについては判断を下さないにしても外観的な真理と真の真理とを、特に誤謬と真理とを区別するからである。しかし知的なものは、主に対する愛と隣人に対する仁慈とが教会の主要な、本質的なものであると信じられない限り明るくされることは出来ないのである。これらのものを承認してそこから進む者は、もしその者自身がそれらのものの中に止まりさえするなら、無数の真理を認めるのであり、否、彼は非常に多くの秘義が自らに明らかに示されるのを認めるのであるが、そのことは主から明るくされている度に応じて内的に承認することから発しているのである。

 

 

7.その展開は一瞬にして行われる、従ってその(天使たちと)共になることもまた一瞬にして行われる

 

聖書63

 

 文字の意義によって天界の天使たちと共になることができる理由は、その中に霊的な意義と天的な意義とが在って、天使たちはその(二つの)意義の中にいるということである。すなわち霊的王国の天使たちは聖言の霊的意義の中に、天的王国の天使たちはその天的意義の中にいるということである。これらの意義は、文字の意義である聖言の自然的な意義から、真の人間がその意義の中に止まっている間に、(天使たちにより)展開されるのである。その展開は一瞬にして行われる、従ってその(天使たちと)共になることもまた一瞬にして行われる。

 

 

8.主がそのとき話された一切の事柄は聖言である神の真理であられた

 

黙示録講解1071[3]

 

再生した人間については、その者はその者自身の真理とその者自身の善であると言われることが出来るように、人間としての主については、主はそれ自体または神の真理であられ、善それ自体または神の善であられる、と言われることが出来るのである。この凡ては以下の真理を明白にするのである、すなわち、主が世におけるその人間的なものの方面では神の真理、聖言であられたのであり、主がそのとき話された一切の事柄は聖言である神の真理であられたのであり、後に主が父の御許へ行かれたとき、すなわち、父と一つのものとなられたとき、主から発出している神の真理は真理の霊であり、それは主から出て行き、発出しており、同時に主の中に在す父から出て行き、発出しているのである。

 

 

天界の秘義9818[13]

 

 『霊』により人間に関連して意味されていることが知られるとき、『御霊[霊]』により、それがエホバ、または主について言われているとき、意味されていることを知ることができよう、エホバまたは主には人間に属した事柄が凡て帰せられており、例えば顔、目、耳、腕、手、または心臓[心情]、霊魂[魂]が帰せられ、かくてまた『霊[御霊]』が帰せられ、それは聖言では『神の霊』、『エホバの霊』、『その御口の霊』、『聖い霊』、または『聖霊』と呼ばれている。『霊[御霊]』により主から発出している神的な真理が意味されていることは聖言の多くの記事から明白である。主から発出している神的な真理が『神の霊』により意味されている理由は、人間の生命全体はそこから発しており、この神的な真理と信仰と愛とをもって受け入れる者たちは天界の生命を得るということである。これが『神の霊』であることを主御自身ヨハネ伝に教えられている―

 

  わたしがあなたたちに話す言葉は霊であり、生命である(6・63)。

 

 『主が話された言葉』は神的な真理[神の真理]である。

 

 

 

 

真の基督教139

 

主は真理そのものにて在し給う故、彼から発するものは凡て真理である。

 

 

真の基督教347

 

主の御言は凡て真理である。

 

 

 

 

9.何ものもそのもの自身から存在しないで、そのもの自身よりも先に在るものから存在し

 

天界と地獄304 注1


「何ものもそのもの自身から存在しないで、そのもの自身よりも先に在るものから存在し、かくて凡ゆる物は「最初のもの」から存在し、また凡ゆる物の存在の根源である「かれ」から存続しており、そして存続することは不断に存在することである。」

「内的な物は継続的な秩序をもって外なる物の中へ、最も外なるもの、または究極的なものの中へすら流れ入って、そこにまた存在し、存続している。」

 

 

10.もし人間がそうした意義があることを知り、聖言を読むとき、その知識から考えるなら、彼は内的な知恵に入り、さらに天界と連結するであろう

 

天界と地獄310

 

彼らはまた言った、もし人間がそうした意義があることを知り、聖言を読むとき、その知識から考えるなら、彼は内的な知恵に入り、さらに天界と連結するであろう、なぜなら彼はそのことにより天使たちの考えに似た考えに入るからである、と。

 

 

11.聖言の神的なものはその内なる霊的な意義の中に在る

 

白馬9

 

聖言の神的なものはその内なる霊的な意義の中に在るにも拘らず、何人もそれが何処に宿っているかを知らず、その内意または霊的な意義の存在することさえ現今では知られていない(2980、4989)。聖言の神秘的な内容はその内意または霊的な意義以外のものではなく、それは主、主の人間性の栄化、その王国、教会を取扱っていて、世の自然的な物は取扱ってはいない(4922)。

 

 

12.聖言は(人が)聖言を通して天界と連なり、また連結するためにはそれ以外の文体で記されることはできなかった

 

白馬12

 

聖言は(人が)聖言を通して天界と連なり、また連結するためにはそれ以外の文体で記されることはできなかった(2899、6943、9481)。

 

 

13.聖言は真理を意味している。それは教義を意味している

 

白馬17

 

聖言は真理を意味している(4692、5075)。それは教義を意味している(1288)。十の聖言は神的真理の凡てを意味している(10688)。

 

 

14.何れが聖言の書物であるか

 

白馬16

 

「何れが聖言の書物であるか」。聖言の書物は内意を持つ凡てのものである、しかし内意を持たないものは聖言ではない。旧約聖書の聖言の書物は、モーゼの五書、ヨシュア記、士師記、サムエル前後書、列王記上下、ダビデの詩篇、イザヤ書、エレミア書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホゼア書、ヨエル書、アモス書、オバデア書、ヨナ書、ミカ書、ナオム書、ハバクク書、ゼパニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書である。新約聖書では、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の四福音書と黙示録である。その他の書物には内意はない(10325)。

ヨブ記は古代の書で、実際内意を含んでいるが、しかしそれは連続していない(3570、9942)。

 

 

新しいエルサレムの教義266

 

「聖言の書は何であるか」

 

聖言の書は内なる意義をもったものすべてであるが、しかし内なる意義をもたないものは聖言ではない。聖言の書は、旧約聖書では、モーセの五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記前後書、列王記略上下、ダビデの詩篇、予言者イザヤ、エレミア、哀歌、エゼキエル、ダニエル、ホゼア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナオム、ハバクク、ゼパ二ア、ハガイ、ゼカリア、マラキであり、新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書と黙示録である。他は内なる意義をもっていない(10325)。

 

 

 

 

15.一つの霊的な観念は多くの天的な観念が含まれている

 

 

真の基督教280

 

それは私は一つの自然的な観念の中には多くの霊的な観念が含まれており、一つの霊的な観念は多くの天的な観念が含まれていることを認めるからです。このことから、分析されるものは益々単純になるのではなくて、益々複雑になることが推論されます。それは、それが凡ゆる物を無限に含んでいる無限なるものに益々近づくからです。

 

 

 

霊界日記2270

 

 彼らは特に主の聖言の中に書かれている事柄の霊感のいかようなものであるかを認めた、なぜなら今やそれがいかようにして起るかが彼らに明らかになり、また私により書かれた事柄の中へ、実に、意義の中へのみでなく、一つ一つの言葉と言葉の意義の中へすらも、いかような能力が流れ入るかが彼らに明らかになったからであり、実に、恰も或る者たちが私の手をつかんで、書いているのは自分であると考えながらも書いているかのようにも彼らには思われたのである。そのこともまた霊的な観念により認めることが私に与えられたのであり、実に、書かれた小さな文字の各々の最も単一な観念の中にすら在ったものを前以て、謂わば、感じることが与えられたのであり、そこから、主の聖言はその文字の各々ですら霊感を受けている〔吹き込まれている〕ことが白日の下に置かれているようにも明らかである。1748年〔60歳〕6月10日

 

 

 

 

16.言の凡ての物の中に、またその一つ一つの物の中に、自然的な意義に相応する霊的な意義があり、この意義によって聖言は教会の人々を主と結合させ、また天使達と連ねさせる

 

 

真の基督教846

 

霊の中に私は嘗て天界の諸々の社会の一つへ挙げられると直ちに彼処の賢人達の一人が私の許に来て語った、「地から何か変った知らせがありましょうか」私は答えた、「主はこれまで教会に啓示されたどのような秘義にも優った秘義を啓示し給うたことです。」「それは何ですか」と彼らは尋ねた。で私は以下のように答えた。

(1)言の凡ての物の中に、またその一つ一つの物の中に、自然的な意義に相応する霊的な意義があり、この意義によって聖言は教会の人々を主と結合させ、また天使達と連ねさせます。聖言の聖さはこの意義の中に宿っています。

(2)「聖言の霊的な意義を構成する相応は今や示されました!」「然し」と天使達は尋ねた、「地上の人々は相応については何事も知らなかったのですか。」「何事も知りません」と、私は答えた、「何故ならそれは実にヨブの時代からこの方数千年同隠されていたのです。その当時とその以前に生活していた人々にとっては相応の科学は科学中の科学であり、彼らはそこから天界と教会の霊的な事柄に関する知恵と知識とを取得致しました。然し相応の科学は偶像崇拝に堕落した為、主の神的摂理によりそれは如何なる痕跡を見出すことが出来ないまでに抹殺され破壊されました。然し教会の会員達が主と結合し、天使達と連なるために、それは再び主によって啓示されたのです。これは聖言によって行われたのであり、その聖言の凡ての物は全般的にまた個別的に相応であります。天使達は数千年間かくも深く隠されていたこの偉大な真理を主が啓示することを良しとし給うた事を喜んだ。 聖言に基礎づけられ、今やその終りに在る基督教会が再び生き、その霊を主により天界を通して新たにするためにそのことが行われたのであると彼らは語った。また彼らは洗礼と聖餐との真の意義に就いて種々の見解が在るが、その洗礼と聖餐との相応が今や明らかにされたであろうかと尋ねた。私は明らかにされたと答えた。

 

 

 

 

 

 

 

17.内意が彼らには聖言

 

 

天界の秘義1929

 

 これらの事柄が『エホバの天使が荒地の水の泉のそばに、シルに行く道の泉のそばにハガルを見つけたこと』により意味されていることは文字の意義からは決して明らかになることはできず、ましてそれが歴史的なものであるからにはなおさらのことである、なぜならその文字の意義はそうした事柄を意味することからは極めて隔っているもののようにみえるからである。しかしそれでもそれが、こうした事柄が人間に読まれているとき、天使たちの観念[考え]の中に入ってくる意味なのである、なぜなら天使たちはハガルも、水の泉も、荒地も、道も、シルも何ら考えはしないからである。こうしたものは一つとして天使たちには浸透しないで、最初の入口で死滅してしまうのである。しかし『ハガル』により、『泉』により、『荒地』により、『道』により、『シル』により意味されていることは、彼らは理解して、それによって天界的な観念[天界の考え]を形作り、そのようにして主の聖言を認めるのである。なぜなら内意が彼らには聖言であるからである。

 

 

 

天界の秘義4027[3]

 

天使たちは―かれらは聖言の内意におり、またかれらには内意が聖言となっているため―

 

 

 

 

天界の秘義3954

 

その文字の意義が天界に向って上昇し、かくてその考えることが主から発しまた主と主にぞくしているものとにかかわるものである領域に入ると、それはついには天使たちによりそのように認められるのである、なぜなら内意が天使たちには聖言であり、内意に対し文字の意義は考える面または手段として役立っているからである。なぜなら文字の意義は大半の所で世的な、地的な、形体的な事柄をとり扱っており、そのことを天使たちは、かれらは霊的なものと天的なものとの中におり、かくて地的なもののはるか上方にいるため、考えることはできないため、それは天使たちには達することはできないからである。そうした理由から人間に仕えると同時に天使にも仕えることができるところの聖言が与えられているのである。このことにおいて聖言は他の凡ゆる文書とは異なっているのである。

 

 

 

 

18.その内意が彼らには聖言そのものであった

 

 

天界の秘義3432[2]

 

 聖言については実情は以下のようになっている、すなわち、天的な教会が存在した最古代には聖言は存在しなかったのである、それはその教会の人々は心に聖言を刻み付けられていたためである、なぜなら主は天界から直接に彼らに何が善であるかを教えられ、またそこから何が真であるかを教えられて、彼らに愛と仁慈から認めさせもされ、また啓示から知らされもしたからである。彼らには聖言そのものが主であったのである。この教会の後に、天的なものではなくて、霊的なものである他の教会が続いたが、最初この教会は最古代の人々から集められた聖言以外の聖言を持っていなかったのであり、その聖言は主を表象し、主の王国を意味するものであり、かくてその内意が彼らには聖言そのものであったのである。(彼らはまた、今は最早存在していないが、歴史的なものでもあり、予言的なものでもあったところの、書かれた聖言を持っていたこと、その中には同じように主に関わりのある内意が在ったことは、前の2686番に見ることが出来よう)。ここから教会の中では神的な事柄について、教会の外では他の事柄について表象的なものと表意的なものとにより話しもし、書きもすることが当時の知恵となったが、そのことは私たちのもとに残っているその古代の人々の書いたものから明白である。しかし時が経つにつれこの知恵は滅んでしまって、遂には彼らは聖言の書にすら何らかの内意が在ることを知らない程にもなったのである。ユダヤ民族とイスラエル民族とはここに言及された性格を持っていて、予言的な聖言をそれが古代の響きをもっているという事実から聖いものと考えて、エホバの御名を文字の意義で聞きはしたが、神的なものが何かその中に深く隠れていることは信じなかったのであり、基督教世界もまたそれ以上恭々しくは聖言を考えはしないのである。

 

 

 

 

19.聖言の各々の物と凡ゆる物の中には[聖言の一切のものの中には]内意が在り、内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在る

 

 

天界の秘義3464

「その掘った井戸について(それを)かれに示した、かれらは言った、私たちは水を見つけました」(創世記26・32)。これはこれらのものによる内的な諸真理を意味していることは以下から明白である、すなわち『井戸』の意義は聖言であり(3424番)、『水』の意義は真理であり(2702番)、すなわち、聖言から発している真理であり、かくて『かれらの掘った井戸について(それを)かれに示す』ことは、かれらが教義的なものを得た源泉である聖言について、を意味し、『かれらは言った、私たちは水を見つけました』は、それらのものの中に、すなわち、教義的な事柄の中に内的な諸真理が在ったことを意味している。 なぜなら前に言ったように聖言の文字の意義は水をたたえた井戸のようなものであるため、文字の意義から引き出される凡ゆる教義的な事柄の中には内的な真理が存在しているからである、なぜなら聖言の各々の物と凡ゆる物の中には[聖言の一切のものの中には]内意が在り、内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在るからである。