ソツニウス派

 

 

 

1.当時もし3人格の三一性が受け入れられなかったら、彼はアリウス派の者か、またソツニウス派の者か、その何れかの者となり

2.その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し

3.教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そうした信念を確認した者らは天界の外にいる

4.(主の神的なものを)心情の中で否定することは赦されはしないのである、なぜならそうした者らは、ソツニウス派の者ら凡ての者のように、天界に入ることは出来ない

 

 

 

 

1.当時もし3人格の三一性が受け入れられなかったら、彼はアリウス派の者か、またソツニウス派の者か、その何れかの者となり

 

 

黙示録講解1109〔2〕

 

3人格に代わって三一性が内に存在している一人格が理解され、主がその人格であられることが信じられるとき、三一性にかかわる、また主にかかわるアタナシウスの教義の一切のものは真理であり、調和したものであることは、神的摂理[神の摂理]から発したのであった。なぜなら、当時もし3人格の三一性が受け入れられなかったら、彼はアリウス派の者か、またソツニウス派の者か、その何れかの者となり、従って主は単なる人間として承認されて、神としては承認されはしなかったであろう、そしてこのことによりキリスト教会は破壊され、天界は教会の人間に閉じられてしまったであろう。(中略)

 

 

 

 

2.その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し

 

 

真の基督教94

 

主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言の中に神の子として語られていることが凡て失われたということである。その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し、遂には唯物主義が起り、それとともに彼はヨセフによりマリアの子であった、その霊魂は母から来た、それ故彼は神の子と呼ばれているが、実際はそうでないとの確信が起って来たのである。教職のみならず、平信徒も、マリアの子として考えられている主を単なる人間の子として考えていないかを反省されたい。このような考えはアリウスの教説が生まれた三世紀に既に基督教徒の間に流布していたので、ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案したのである。しかしこの考案によって当時主の人間性は実に神性に高められたし、今もなお多くの人々の間にそのように高められてはいるが、しかも、なおそれは、かの所謂実体結合説によって、その中の一人が他の一人よりも優れている所の二人の人間の間にあるような結合を理解している人々の間では高められてはいない。しかしこのことから生まれるものは単に人間性におけるエホバを礼拝することにのみ、すなわち、神人を礼拝することにのみ基礎づけられている全基督教会の全面的な破壊でなくて何であろうか。

 

何人も、主によって多くの箇所で宣言されているように、父の人間性によらなくては父を見或は彼を知り或は彼に来り、或は彼を信ずることは出来ない。もしこの宣言が無視されるならば、教会の高貴な種子は凡て卑賤なものにされてしまう、橄欖の種子は松のそれとなり、蜜柑、シトロン、林檎、梨の種子は、柳、楡、菩提樹、樫の木のそれとなり、葡萄は蘆に変わり、小麦と大麦とは籾殻となる。実に、霊的な食物は凡て塵の如くになり、単に蛇の食物にのみ適しくなるのである、何故なら人間における霊的な光は自然的なものとなり、遂には物質的な感覚的なものとなり、その物質的感覚的なものは本質的には人を欺き迷わす光であるからである。事実、人間はその時飛ぼうと試みても翼が切られていて地面に落ち、歩き回っても単に足許の物のみしか目に入らぬ鳥のようになり、己が永遠の生命に関する教会の凡ての霊的なものについては、占い師が考えるようなことを考えるのである。凡てこうした事柄は人間が主なる神、贖罪者、救い主を単にマリアの子として、換言すれば単なる人間として見なす時、必然的に生まれるに違いない。

 

 

 

 

3.教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そうした信念を確認した者らは天界の外にいる

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。

 

 

 

 

4.(主の神的なものを)心情の中で否定することは赦されはしないのである、なぜならそうした者らは、ソツニウス派の者ら凡ての者のように、天界に入ることは出来ない

 

 

聖霊について(アタナシウス信条についてに併録P100)

 

「聖霊に反抗する罪は主の神的なものを否定することである(マタイ12・28、32、マルコ3・28、29、ルカ11・20など)。このことは前に言われていることから明白である。彼らは主は『魔鬼の頭により』魔鬼どもを追い出したのである、と言ったが、主はわたしは『神の霊により』、即ち、主御自身の神的なものによりそれを追い出したのである、と言われたのである。心情の中で否定することは赦されはしないのである、なぜならそうした者らは、ソツニウス派の者ら凡ての者のように、天界に入ることは出来ないからである。

 教会内にいて、主の神的なもの[神性]を否定し、父なる神のみを承認する者らもまた救われることは出来ない。彼らの中非常に多くの者は自然を承認しており、それで彼らは神的なものを自然の最小部分としてしか考えない。彼らは主に向くことは出来ないのであり、世を求める愛へ向く理由を述べることにしよう。」