創世記19章

 

 

天界の秘義2310

 

 聖言の内意はすでに幾度も取り扱ったが、しかし僅かな者しか聖言の凡ゆるものの中に、単にその予言的な部分のみでなく、その歴史的な部分の中にも、このような意義があることを信じることが出来ないことを私は知っている。その予言的な部分の中にはこのような意義があることはもっと容易に信じることが出来よう、なぜならその中にはあまり関連していない一連の事柄があり、またその中には異様な表現があって、そこからたれでもその中には何か秘められた意義があることを推測することが出来るからである。しかし歴史的な部分にもまたこのような意義があることはそれ程容易に明らかではない、それらはこれまでこのようなことは何人の心にも浮かばなかったためであり、また歴史的な部分は注意をその部分自身に引き付け、そのことにより更に深い性質のものがそこに貯えられていることを考えさせないようにそこから心を引き離してしまうためでもあり、また歴史的なものは真に述べられているようなものであるためである。

 

 

天界の秘義2310〔2〕

 

 それでもたれ一人聖言のこれらの部分にもまた天的な神的なものであるが、しかし前面に輝き出ていないものがあることを以下の事実から推理出来ない筈はないのである、すなわち、先ず聖言は主により天界を経て人間に送られたものであり、それでその起原は異なっているという事実から推測出来ない筈はない(そしてこの起原の性質はいかようなものであるか、またそれは文字の意義からは非常に異なり、また隔たってもいて、単に世的な者らによっては認められさえもしないし、従って承認はされはしないことは以下の記事の多くのものから示されるであろう)。

 また第二には聖言は神的なものであって、それは人類に役立つのみでなく、また天界にも役立つために、人間のためにのみ書かれたのではなく、人間のもとにいる天使たちのためにも書かれており、かくて聖言は天と地とを結合する媒介〔手段〕であるという事実から推測することが出来よう。この結合は教会により、事実は教会の中にある聖言により起こっており、それで聖言はそうした理由からそのあるがままのものとなっていて、他のすべての文章からは区別されているのである。

 

 

天界の秘義2310〔3〕

 

 特に歴史的な部分については、その中に同じように文字から抽象された意義における神的な天界的なものが含まれていない限り、その歴史的なものは、深く考える者によっては、その一点に至るまでもことごとく、霊感を受けた聖言であるとは決して承認されることは出来ないであろう。たれが本章の終わりに取り扱われているロトの娘たちの忌まわしい事件が(もしそこに神的な天界的なものが含まれていないなら)神的な聖言の中に記されると考えるであろうか、またはヤコブがその羊が色の混じり合った、斑点のある子供を生むようにと、枝の皮を剥いで、白いところを見せ、それを水おけの中に置いたということが、さらに自余のモーセの書とヨシュア記と士師記とサムエル書と列王記にある他の多くの事柄がその聖言の中に記されると考えるであろうか、もしそうしたものの中の深い所に秘かな神的な意義が含まれていない限り、それらは何ら重要なものではないのであり、またそうしたものについてはそれが(人に)知られようが、知られまいが、それはどちらでもよいこととなるであろう。もしそうした秘かな神的な意義が無いならば、それらは他の歴史的な物語りとはいかような点でも異なってはいないのである、なぜならその物語りは時としてはそのように記されてさらに効果的にも見えるからである。

 

 

天界の秘義2310〔4〕

 

 学界は聖言の歴史的な部分の中にさえも神的な天的なものが隠れているという事実を知らないため、子供の頃から彼らの心に印象づけられている聖言の書に対する聖い尊崇の念がないなら、彼らは即座にその心の中で聖言はただその事実によらない限り聖いものではないと言うであろうが、それでも聖言はそのことから聖いのではなく、その中には天的な神的なものである内意があるために聖いのであり、その内意のために聖言は天界を地に、すなわち、天使の心を人間の心に結合させ、かくしてこの後のものを主に結合させているのである。

 

 

天界の秘義2311

 

 聖言はこうした性質を持っており、そうした点ですべての他の書から区別されていることはまた以下の事実からも認めることが出来よう、すなわち、名はことごとく(前の1224、1264、1876、1888番に示したように)実際の事柄を意味しているのみでなく、凡ゆる言葉にも霊的な意義があり、かくてそれらはそれらが地で意味しているものとは異なった事柄を天界では意味しており、しかもそのことはその予言的な部分の中でも、歴史的な部分の中でも極めて不断に行われているのである。これらの名前と言葉とが聖言全体におけるその一定した意義に従ってその天界的意義において示されるとき天使の聖言である内意が現れてくるのである。聖言のこの二重の意義は身体と霊魂のようなものであって、身体は霊魂によって生きているように、文字の意義は内意により生きているのである。聖言を読んでいる者の情愛に順応して、主の生命は内意を通して文字の意義に流れ入ってくるのである。ここから、聖言はたとえ世俗の者にはそのようには見えないものの、それは如何に聖いものであるかが明白である。

 

 

天界の秘義2312

 

 本章には、その内意には、『ロト』により、仁慈の善の中にはいるが、外なる礼拝の中にいる霊的な教会の状態が、すなわち、それが時の経過につれていかように衰退して行くかが記されている。

 

 

天界の秘義2313

 

 その教会の最初の状態が記されている、すなわち、彼らは仁慈の善の中にいて、主を承認しており、主から彼らは善を確認し(1節から3節まで)、救われることが記されている(12節)。(次に)第二の状態が記されている、すなわち、彼らのもとに諸々の悪が善に反抗し始めるが、しかし彼らは主により力強く幾多の悪から遠ざけられて、幾多の善の中に留められることが記されている(14節から16節まで)。彼らの弱点が記されている(17節)、彼らは救われる(19節)。(次に)第三の状態が記されている、すなわち彼らはもはや善の情愛からは考え、行動はしないで、真理の情愛から考え、行動し(18節から20節まで)、彼らは救われることが記されている(23節)。

(次に)第四の状態が記されている、すなわち、真理の情愛が死滅し、そのことがロトの妻が塩の柱になることであることが記されている(26節)。(次に)第五の状態が記されている、すなわち、不潔な善または誤謬の善がそれに続いて起ってきて、それが山の洞窟の中のロトであることが記されている(30節)。8(次に)第六の状態が記されている、すなわち、この善でさえもさらに不善化され、誤謬化され(31節から33節まで)、真理もそれと同じようなものになったことが記されている(34、35節)。そこから教会に似たものがみごもり、生まれてきて、その教会の善と呼ばれているものは『モアブ』であり、その教会の同じく真理と呼ばれているものはアンモンの息子であることが記されている(36節から38節まで)。

 

 

天界の秘義2314

 

 さらに、内意では、『ソドムの住民』により、その同じ教会の中にいて、仁慈の善に反抗する者らの状態が記され、また時の経過につれて、悪と誤謬とがいかようにして彼らのもとに増大し、ついには彼らは悪と誤謬以外には何ものも持たなくなるかが記されている。

 

 

天界の秘義2315

 

 その者らの第一の状態が、すなわち、彼らは仁慈の善と主とに反抗することが記されている(4,5節)。彼らの第二の状態が、すなわち、彼らは仁慈の善について、また彼らが享受するに違いないその善の幾多の情愛の歓喜について知らせられるものの、頑迷であって、善を斥けてしまうことが記されている(6節から8節まで)。彼らもまた仁慈の善そのものを破壊しようと努めるが、しかし主はそれを庇護されている(9、10節)。次に第三の状態が、すなわち、ついには彼らは真理と善とを見ることすら出来なくなり、ましてや真理は善に導くことは認めることは出来ないといった者になることが記されている(11節)。彼らは悪と誤謬にとりつかれ、かくて死滅しないわけにはいかないことが記されている(13節)。次に第四の状態が、すなわち、彼らの滅亡が(24節)、また善と真理とはことごとく彼らから分離してしまうことが記されている(25節)。

 

 

天界の秘義2316

 

 善い者たちは悪い者らから分離され、善い者は、神的なものにされた主の人間的なものを通して救われることが記されている(27節から29節まで)。

 

 

天界の秘義2317 (エホバの天使 参照)

 

 

天界の秘義2318

 

「その二人の天使は夕にソドムへ来た」。これは審判に先行している巡視〔尋問〕を意味していることは、前の章に、三人の者によりまたはエホバにより言われた事柄から、またこの章に続いて記されている事柄から認められることが出来るが、同じく『夕』の意義からも認められることが出来るのである。前章にエホバは『わたしたちは降って、ソドムとゴモラの民がわたしのもとに聞こえてきた叫び声に従って終局に至ったか否かを見よう、もしそこに至っていないなら、わたしは知るであろう』(20、21節)と言われたが、その言葉によりそこに示されたように、審判に先行している巡視〔尋問〕が意味されているのである。この章にはその尋問の行為そのものが記され、次に審判が記されており、そのことは以下の記事から明白である。『夕』は巡視〔尋問〕のときを意味していることは以下の記事に見られるであろう。(尋問の何であるか、尋問は審判に先行していることは、前の2242番に見られるであろう)。前の章は人類の歪められた状態を、悪の中にいたものの、それでも何らかの善と真理の中にいた者たちに対する主の悲哀と執成しとを取り扱ったものであり、それでこの章は、それに続いて、何らかの善と真理の中にいる者たちの救いを取り扱っており、この章に『ロト』により表象されているものはそうした者たちである。同時にまた全く悪と誤謬の中にいる者らの破滅〔死滅〕が取扱われており、ここに『ソドムとゴモラ』により意味されている者はこれらの者である。

 

 

天界の秘義2319

 

「二人の天使」。 これらは主の神的な人間的なものと発出している聖いものを―それに審判が属している―意味していることは、聖言における『天使』の意義からも、また『二人の』天使がいたと言われていることからも明白である。聖言には『天使』は主における何らかの神的な本質的なものを意味していることは、またその本質的なものの何であるかは、その前後の連続した記事から認められることは前に示しておいた(1925番)。彼らはここでは主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを意味していることは、アブラハムとともにいた『三人の者』により主の神的なものそのものと神的な人間的なものと発出している聖いものが意味されたという事実から明白であり(2149、2156、2288番)、このことから、またその天使たちが『エホバ』と呼ばれているという事実から(24節)、また『天使』の意義からも(1925番)、その『二人の天使』によりここに主の神的な人間的なものと発出している聖いものとが意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義2320 (エホバの天使 ご参考)

 

 

天界の秘義2334

 

「彼らは言った、否」。これは普通に試練に伴っている疑惑を意味していることは、彼らが拒絶しつつも彼の家に入って行ったことから認めることが出来よう。試練にはことごとく主の現存[臨在]と慈悲について、また救いといった事柄について多少の疑惑がもたれるのである、なぜなら試練の中にいる者は内的な不安の中にいて、絶望にすら陥るからである、その中にかれらの大半が留めおかれるのは彼らがついには以下の事実を確認するためである、すなわち、凡ゆるものは主の慈悲から発しており、彼らは主のみにより救われるのであり、彼ら自身には悪以外には何ものも存在していないということであり、そのことを彼らは試練により、すなわち、その中で征服することにより確認するのである。試練の後でその試練から真理と善の多くの状態が残り、その状態へ彼らの思いがその後主によりたわめられる[向けられる]のであるが、もしそうでないならその思いは狂った事柄に突入して、その心を真で善いものに対立したものへ引きずり込んでしまうのである。

 

 

天界の秘義2338

 

「彼は激しく彼らをうながした」。 これは人間が征服する〔打ち勝つ〕時の試練の状態を意味していることは、試練の中におかれた者によらなくては認められることは出来ない。前に言ったように、試練においては主の現存〔臨在〕と慈悲とにかかわる、また救いにかかわる疑惑が伴うのである。そのときその人間と共にいて、試練をもたらしてくる悪霊らは否定の念を強力に吹き込むが、しかし主から来ている善良な霊たちと天使たちとは凡ゆる手段を尽くしてこの疑惑の状態を吹き払って、その人間を希望の状態の中に留め、ついには彼に肯定的なものを確認させるのである。その結果試練の中にいる者は否定的なものと肯定的なものとの間につり下げられるのである。試練において屈服する者は疑惑の状態の中に止まって、否定的なものへ陥ってしまうが、しかし征服する者は実際疑惑の中にはいるが、しかしそれでも、もし彼が自分自身が希望により元気づけられるのを許すなら、肯定的なものの中に堅く立つのである。この争闘の間でその人間は、特に祈りにより、主が臨在されて、憐れみをたれ、助けを与え、堕地獄の状態から救い出して下さるようにと、主に強要する〔強いる、促す〕ように見えるため、それで私たちが今取り扱っている記事におけるように、教会の人間となりつつある者たちの試練が取扱われているところでは、これらの事柄は天使たちが先ず『いな、自分たちは夜通し街路に滞在します』と言うことにより、またロトが激しく彼らを強制してそのため彼らは彼の方へ向いて、彼の家へ来たことにより記されているのである。

 

 

天界の秘義2350

 

5節「彼らはロトに向って叫んで、彼に言った、この夜おまえのもとに来たその人間は何処にいるか、彼らを私らのもとへ連れ出せ、私らは彼らを知るであろう」。 『彼らはロトに向って、叫んで、彼に言った』は、悪から発した誤謬は善に反抗して怒るようになることを意味し、『おまえのもとに来たその人々は何処にいるか』は、主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定することを意味し、『この夜』はこれらのものがもはや承認されない最後の時を意味し、『彼らを私らのもとに連れ出せ、私らは彼らを知るであろう』は、そのとき人間はそれらのものが存在していることは誤っていることを示そうと欲するということを意味している。

 

 

天界の秘義2351

 

「彼らはロトに向って叫んで、彼に言った」。 これは悪から発した誤謬が善に反抗して怒るようになることを意味していることは、『叫ぶこと』の意義から、またロトの意義から認められることが出来、またそのことによって表明されている感情からも認められることが出来よう。『叫ぶ』という言葉は誤謬について述べられることは前に示され、(2240番)、『ロト』は善の中にいる教会の人間を表象し、かくて善そのものを表象していることは2324番に示された。このことからまたこれらの言葉の中に表現されている怒りの感情から、その言葉が悪から発した誤謬は善に反抗して怒るようになることを意味していることが明白である。誤謬には多くの種類のものがあるが、しかし全般的には二つのものがあること、すなわち、悪から生まれる誤謬と悪を生み出す誤謬とがあることは前に見ることが出来よう(1188、1212,1295、1679、2243番)。

 

 

天界の秘義2351〔2〕

 

 教会の中で、悪から発している誤謬は、特に、生命の悪を支持するものであり、たとえば以下のようなものである、すなわち、善は、すなわち、仁慈は教会の人間を作りはしない、真理が、すなわち、信仰がそれを作るのであるといったものである、また以下のようなものである。すなわち、人間は、普通死ぬ少し前に起ることではあるが、形体的なものが静められて眠っているとき、情愛をうわべに見せて、若干信仰の言葉を何か口に出しさえするなら、たとえその者は全生涯にわたっていかほど悪の中に生きていたとしても救われるといったものである。これが善に対し特に怒る誤謬であり、彼らが『ロトに向って叫んだ』により意味されているのである。怒りの原因は何らかの愛の歓喜を破壊しようと努めるもののすべてである。悪が善を攻撃するとき、それは『怒り』と呼ばれているが、しかし善が悪を非難するときは、それは『熱意』と呼ばれているのである。

 

 

天界の秘義2352

 

「おまえのもとに来たその人たちは何処にいるか」。 これは主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定することを意味していることは、(前の2320番に説明した)『二人の人間』の意義から、またこの怒りを表明しているその言葉の中にひそんでいる感情から、同じく直ぐ以下に記されていることからも明白であって、そこには『彼らを私らのもとへ引き出せ、私らは彼らを知ることが出来よう』と言われていて、そのすべては否定が含まれていることを示しているのである。(仁慈の善に反抗している者は、たとえ自己への愛と世への愛とのために口では主を告白はしているけれど、主に反抗し、主を心で否定していることは、前の2343、2349番に見ることが出来よう)。

 

 

天界の秘義2354〔2〕

 

主の神性を公然と否定した昔のパリサイ人でも、自分自身が高められるために、汚らわしい蓄財のために主を聖い態度で外面的には拝してはいるが、内的にはその汚れた状態を抱いている現今の者らの場合よりはその為す所は良かったのである。

 

 

天界の秘義2354〔3〕

 

 (幾度も前に述べたように)人間の実相はその人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいるということである。悪霊を通して彼は地獄と交流しており、天使を通して天界と交流しているのである(687、697番)。それでその者の生命〔生活〕が悪いものに接近するに比例して、益々地獄が流れ入ってくるが、その生命が善いものに接近するに比例して、益々天界が流れ入り、それで主が流れ入ってこられるのである。このことから、悪の生命の中にいる者らは主を承認することは出来ないで、主に反抗した無数のものを自分自身で形作るが、それは地獄の幾多の幻想が流れ入ってきて、その者らにより受け入れられるためである。しかし善い生命〔生活〕の中にいる者たちは主を承認するが、それは愛と仁慈がその中では主要なものとなっている天界が流れ入ってくるためであり、また天界は主のものであって、主から愛と仁慈の凡ゆるものが発生してくるためである(537、540、547、548、551、553、685、2130番を参照)。

 

 

天界の秘義2355

6、7節

『ロトは彼らのもとへ戸のところまでも行った』は彼が慎重にことに処したことを意味し、『自分の後でその戸を閉じた』は、彼らが仁慈の善に暴行を加え、また主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定しないように、を意味し、『彼は言った』は勧告を意味し、『願わくは、私の兄弟たちよ、邪悪なことはしないでください』は彼らがそれらのものに暴行を加えてはならないことを意味している。彼が彼らを『兄弟たち』と呼んでいるのは、彼が彼らに勧めをしているのは善から発しているためである。

 

 

天界の秘義2356

 

「ロトは彼らのもとへ戸のところまでも行った」。 これは彼が慎重に身を処したことを意味していることは『戸』と『戸のところへ行くこと』の内意から明白である。聖言では『戸』は真理か、善か、または主か、その何れかに導くことを、またはそこへ入れるものを意味している。ここから『戸』は真理それ自身を、善それ自身を、また主御自身を意味している、なぜなら真理は善に導き、善は主に導くからである。こうしたものが天幕の戸とベールによりまた神殿の戸とベールにより表象されたのである(2145、2152、2576番参照)。

 

 

天界の秘義2356〔2〕

 

 これが『戸』の意義であることはヨハネ伝の主の御言葉から明白である―

 

 羊のおりに戸から入らないで、何か他の道からよじ登る者、その者は盗人であり、強盗である、しかし戸から入る者は羊の羊飼いである、門番は彼に戸を開く。私は羊の戸である、もしたれでも私により入るなら、その者は救われるであろう(10・1−3、7、9)。

 

ここには『戸』は真理と善とを意味しており、それで真理それ自身であられる主を意味している。このことから戸を通って天界に入れられることにより意味されていることが明白であり、従ってその戸を開く鍵により意味されていることも明白である。

 

 

天界の秘義2356〔3〕

 

 しかし現在の場合『戸』により、その家を取り囲んでいる者らの性格に適合した或る善が意味されている、なぜなら『戸(janua)』はここでは『戸(ostium)』から区別されていて、その家の前面にあり、(そのことはロトが出て行ってその戸を彼の背後で閉ざしたという事実から明白であるが)、すぐ以下に記されていることから以下のことが明白であるからである、すなわち、問題の善は生命の祝福であって、それにより彼は誤謬と悪の中にいた者らを説得しようとしたのである、なぜならこうした者らは自分自身が善それ自身によっても説得されることを潔しとはしないで、それを斥けてしまうからである。このすべてから『戸の方へ行くこと』により、彼が慎重に身を処したことがここに意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義2357

 

「彼の後で戸を閉じた」。これは、彼らが仁慈の善に暴行を加えないように、また主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定しないように、を意味していることはすでに言ったことから明白である。現在の場合『その戸を閉じる』ことは、彼らが『家』により意味されている善に入らないように、それで主の神的なものと聖いものとに入らないように、を意味しているのである。

 

 

天界の秘義2357[2]

 

 これらの事柄にはさらに深いアルカナが含まれていて、そのアルカナの意義と観念の中へ、天使たちはこれらの言葉が読まれているとき、入ってくるのである、すなわち悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されないで、善を、また主を承認し、信じることは許されはしないのであり、それは彼らが悪の中にいる限り、それと同時に善の中にはいることが出来ないという理由によっている。たれ一人二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一度承認して、信じる者が悪の生命に帰ると、その者は善い、聖いものを冒涜するが、しかし承認はしないし、信じもしない者は冒涜することは出来ないのである。それで人間は心情の承認と信仰そのものの中へは、その者が後で留め置かれていることが出来る辺りより先へは入れられないように、主の神的な摂理により配慮が払われているが、そのことは冒涜の刑罰のためであって、その刑罰は地獄における最も痛ましいものである。

 

 

天界の秘義2357[3]

 

 これが現今愛と仁慈との善は人間における天界であり、神的なものはすべて主の中にあることを心から信じることが極めて僅かな者にしか与えられていない理由となっている、なぜなら現今人間は悪の生命の中にいるからである。それでこのことがロトが彼の後で戸を閉じたことによりさらに内的に意味されていることである。なぜならこの戸は内側の戸であってそこを通って天使たちがいた家そのものに、すなわち、主がその中におられる善の中へ入ることが出来たからである。

 

 

天界の秘義2359

 

「願わくは私の兄弟たちよ、邪悪なことはしないでください」。 これは彼らがそれらに、すなわち、仁慈の善と主の神的な人間的なものと発出している聖いものとに暴行を加えてはならないことを意味していることは『邪悪なことをすること』の意義が暴行を加えることであることから明白である。このすべてから教会の中にいる者が取り扱われており、『ソドムの男ども』により意味されている者らが彼らであることが明白である、なぜなら聖言を持っている者を除いてはたれ一人これらの聖いものに暴行を加えることが出来ないからである。これらのものが極めて聖いものであることは以下の事実から認められることが出来よう、すなわち、たれ一人愛と仁慈の善との中にいない限り、主の王国へ(すなわち天界へ)入れられることは出来ないのであり、またたれ一人主の神的なものと聖いものとを承認しない限り、愛の善と仁慈の善の中にいることは出来ないのである、なぜならこの善は主のみから流れ入っており、実に主から発している善そのものの中へ流れ入っているからである。神的なものは神的なもの以外のものへは流れ入ることは出来ないのであり、また主の神的な人間的なものとそこから派生している主の聖いものとを通さなくては人間に伝達されることも出来ないのである。このことから私たちはいかようにして主はその王国のすべてにおけるすべてのものであられるかを、また人間のもとにある善は一つとして人間のものではなくて、主のものであるかを理解することが出来るのである。

 

 

天界の秘義2360

 

 ロトが彼らを『兄弟』と呼んでいるのは、彼が彼らに勧告しているのは善から発しているためであることは、『兄弟』の意義から明白である。 聖言には『兄弟』は隣人と同じことを意味しているのは、人間はことごとく隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという理由によっており、かくて兄弟は愛から、またはそれと同一のものであるが、善からそのように呼ばれたのである。

 

 

天界の秘義2360〔5〕

 

このすべてから、ユダヤ人とイスラエル人とはすべて互に他を兄弟と呼んだが、しかし契約により結合した者たちを仲間〔連れ〕と呼んだことは明白である。それでも彼らは聖言の歴史的な世的な事柄を超えては何ごとも理解しなかったため、彼らはすべて一人の父またはアブラハムの子孫であるため互に他を兄弟と呼ぶのであると信じたが、それでも彼らは聖言ではそうした事情から『兄弟』と呼ばれたのではなく、その表象した善からそのように呼ばれたのである。『アブラハム』もまた、その内意では、愛それ自身以外には、すなわち、主以外には何ごとをも意味してはいないのであり(1893、1965、1989、2011番)、その息子たちは、従って『兄弟』である者たちは善の中にいる者たちであり、事実隣人と呼ばれているすべての者であり、このことは主がマタイ伝に教えられるところである―

 

 あなたたちの主人は一人である、すなわちキリストである、あなたたちはすべて兄弟である(23・8)。

 

 

天界の秘義2361

 

8節 「見よ、願わくは私は男を知っていない二人の娘を持っています、願わくは私にその者たちをあなた方のもとへ連れ出させてください、あなた方はその者たちにあなた方の目に良いようにすることが出来ます。ただこの人たちにはいかようなことも為さないでください。そのために彼らは私の屋根の蔭の下に来られたからです」。 『見よ、願わくは私は男を知っていない二人の娘を持っています』は善と真理との幾多の情愛を意味し、『願わくは私に彼らをあなた方のもとへ連れ出させてください』は、そこから発して来る祝福を意味し、『あなた方はあなた方の目に良いように彼らにすることが出来ます』は、彼らがそれが善から発していることを承認するに応じ楽しむことを意味し『ただこの人たちにはいかようなことも為さないでください』は、彼らは主の神的なものと発出している聖いものとに暴行を加えてはならないことを意味し、『そのために彼らは私の屋根の蔭の下に来られたからである』は彼らは仁慈の善の中にいることを意味し、『屋根の蔭に』は、彼がそれを曖昧に全般的に認識している中に、を意味している。

 

 

天界の秘義2362

 

「見よ、願わくは私には男を知っていない二人の娘がいます」。 これは善と真理との情愛を意味していることは、『娘』の意義が情愛であることから明白である(489−491番)。彼らが『男を知っていたこと』は誤謬がそれらを汚していないことを意味している、なぜなら『男』は合理的な真理を意味し、また同じくそれに対立した意義では誤謬を意味しているからである(265、749、1007番)。二つの情愛があり、すなわち、善の情愛と真理の情愛とがある(1997番)。前のものは、または、善の情愛は天的な教会を構成して、聖言では『シオンの娘』また『シオンの処女である娘』と呼ばれているが、しかし後のものは、または真理の情愛は霊的な教会を構成し、聖言では『エルサレムの娘』と呼ばれている。

 

 

天界の秘義2362〔2〕

 

 たとえばイザヤ書には―

 シオンの処女である娘はあなたをさげすみ、あなたをあざけった、あなたの後からエルサレムの娘はその頭をふった(37・22、列王記下19・21)。

エレミヤ記には―

 ああエルサレムの娘よ、私は何をあなたにたとえようか、ああ、シオンの処女なる娘よ、何を私はあなたに等しいものとしてあなたを慰めようか(哀歌2・13)。

ミカ書には―

 ああ羊の群の塔よ、シオンの娘の岡よ、あなたのもとにさえもそれは来るであろう、前の王国が、エルサレムの娘の王国が来るであろう(4・8)。

ゼパニア書には―

 ああシオンの娘よ、叫べ、ああイスラエルよ、大声をたてよ、あなたの心を尽して喜び楽しめよ、ああエルサレムの娘よ(3・14)。

ゼカリア書には―

 ああシオンの娘よ、大いに楽しめよ、ああエルサレムの娘よ、大声を立てよ、見よ、あなたの王があなたのもとへ来りたもう(9・9、マタイ21・5、ヨハネ12・15)。

 

 

天界の秘義2362〔3〕

 

 天的な教会または主の天的な王国は、善の情愛から、すなわち、主御自身に対する愛から『シオンの娘』と呼ばれていることは、さらにイザヤ書に見ることが出来よう(10・32、16・1、52・2、62・11、エレミヤ4・31、6・2、23、哀歌1・6、2・1、4、8、10、ミカ4・10、13、ゼカリア2・14、詩篇9・14)。霊的教会または主の霊的王国は、真理の情愛から、引いては隣人に対する仁慈から『エルサレムの娘』と呼ばれていることは、エレミヤの書(哀歌2・15)に認めることができよう。この二つの教会とその特質とは第一部に幾度も取り扱われたところである。

 

 

天界の秘義2362〔4〕

 

 天的な教会は主に対する愛から隣人に対する愛の中にいるという事実から、それは特に未婚の娘または処女にたとえられ、実際また『処女』とも呼ばれている、たとえばヨハネの書には―

 

 これらは女に汚されない者である、彼らは処女であるからである、これらの者は何処でも小羊が行く所へ小羊に従って行く者たちである、なぜなら彼らは神の王座の前に汚れのないものであるからである(黙示録14・4、5)。

 

 このことがユダヤ教会の中にもまた表象されるために、祭司たちは妻としてやもめを娶ってはならない、処女を娶らなくてはならないと彼らに命じられたのである(レビ記21・13−15、エゼキエル44・22)。

 

 

天界の秘義2362〔5〕

 

 この節に含まれている事柄から、聖言はその内意においては、たとえ文字ではそのように見えないけれど、いかに純潔なものであるかを認めることができよう、なぜならこの言葉が、すなわち『見よ、願わくは、私には男を知っていない二人の娘がいます、願わくは私にその者たちをあなた方のもとに連れ出させてください、あなた方はあなた方の目に良いようにその者たちにしてよろしいのです、ただこの人たちには何ごとも為さないでください』という言葉が読まれるとき、不潔なものを除いては何ごとも考えの中には、特に悪の生命の中にいる者らの考えの中には入って来ないからである。それでもこれらの言葉はその内意ではいかに貞潔なものであるかは、解説から明らかであり、その解説により以下のことが示されるのである、すなわち、これらの言葉は善と真理との情愛を意味しており、また主の神的なものと聖いものとに何ら暴行を加えない者が善と真理との情愛を享受することから認める祝福を意味しているのである。

 

 

天界の秘義2363

 

「願わくはわたしにその者たちをあなた方のもとへ連れ出させてください」。これはそこから、すなわち、善と真理との情愛から発している祝福を意味していることは、これらの言葉の意義から、すなわち、これらの言葉がここに『娘たち』により意味されている情愛について述べられているときのその意義から明白である。その事柄そのものについては、すなわち、善と真理との情愛の中にはもっぱら祝福と幸福があることについては、それは悪とその歓喜の中にいる者のすべてには全く知られていない事柄である。彼らには善と真理との情愛における祝福は存在しないものか、または悲しいものか、その何れかのもののように見え、或る者には苦しいもの、実に致死的なもののようにも見えるのである。これが地獄の魔鬼と霊との実相であって、彼らはもし自己への愛と世への愛が、従って、そこから発している幾多の悪の歓喜が彼らから取り去られるなら彼らにはいかような生命も残ることは出来はしない、と考えもし、また信じもしており、真の生命はその祝福と幸福とをもってそのときにこそ始まることを示されると、彼らは彼ら自身の歓喜を失ってしまうため、そこから一種の悲哀を感じ、そしてそうした生命の中にいる者たちの間に連れて来られると、苦痛と呵責に襲われ、さらに、そのとき彼ら自身の中に死体のような、凄まじいばかりに奈落的なものを感じ始めるのであり、かくて(この祝福と幸福とが宿っている)天界を地獄と呼び可能な限り自分自身を主の御顔から遠ざけ、また隠すために逃げ去ってしまうのである。

 

 

天界の秘義2363[2]

 

 にも拘らずあらゆる祝福と幸福とは愛と仁慈に属した善の情愛の中にあり、また信仰に属した真理の情愛の中にすなわち、その真理の情愛が善の情愛へ導いて行くに比例してその情愛の中にあることは以下の事実から認めることが出来よう、すなわち、天界は(すなわち、天使の生命は)この祝福の中にあって、それは主から最も内なるもの[最内部]を通して流れ入っているため、それを受け入れる者たちを、その最内部から感動させているのである(540、541番参照)。そのときまた知恵と理知とが心の最も内なる奥所に入ってそれを満たし、善を天界の焔で燃やし、真理を天界の光で燃やし、しかもそれにはただそれらは表現を絶したものであるとしか描写できない祝福と幸福の認識が伴っているのである。この状態の中にいる者たちは自己を、また世を求める愛の幾多の悪の中にいる者たちの生命はいかに死んだものであるか、いかに悲しいものであるか、いかに嘆かわしいものであるかを認めている。

 

 

天界の秘義2363[3]

 

自己への愛と世への愛のこの生命の性質について(またはそれと同一のものであるところの、誇り、貪欲、羨望、憎悪、無慈悲、姦通の生命の性質について)明らかな考えを得るために、たれでも才能のある人はその人自身でこれらの悪の中の何れか一つを人格化されてみられよ、または、もし出来ることなら、その人が経験と知識と理性からその悪について思いつくことが出来る考えに応じて、その目の前にそれを絵に描いてもみられよ、そのときその人はその人が描写しまた画いたものの力強さに応じて、これらの悪はいかに恐るべきものであるかを、またそれらは内に何ら人間的なものを持っていない悪魔的な形のものであることを認められるであろう。こうした悪に己が生命の歓喜を認める者はすべて死後このような形に実際なるのであり、その者らのその悪における歓びが大きければ大きいほど、益々その者ら自身の形は恐るべきものとなるのである。

 

 

天界の秘義2363[4]

 

他方その同じ人にその人自身で愛と仁慈とを人格化させて、それを記述させてみられよ、またはそれをその人の目の前に何らかの形の下に表現させてみられよ、そのときはその記述し、描写する力に応じて、その人はその形が天使的なものであり、祝福と美で満ちており、またその内部が天界的な神的なもので浸透していることを認めるであろう。この二つの形がともに住むことができるとたれが信じることが出来ようか、またはその悪魔的な形が脱ぎ棄てられて、仁慈の形に変わることが出来る、しかもそれがその生活に反している信仰によって行われることが出来るとたれが信じることが出来ようか。なぜなら死後も各々の者の生命は、またはそれと同一のものであるところの、その者の情愛は残っており、そのときそれに彼の思考はことごとく順応し、従って彼の信仰も順応するのであり、かくてそれは、それがかつて心の中にあったままに明らかにされるからである。

 

 

天界の秘義2364

 

「あなた方はあなた方の目に良いように彼らに為すことが出来ましょう」。 これは彼らがそれが善から発していることを認めるに応じて楽しむことを意味していることは、記事の連続からのみでなくその言葉の意義からも、すなわち、この言葉が『娘』により意味されている情愛について述べられているときのその言葉の意義からさえも認められることが出来るのである。ロトが慎重に身を処したことは、彼が『彼らの方へ出て行って戸の辺りまでも来た』ことにより意味されている(2356番)。 この慎重さは今し方引用した言葉から明白であり、また他にこの節の中に含まれている事柄からも明白である、すなわち、それは彼らは善と真理との情愛の祝福を、それが善から発しているに応じて、楽しむに違いないといいうことであって、そのことは彼らが『彼らの目に良いように為すこと』により意味されているのである。それが善から発しているに応じて楽しむことは、ここでは彼らがそれが善であると知るに応じて、を意味しており、たれ一人それよりも更に進むことは求められていないのである、なぜならすべての者はその信仰の善を通して生活〔生命〕の善へ主により向けられており、かくて異教徒は基督教徒とは異なった方法で、単純な者は学問のある者とは異なった方法で、小さな子供たちは大人とは異なった方法で善の方へたわめられる〔向けられる〕からである。その生命に悪を浸透させた者は悪を慎んで善を意図することにより、またそのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられるのである。顧慮されるものは彼らの意図または目的であり、彼らの行為はそれ自身では善くないけれども、それでもそれはその目的から多少の善を、またそこから派生してくる多少の生命を得ており、それが彼らの祝福となるのである。