真の基督教

 

 

 

真の基督教108

 

 主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。それ故、若し今後、何人であれ、死後凡ての者が入る所の霊界へ基督教国から入って来て、主を信ぜず、また主のみに近づかず、そしてその時邪悪な生活を送り或は虚偽を確信してしまった為に、この教義を受けることが出来ないならば、凡て天界の入口で斥けられ、天界から面を反けて、低地に向い、そこに赴き、黙示録の竜及び偽の予言者の意味するそこの住民に加わるのである。更に基督教国に生活しつつも宗教を信じない者は何人と雖もその祈りは聞かれない。その祈りは天界にあっては腐敗した肺臓から発する不愉快な臭気、毒気に似ている。たとえ彼は己が祈りは薫物の芳香のようであると想像しているにしても、それは天使的天界へ昇って行く際荒々しい風のため、彼の目へ吹き返されてくる焔の煙のようなものであり、或は修道僧の外衣の下の香炉から立ち昇る燻物のようなものである。単一性の三一性の神の代りに分離した三一性の神に向けられた敬虔の凡ては今後このようなものになるであろう。本書の主要目的は神的三一性は主の中に合一されていることを示すことである。

 

 

 

第九章悔改め

 

 

真の基督教509

 

信仰、仁慈、自由意志を取扱った後、順序として次に悔改めが来るのは、悔改めなくしては、真の信仰と仁慈に到達出来ないし、何人も自由意志無くしては悔改めることが出来ないからである。ここに悔改めが論ぜられるのは、再生に関する章が直ぐ後に続き、而して、神の眼前に嫌忌すべき、かの甚しい諸悪が除去されない中は、何人も再生せる者とはなり得ないし、そのような除去は単に悔改めによってのみ成就され得るからである。再生しない人間とは悔改めない人間以外の何であろうか。而して悔改めない人間は、麻痺状態に在る者に似、罪については何事も知らず、それ故、これを姦通者がその娼婦を甘やかすように、いとしみ、甘やかすのである。悔改めの性質と結果とを示すためにこれを個々の項目の下に論じよう。

 

 

 

 

[T]「悔改めは人間の中なる教会の第一の要件である。」

 

真の基督教510

 

 教会はその凡ての会員から成り立つ交わりであり、人間は再生する時、この交わりに入るのである。凡ゆる者は罪の諸悪から遠ざかり、これを燃える松明を携えて自らを燃える山の上に投げつけようとしている地獄の霊の群れを避けるように避けることによって、再生するのである。人生の初期に、人間を教会に対して準備させ、これに導き入れる物が多くあるが、悔改めの行為は教会を人間の中に存在させるものである。悔改めの行為は、人間に神に対する罪なる諸悪を犯すことを思い止まらせ、また人間をそこから遠ざける。悔改め以前は、人間は再生とは何の関わりも持たない。もし、永遠の救いに関わる何らかの観念が彼の心に入るにしても、彼は間もなくその事について忘れてしまう。何故ならそれは彼の思考の観念よりは遠くに入らないからであり、その観念から彼の言葉に入り、また言葉にふさわしい動作に入る事もありうるであろう。しかしそのような思いが意志に入るならば、その時それは永続的な場所を獲得するのである。何故なら意志は人間の愛の宿る所であるために、その人間自身であるからである。しかし、思考は、それが意志から発しない限り、一時的なものであり、それが意志から発するならば、意志と思考は一つのものとして行動し、合してその人間を構成するのである。それ故、真のかつ有効な悔改めは意志に影響を及ぼし、意志によって思考に影響しなくてはならず、単に思考のみであってはならない。悔改めは教会の第一の要件であることは聖言によって明白である。バプテスマのヨハネは主が建設しようとし給うた教会に人々を準備させるために遣わされ、而して彼は洗礼を授けた時、悔改めを宣べ伝えた。この洗礼は悔改めの洗礼と呼ばれた、それは洗礼は霊的な洗浄、即ち、罪から潔められることを意味したからである。彼はヨルダン河に洗礼を授けたのは、ヨルダン河は教会へ導き入れられることを意味したからである。何故なら、それは教会が建設されたカナンの土地の境界であったからである。主御自らもまた罪の赦しのための悔改めを宣べ伝えて、悔改めは教会の第一の要件であり、人間が悔改める限り、その罪は除かれ、免れると教え給うた。更に、主はその十二弟子およびその遣わし給うた七十人に悔改めを宣べ伝えることを命じ給うた。これによって、悔改めは教会の第一要件であることは明白である。

 

 

 

真の基督教511

 

 人間はその罪が除かれない中は、己が中に教会を持つことは出来ないと想像することは極めて合理的であり、この事は以下の比較によって説明され得よう。何人も畠、或は森から凡ゆる種類の獣を取り除かない中は、そこに羊、小山羊、小羊を置くことは出来ない。何人も刺や茨やアザミを取り払わぬ中は、庭園を作ることは出来ない。何人も、敵によって占領された都会から、その敵を追い払わぬ中は、その中に秩序ある正当な政府を建設することは出来ない。人間の諸悪も同様である。何故なら、それは野獣、茨、或は敵意を抱いた軍隊のようなものであるから。教会はこれらのものと和解し得ないことは、人間が虎と豹と共に一つ檻の中に住み、或は枕に有毒な草が一杯詰められている寝床に臥し、或は墓場の中の死骸を下にした教会堂の中に熟睡することが出来ないと同様である。彼はその亡霊たちにつきまとわれ怯かされることであろう。

 

 

 

[U]「現今信仰に先立ち、福音の慰安が後に続くと言われている痛悔は悔改めではない。」

 

真の基督教512

 

 改革派の基督教界には一種の心労、悲哀、恐怖が痛悔と呼ばれ、それは再生すべき人々に在っては信仰に先立ち、その後に福音の慰安が来ると言われている。それは神の正当な怒りに対する恐怖から生じ、またアダムの罪と人間がその結果悪に傾くことによって各人に先天的に内在している永遠の堕地獄に対する恐怖から生じ、そのような痛悔が無ければ、人間に主なる救い主の功績と義とを転嫁する信仰は与えられない、そのような信仰を得る者たちは福音の慰安を受け、義とされる、即ち、人間の側の何らの協力も無く新たにせられ、再生され、潔められる、彼らはかくして堕地獄を永遠の生命の久遠の祝福と交換すると想定されている。しかし、この痛悔に関しては、下記の質問が考慮され

なくてはならぬ。(1)それは悔改めであるか。(2)それは何か重要なものであるか。(3)そのようなものがあるか。

 

 

 

真の基督教513

 

 痛悔は悔改めであるか否かは、以下の頁の悔改めに関わる叙述によって決定され得るであろう。人間は自らが、単に全般的のみでなく、また個別的にも、罪人であることを知らない限りは、悔改めは無くまた、個人も自らを点検し、自らの中に悪を認め、そのために自らを罪に定めない限りは、これを知ることは出来ないことが、そこに示されるであろう。しかし、信仰に必要であると宣言されている痛悔は、それとは全く異なったものである。何故なら、それは単に人間はアダムの罪を受け継ぎ、それ故、悪への傾向を受け継いでおり、そのため人間は神の怒りの下に在り、断罪、呪詛、永遠の死に適わしいと告白するに過ぎないからである。明らかにこの痛悔は悔改めではない。

 

 

 

真の基督教514

 

 次にこの痛悔は何か重要なものであるか。それは信仰と連結しないけれども、信仰へ導くものとして役立つと言われている。それが導き出す信仰とは以下の如きものである。父なる神はその子の義を転嫁し、かくして人間を罪から自由であり、義であり、新たなものであり、聖なるものであると宣言して、彼に小羊の血にて洗われ、白くされた衣服を着せ給う、彼はこの衣服を着せられる時、その生活の諸悪は海底に沈んだ隕石のように何ら問題にされない、而して、アダムの罪は基督の転嫁された義によって完全に取り除かれると言われるのである。これが人々の信仰である以上、その痛悔は、人間はアダムの胸の中に在り、凡て痛悔しない者は地獄の中に在って悲惨であるか、或は死んでいるか、その何れかであるとの確信をもたらす以外に何の役に立つであろう。何故なら、彼らは生ける信仰は痛悔を経験しない者たちの中には宿っていないと語るからである。従ってこのような痛悔を経験した者が堕地獄の悪に沈んだとしても、或は沈みつつあるにしても、街のどぶの中にころげまわっている豚がその悪臭を意に介せず、またこれに気づかぬように、その悪に気づかず、またこれを意に介しないと言われうるであろう。それ故、明らかに痛悔は悔改めでないため、何ら重要ではない。

 

 

 

真の基督教515

 

 最後に、悔改めなしに痛悔のようなものがあるか。基督の功績を転嫁される信仰を確信している霊界の多くの者に向って私は彼らは何らかの痛悔を感じたか、否かと、尋ねると、彼らは答えた。「我々は基督がその受難によって我々の凡ての罪を取り去り給うたことを幼い時から確く信じている時、何のための痛悔でしょうか。痛悔はこの信仰と調和致しません。何故なら、それは人間に地獄の責苦と良心の苛責とを受けさせるからです。しかし、我々は、自らが贖われ、かくして地獄から救い出され、凡ゆる危険から安全であることを知っているのです。」これに彼らは以下のことを附加した「この痛悔の教義は単なる作り事に過ぎず、聖言の中にしばしば強調されている悔改めの代用である。恐らくこのような感情は、福音をあまり知らない単純な者たちが地獄の責苦について聞いたり、考えたりする際に、その心の中にかき立てられるかもしれない。しかし、彼らは幼い頃心に印刻された福音の慰めにより、痛悔を心から斥けてしまっている故、その考えそのものを嘲笑している。地獄はヴェスヴィアスとエトナの火がワルソーとヴィーンの住民を恐れさす力を何ら持たないと同様に或はアラビアの砂漠のバシリスクや毒蛇が、或は韃靼(ダッタン)の森の虎や獅子がヨーロッパの或る都会に安全に、平安に静かに住んでいる者たちを恐れさす力を持たないと同様に、彼らを恐れさす力を何ら持たない。ペルシャの諸王が怒ったからとて、ペンシルバニヤの人々が恐れも痛悔もしないように、神が怒ったからとて、自分たちは恐れも痛悔もしないのである」と彼らは語った。凡てこのことは、痛悔は若しそれが以下の頁に録されているような悔改めを意味しない限り、単なる作り事に過ぎないことを充分に私に納得させたのである。改革派は悔い改めと仁慈との必要を主張するロマ・カトリックから為し得る限り遠ざかるために、悔改めに代えるに痛悔を以ってしたのである。彼らは信仰のみによる義認の教義を定めた後、悔改めの代わりに痛悔を受け入れる理由を考案し、而して彼らの与える理由は、悔改めと仁慈は功績の臭味をもち、それ故信仰を不純にし、これを汚辱するということである。

 

 

 

[V]「自らは罪人であるとの単なる口先のみの告白は悔改めではない。」

 

真の基督教516

 

口先の告白に関し、アウグスブルクの信仰告白に同意する改革派は己が見解を以下のように表現している。「何人も決して自らの罪を知ることは出来ない。それ故、それは列挙することは出来ない。更に、それは内的なものであり、隠れており、それ故、告白は誤りであり、不確実であり、不完全であり、不具であろう。しかし、自らを全然罪そのものであると告白する者は凡て、凡ゆる罪を包含し、如何なる罪をも除外せず、如何なる罪をも忘れない。しかし、罪の列挙は、必要ではないけれど、優しい、小心な良心のために禁ぜられてはならない。これは単に単純な無知な者のために意図された他愛のない凡庸な形の告白に過ぎない」(一致信条327、331、380頁)。口先の告白は改革派がロマ・カトリックから分離した後、彼らによって実際的な悔改めの代りに用いられたものである。何故なら、仁慈或は悔改め無くして諸々の罪の赦しと再生とをもたらすところの彼らの転嫁的信仰に、この告白が基礎づけられているからである。それはまた、義認の行為に於いては人間による聖霊との協力は無いとの彼らの信仰の本質的な部分の上に基礎づけられ、更に救いは人間の如何なる努力によるも何ら影響されない直接的な慈悲であるということに基礎づけられている。

 

 

 

 

真の基督教517

 

 自らは罪人であるとの口先のみの告白は悔改めではないということについては、多くの理由が挙げられ得るであろう。しかし、誰でも邪悪な者、悪魔ですらもこのような告白を為すということ、また、地獄の苛責が間近に迫って彼を脅しているのを考える時、非常に真面目な態度を見せて、そのような告白を為すというこの一事のみでも考察されよ。しかし、このような告白は全く皮相的なものであって、口先の事柄であり、心の事柄ではない。何故なら、邪悪な人間と悪魔たちはこのような告白にも拘らず、依然その心の内は悪い諸々の欲念に燃え、それによって嵐の中の風車のように駆り立てられるからである。それ故、口先の告白は神から救いを獲得し、或は単純な者を欺こうとの不正な企て以外の何ものでもない。偽善者は容易にその唇、呼吸、眼、手を用いて悔改めを真似ることが出来る。主がマルコ伝に語り給うたことと比較されよ。「偽善者よ、イザヤは汝らに就き能く予言せり、この民は口唇にて我を敬う、されど、その心は我を遠ざかる」(7・7)。またマタイ伝には、「禍なるかな学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿の外を潔くす、されど内は強奪と放縦とに満つるなり。盲目なるパリサイ人よ、先ず酒杯と皿との内を潔めよ、然らば外も潔くなるべし。」(23・25、26)。

 

 

 

真の基督教518

 

 人は宥和調停に関する公式文に従って祈りさえすれば、主は十字架上の苦難によって世の罪、即ち、各人の罪を取り去り給うという現今の教会の信仰を確認した者たちにより、これに類似した偽善的な礼拝が営まれている。彼らの或る者は悔改めも、仁慈も、何れも救いを得る助けにはならないと信じてはいるものの、熱意を面に現して、講壇から、悔改めと仁慈とに関する多くの敬虔な考えを叫ぶことが出来るのである。何故なら、彼らは悔改めにより単なる口先の告白を、仁慈によって単なる外面的な道徳性を意味するに過ぎないが、彼らはこれを人の称賛を勝ち取るために為すからである。これらが主が以下のように語り給う際にその意味し給う者である。「その日多くの者、我に向かいて、主よ、主よ、我らは汝の名によりて予言し、汝の名によりて悪鬼を追い出し、汝の名によりて多くの能力ある業を為ししにあらずやと言わん。その時われ明白に告げん、我断えて汝らを知らず、不法をなす者よ、我を離れ去れ」(マタイ7・22、23)。

 霊界で、私は、或る者が次のように祈っているのを聞いた。「私は私の誕生の時から腫物に満ち、癩病患者であり、不潔なものであります。私の頭の上から足の裏まで私の中には健全な所は何一つありません。私は目を神に挙げるのに適わしくありません。私は死と永遠の刑罰に適わしいものです。汝の御子のために私を憐れみ給え、その血によって私を潔め給え。凡ての者の救いは汝の善意志によります。私は汝の憐れみを懇願致します。」彼の傍らに立ってこの言葉を聞いた人々は尋ねた「どうして貴方は自分がそのような者であることを知っているのですか。」彼は答えた。「私はそのように言われたからです。」それから彼は試問天使たちの許へ送られ、彼らに同じ陳述を繰り返したが、天使たちは彼を検べた後で、彼が自らのことを語った事は皆真であったけれど、自らを一度も点検したことがない故、自らに在る一つ一つの悪すらも知らない、彼は凡ての悪は口先の告白の後には最早神の眼前には悪ではなく、神はそれらの悪から目をそむけ、宥められると信じているのであると報告した。この理由によって、彼は抜け目のない姦淫者であり、盗人であり、狡猾な誹謗者であり、猛々しい復仇者(ふっきゅうしゃ)であったけれど、一度も自らの悪を悔改めたことがなくしかも、心も、意志もかかる悪人であったので、若し法律と名声損失の怖れが無かったならば、言葉と行為とに於いてもそれと同様のものになったであろう。かくして彼はその真の性格を暴露された後、罪ありとされ、地獄の偽善者たちの許へ送られたのである。

 

 

 

真の基督教519

 

 このような偽善者の性質は比較によって説明することが出来よう。彼らは、黙示録に録されている龍の霊と蝗とに満ちている神殿に、或は聖言が足下に踏みつけられている神殿の講壇に、窓を開くと、内部にフクロウや夜の陰惨な鳥が飛び回っている美しく彩色された壁に、或は死人の骨に満ちている白く塗られた墓に、或は上に金の薄膜を着せた無価値な材料で造られた貨幣に、或は腐敗した木材を蔽うている樹皮或は外皮に、或は癩病の身体に着せた祭司の衣裳に、或は外は皮膚に蔽われているが、内は腐っている腫物と潰瘍とに似ているのである。聖い外なるものと汚れた内なるものとは調和しないことを誰が認めないだろうか。このような者たちは自分を検べることを特に好まない。それ故彼らは腹の中の糞尿を、それが厠に落つる前に感じないように、または認めないように己が内なる悪徳を感じないし、または認めもしない。しかし、これらの偽善者は、正しく信じ、行い、自らの罪の或るものについて悔改める者たちや、霊的な誘惑に於いて高らかに祈りを捧げる者たちと混同されてはならない。何故ならこのような一般的な告白は改良と再生とに先立ち、またその後に来るからである。

 

 

 

[W]「人間は凡ゆる種類の悪への傾向を以て生まれ、悔改めにより己が悪をある程度除かない限り、その中に止まり、而して悪の中に止まる者は救われることは出来ない。」

 

真の基督教520

 

凡ゆる人間は悪の傾向をもって生まれる故に母の胎にいる時から、悪以外の何ものでもないことが教会内に良く知られている。何故なら、諸々の会議と種々の教会の管長たちは、アダムの罪はその凡ての子孫に伝えられており、この理由のみによって、その凡ゆる子孫は生来その最初の呪詛の中に含まれていると宣言してきたからである。更に、他の幾多の教義がその宣言の上に基礎づけられている。例えば、潔め即ち再生の洗礼はその罪を除去するために主によって定められた、これが主の降臨の原因であった、主の功績に対する信仰はそれを除去する手段である等の教義である。しかし、上述したように(466番以下)この起原からは何らの遺伝的な悪も生じて来なかったし、またアダムは人間の最初ではなかったのである。彼と彼の妻とはこの地上の最初の教会を意味し、エデンの園はその知恵を意味し、生命の木は、来たり給う主を見上げることを、善悪を知るの木は、主の代わりに自己を見ることを意味している。最古代の教会が創世記の最初の数章に象徴的に示されていることは「天界の秘義」の聖言から証明されている。凡てこの事はアダムの罪は人間の遺伝悪の起原であると想像することの誤謬を示している。自由意志に関する章に、生命の木と善悪を知るの木とは凡ゆる人間の中に在り、両者がエデンの園の中に在ったことは、主に向かうか、或はこれに背を向けるか、その何れかを為し得る人間の自由意志を意味することが示されている。

 

 

 

真の基督教521

 

 親愛なる読者よ、人間の遺伝悪の起原は彼の両親の中に在るのである。実に人間の犯す罪ではなく、悪への傾向がその両親の中に在るのである。これは理性と経験とによって示される。何故なら、子供たちは顔、作法、性質において、一般的にその両親に、その祖先たちにさえ似通って生まれ、かくてアフリカ人はヨーロッパ人から、イタリア人はドイツ人から、イギリス人はフランス人から区別されるように、異なった家族と国民とは相互に容易に区別されるからである。誰がユダヤ人をその顔、眼、言葉、身振りによって認めないであろうか。そしてこの凡てはもし諸君が各人の人格から発する生命的なスフィアを感ずることが出来るならば、更に明白となるであろう。この事から、人間は悪そのものを受け嗣ぐのではなく、単に悪への一般的傾向を、或る悪に対する特殊の傾向と共に受け嗣ぐに過ぎないことが推論される。それ故、死後何人も何らかの遺伝悪の為に審判され或は罪に定められることはなく、単に彼が実際犯した罪のために審かれ、罪に定められるに過ぎない。これは以下の神的法則によって明白である、「父はその子の故に死ぬべからず、子もその父のために死ぬべからず、各人は己の罪によりて死ぬべし」(申命記24・16)。この事実の証明が霊界に私に与えられた。何故なら幼い時に死に、悪の傾向を持ってはいるものの、決して如何なる悪も犯さなかった者たちは、主の庇護のもとに育てられ、救われるからである。

 両親によってその子孫に伝えられる上述の悪への傾向と性向は、再生と呼ばれる主による新しい誕生によってのみ阻止されることが出来る。これが無ければ悪への傾向は妨げられないで継続するのみではなく、後続する凡ての世代の者の中に増加し、拡大し、遂には凡ゆる悪への普遍的な傾向となる。ユダヤ人は、カナンの女を妻とし、義理の娘のタマルと姦淫をなし、三つの分れの家族を生んだ彼らの父祖ユダに似ており、時の経過と共にその遺伝的な気質は増大して、遂に、快く基督教を受け入れることが出来ないのはこれによるのである。私は彼らは受け入れることは出来ないと言う、それは彼らの内部の状態は決定的な不可能にさえ達しているからである。

 

 

 

真の基督教522

 

 凡ゆる悪は除去されない限り人間の中に止まり、かくて人間は救われることは出来ないことは自明のことである。而して、主のみが悪を除去することが出来、且つ主を信じて隣人を愛する者たちからのみそれを除去することが出来ることは、上述したことから明白である。特に、信仰に関する章を参照されたい。そこには主、仁慈、信仰は生命と意志と理解のように一を為し、それらが分割されるならば、各々は粉末になった真珠のように滅び、主は人間の中に在る仁慈と信仰であり、人間は主の中にある仁慈と信仰であることが示されている。しかし、如何にして、人間はその交わりに入り得るかと問われるかもしれない。答えは、人間は悔改めによってある程度、諸々の悪を除去しない限り、その交わりに入ることは出来ないということである。何故なら、信仰と自由意志とに関わる章に詳細に示されたように、人間の協力無しにこのような除去が生まれることは出来ないからである。

 

 

 

真の基督教523

 

 何人も律法を成就することは出来ない、特に十誡の一つに対して罪を犯す者は、凡てに対して罪を犯す以上は、尚更律法を成就することは出来ないと主張されている。然し、この主張は容易に誤解され易い。それは何人であっても、慎重に、定まった目的をもって一つの誡命に反して行動する者は凡て、他の誡命に反抗して行動することを意味しているのである。何故なら、このように行動することは、罪は罪であることを否定することになり、何人でもこれを為す者は凡て罪を軽視するからである。悔改めについて聞くことを拒絶することは、罪は罪であることを否定することに至るが、罪の除去に於いて悔改めによって協力することは主に対する信仰と隣人への愛に至るのである。主は凡ゆる人間を罪から遠ざかろうとする彼らの努力の中に保ち給う。それ故彼らが無知により、或は或る圧倒的な欲念によって罪に導き入れられるならば、彼らは慎重に或は、定まった目的から行動したのではない故に、その罪は彼らに転嫁されない。これは以下の私の経験から証明され得るであろう。私は、自然界に居た時、優美な服装をし、美食をし、金を作り、演劇に興じ、放埓な無駄口を叩き等して、他の者のように生活した多くの者たちと霊界に会ったことがあるが、而も、天使たちは彼らの或る者は罪があるが、他の者は全く罪が無いと明言したのである。私は両者とも外面的には同じように行動したことを認めていたので、その理由を尋ねた。彼らは罪と無垢とは全然目的、目標、意図による、何故なら、善は天界の凡ゆるものの目標或は意図であり、悪は地獄の凡ゆるものの目標或は意図であるからであると答えた。

 

 

 

真の基督教524 本項21.参照

 

 

[X]「己が内に罪を認め、ある罪を発見することが、悔改めの始めである。」

 

真の基督教525

 

基督教国では、罪を認め得ない者は一人もない。何故なら、基督教徒なる幼児は凡て何が悪であるかを教えられ、少年は凡て罪の悪を学ぶからである。青年たちは凡てこの事を両親と教師たちから、また謂わば彼らの最初の教科書なる十戒から学び、その後人生の諸段階に於て、同一の事を公の説教と個人的な教訓から、特に聖言から学ぶのである。彼らはまた、十戒と聖言全般とに禁じられていると同一のものを禁じている民法からそれを学ぶのである。何故なら、罪は隣人への悪であり、隣人への悪はまた神への悪であり、神への悪は更に罪であるからである。しかし、罪を一般的に認めることは、人間が自分の行為を吟味し、自らが或る特殊の罪を、秘かに、或は公然と犯したか否かを見ない限り、何の益もない。このことが為されない中は、彼の知識は単に理論的なものであり、かくて説教者の言葉は片方の耳に入って他の耳から抜けて行き、間もなく凡ての実際的な価値を凡て失ってしまうのである。しかし、それは、人間が自らの知識を自己点検のために用い、或る特殊の罪を発見し、かくして自らに「これは罪である」と語り、永遠の刑罰を恐れてこれから遠ざかる時は全然異なってくる。その時始めて教会に聞かれる教訓は、注意深く傾聴され、心に受け入れられ、その人間は異教徒から基督教徒になるのである。

 

 

 

真の基督教526

 

 人間は自らを吟味しなくてはならないことほど、基督教世界に知られているものはない。何故ならロマ・カトリックであれ、或はプロテスタントであれ、凡ゆる国々に、聖餐に先立って自己を吟味し、自己の諸々の罪を認め、知り、新しい生活と為すようにとの勧告がなされるからである。而して英国の教会ではこれは下記のような恐るべき威嚇を伴っている。聖餐式に先立つ辞の中で、次の辞を祭司が聖壇から読み且つ宣言する「聖餐に与るにふさわしい者となる道または手段は、先ず汝らの生活と会話とを神の誡命の規定によって検べ、如何なる点に於いても、汝自らが意志、言葉、或は業によって罪を犯したと認めるならばそこに自らの罪深きを嘆き、生活を改善しようとの全き決意をもって汝ら自身を全能の神の前に告白することである。而して、汝らは自らの咎は単に神に対してばかりでなく、隣人に対するものであることを認めるならば、彼らと和解し、汝らが他の何人かに加えた危害と損害の凡てに対し、汝の為し得る限りを尽くして、賠償と弁済とを進んで為し、また、汝らが神の御手から汝らの罪咎を赦されることを欲するように、汝らに罪咎を犯した者たちを進んで赦さなくてはならない。何故なら、それを怠るならば聖体を受けることは、只、汝の呪詛を増大するに過ぎないからである。神を瀆(けが)す者、神の聖言を妨害し、或は誹謗する者、姦淫を犯す者、或は邪悪な思い、または嫉妬を抱く者、或は他の何らかの恐るべき犯罪を犯す者があるならば、その罪を悔改めよ、然らざれば、この聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、汝らの中に入り、汝らに凡ゆる不法を満たし、身体と霊魂の破滅を汝らにもたらすであろう。」

 

 

 

真の基督教527

 

 しかし、自己点検の出来ない人々もいるのである。例えば、幼児達、自己点検の出来る年齢前の少年少女達、同様に反省の出来ない単純な人々、何ら神を恐れぬ人々、心と身体の病んでいる人々の如き者である。基督の功績を転嫁するところの信仰のみによる義認の教義の結果、自己点検と、悔改めとは、信仰を人間的なものを以て汚し、かくて、救いの手段をこぼってしまうと確信している者達もこれらの者に附け加えなくてはならない。このような人々には凡て口先のみの告白は役立つが、これは上述したように、悔改めではない。

 しかし、罪とは何であるかを知る者、特に、聖言をしばしば読み、これを他の者達に教えながらも、自らの中に如何なる罪をも認めない者はこれとは異なっている。彼らは大きな富を貯え、これを眺めて悦に入り、而も、これを何ら有用な目的のために用いない守銭奴に譬えることが出来よう。これらの者は、その一人は己が一タラントを地面に隠し、他の一人はその一磅(ポンド)を布の中に隠した商売人の如きものであり(マタイ25・25、ルカ19・20)、種子の落ちた固い石地に(マタイ13・5)、葉のみ繁ってはいるが、果は何ら実っていない無花果の木に(マルコ11・13)、肉になされ得ない鐵石の心に似ており(ゼカリヤ7・12)、「集むれども生まざるしゃこの如く、不義をもて財を獲る者なり。その齢の半にてこれに離れ、終に愚かなる者とならん」(エレミヤ17・11)と言われる者に似、また燈を持っていたが、油を携えていなかった五人の処女に似ている(マタイ25・1−12)。聖言から仁慈と信仰とについて多くを学び、その教訓については凡てのことを知っていても、それに従って生きない者は、口に肉の大きな塊を詰め込み、これを良く噛まないで飲み下ろす大食家に似ている。これらの肉塊は胃から不消化のまま進んで行き、乳糜を害い、遂にその生涯を悲惨に終わらせる長患いを引き起こすのである。彼らは充分に光を与えられているけれど、霊的な熱を欠いているため、冬の凍てついた地面、北極地方、雪、或は氷柱に似ている。

 

 

 

VI]「実際の悔改めは自個点検、罪の認識、承認、主への祈願、新生を始めることである。」

 

真の基督教528

 

悔改めは、救いにとって絶対的に必要であるとは、主の明白な宣言を含んでいる聖言の多くの記事によって明らかである。これらの中から我々は以下のものを引用しよう。

ヨハネは悔改めの洗礼を宣べ伝えて語った「悔改めに相応しい果を結べ」(ルカ3・8、マルコ1・4)

「イエス教えを宣べはじめて言い給う、悔改めよ。」(マタイ4・17)

而して彼は言い給う。「神の国は近づけり、汝ら悔改めよ。」(マルコ1・14、15)

「汝ら悔改めずば、皆亡ぶべし。」(ルカ13・3)

イエスはその弟子達に悔改めと罪の赦しとが彼の名に於いて凡ゆる国民の間に宣べ伝えられねばならぬことを告げ給うた(24・47)。それ故、ペテロは罪の赦しのためにイエス・キリストの名に於いて悔改めと洗礼とを宣べ伝え(使徒行伝2・38)、

また「汝ら罪を消されん為に悔改めて心を転ぜよ」(3・19)と語った。

而してパウロは凡ゆる場所に凡ゆる者は悔改めなくてはならない(17・30)と宣べ伝え、

「先ずダマスコに居るもの、次に、エルサレムに及びユダヤ全国、また異邦人にまで、悔改めて神に立ち帰り、その悔改めにかなう業をなすべきを示し」(使徒行伝26・20)

「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対して悔改め、われらの主イエス・キリストに対して信仰すべきことを証せり」(20・21)

主はまたエペソの教会に語り給うた。「我は汝が初の愛を離れしを責む、悔改めよ、然らずして若し悔改めずば、汝の燈台をその処より取除かん。」(黙示録2・4、5)

ペルガモの教会には、「われ汝の行為を知る、悔改めよ。」(2・13、16)

テアテラの教会には、「その行為を悔改めずば、大なる患難に投げ入れん。」(2・22)

ラオデキアの教会には、「われ汝の行為を知る、汝励みて、悔改めよ。」(3・15、19)

他の箇所に、「悔改むる一人の罪人の為に天に歓喜あるべし」(ルカ15・7)

他に同一の意義を示す多くの記事がある。是によって人間は悔改めなければならぬことが明白である、然し我々は次に悔改めの性質と方法とを考察しよう。

 

 

 

真の基督教529

 

合理的な人間は人がその唇だけで、自分は罪人であると告白し、罪について上述した偽善者のように語ることは悔改めではないことを知ることが出来る(518番)。人間が困苦と苦悶の中にあるときに、溜息をつき、呻き声を立て、自らの胸を打ち、自らは一つの罪をも意識していないけれども、凡ゆる罪を犯していると語ること程容易なことはない。然し、その人間の諸々の欲念につきまとっている悪魔共は彼の溜息と共に立ち去るであろうか。彼らは寧ろこの凡てを冷笑し、己が家庭に在るかのように、彼と共に止まらないだろうか。このような悔改めは明らかに聖言に意味されておらず、ただ悪行からの悔改めが意味されているのである。

 

 

 

真の基督教530

 

それ故、問題は、如何にして人間は悔改むべきであるか、ということである。答えは実際に悔改めることである。即ち、自らを点検し、自らの罪を認識し、承認し、主に懇願し、新しい生活を始めることである。前項に示されたように、自己点検なくしては悔改めは有り得ない。然し、自己点検は罪の認識を意味し、認識はその承認を意味する。而して、この三つの義務の凡ては人間を導いてその罪を主の前に告白させ、助けを求めて祈らせ、かくして到達すべき目標である新しい生活を始めさせる。これが実際の悔改めである。年頃になった者は誰でもこれが行為の正しい経路である事を認めることが出来る。それは再生を意味する洗礼式に示される。何故なら、その挙式に名付け親たちはその幼児のために、彼は悪魔とその凡ての業とを斥けるであろうと約束するからである。それは、主の聖餐に示されている。即ち、その聖餐に先立って凡ての者たちは自らの罪を悔改め、神に心を向け、新しい生活を始めるように勧告されている。それは、凡ての基督教徒の手にしている十誡によってもまた示されている。何故なら、その中の教示は人間が諸悪から遠ざかることを命じているからである。これらの悪が悔改めによって取り去られない限り、彼は隣人を愛し、神が愛せよという命令に服従することは出来ない。然し、この二つの誡命に凡ゆる律法と預言者が、即ち聖言が、従って救いが懸かっている。人が如何なる時にか―恐らく聖餐の備えをなしている間に―その気付いた一つ以上の罪から遠ざかるならば、彼は真実の悔改めの道に向って確乎たる出発を為したのであり、その時彼は天界への途上に在るのである。何故なら、その時自然的なものから霊的なものに成り、主によって新しく生まれ始めるからである。

 

 

 

真の基督教531

 

 これは以下の比較によって説明され得よう。悔改め以前の人間は荒野に似ている。そこには恐るべき野獣、龍、梟、蝙蝠、毒蛇がおり、繁みの中にはochimtziimとが居り、サチルスがここに踊っているが、これらのものが人間の労働と勤勉とによって追い出されるとき、その荒野に種子を播くことが出来、燕麦、隠元豆、亜麻、後には大麦、小麦が産出される。更に、人間達の間にはびこっている邪悪を考察されよ、邪悪な者が法律の刑罰によって抑制されない限り、如何なる都会も王国も立つことが出来ない。人間は謂わば、小規模の一社会である。一般社会の犯罪人が肉体的に懲戒されるように、人間が自らを霊的に懲戒しない限り、死後彼は膺懲(ようちょう・・・征伐してこらす)され、罰せられる。而してこのことは、彼は決して善のために善を行うようにはならないが、刑罰の恐怖から悪を為さなくなる迄は継続するであろう。

 

 

 

[Z]「真の悔改めは、単に、自分の生活の行為のみではなく、更に自分の意志の意図をも点検することである。」

 

真の基督教532

 

 その理由は理解と意志はその行為の原因であるからである。何故なら、人間は思考から語り、意志から行動し、それ故、言葉は思考を表現し、行動は意志を表現するからである。それ故、身体が罪を犯す時に、それと同時に意志と思考とが罪を犯すことが推論される。身体によって犯された諸々の悪を悔改め、しかもなお悪を思い、これを欲することが可能である。然し、これは有害な木を切り倒してその根を残しておくようなものであって、その根から木は再び成長して繁茂するのである。然し、その根が抜き取られる時は異なり、これは、単に自らの行為のみでなく更に自らの意図を点検し、悔改めによって諸悪を除去する時為される。人間は自らの思考を点検することによって自分の意志の意図を点検する。なぜなら、意図はそれ自らを思考の中に表現するからである。それ故、思考は、人間が復讐を、姦淫を、窃盗を、偽りの証を、神と、その聖なる言と、教会に対する冒涜等を企てているか否かを明示するのである。若し、彼が法律と名声失墜との恐怖が無ければ自分はこれらの悪を為す傾向を持つことを知り、しかもそれらは罪であるという理由から、それを為さないと決意するならば、その時彼は真に、且つ、真面目に悔改めているのである。これは、彼がそれらの悪の誘惑を感じ、しかも何ら外的の抑制物を受けない時に、その悪に抵抗し、そこから遠ざかるならば、特に真実なものである。彼が耐え忍ぶならば、悪しき意志の諸々の快楽は遂に忌むべきものとなり、最後に地獄へ還される。これは主が、「誰にても己が生命を得んとする者はこれを失い、我がために生命を失う者はこれを得べし」(マタイ10・39)と語り給うた際意味し給うた所である。かくの如く悔改めによって己が諸々の悪を除去する者は、救い主に在す主なる神によって播かれる種子が手入れの良く行き届いた地を得て、穀物を産み出すために、悪魔によって播かれた毒麦を、適当な時期に抜き取る人に似ている(マタイ13・25−30)。

 

 

 

真の基督教533

 

凡ての人々を支配せんとする愛と、凡ゆる富を所有せんとする愛の二種類の愛は長く人類に深く根を下ろしてきた。この二つの愛は、抑制されない時には、何らの制限も知らず、前者は天界の神たらんとの欲望を吹き込み、後者は世界の神たらんとの欲望を吹き込むのである。他の凡ての悪しき愛はこの二つの愛に従属し、その名はレギオンと呼ばれる。然しこれらのものは深く内部に隠れ潜んでいる故、それらを点検することは困難である。それらは岩の裂目に隠れていて、そこに身を休める者に向って飛び出し、これに致命傷を加え、再び己が隠れ家に退く蝮のようなものである。それらはまた人々を歌をもって魅了し、次にこれを殺して了うた女神サイレンのようなものである。この二種の愛は、自らを華麗な衣装を以って飾るが、それは丁度悪魔がその欺こうと欲する者達に感銘を与えようとしてその魔術によって華麗な衣装を以って自らを飾る様に似ている。支配への愛と富への愛は高貴者よりも卑賤な者を、富んだ者よりも貧しい者を、王よりも従臣を動かしている。何故なら、王は支配と富とへ生まれ、遂にはこれを貧しい者、卑賤な者がその家の持ち物を見るように見るに過ぎないからである。しかし他の国々を支配しようと渇望する王侯はこれとは異なっている。意志の諸々の意図が点検されねばならぬ理由は、意志は愛を受容する器であり、その居所であるからである。意志から各種の愛は、その歓喜を発散させ、これを理解の諸々の認識と思考へ注ぎ入れ、認識と思考はそれ自らによって何ごとも為さず、単に愛によって示される物に同意し、これを確認するに過ぎない。それ故、意志は、人間がその中へ住む家であり、理解は外庭である。それ故これが意志の諸々の意図が点検されねばならない理由である。何故なら、これが為される時、その人間は諸々の遺伝悪と実際悪が住まっている自然的な意志から霊的な意志へ引き挙げられ、かくして主はその自然的な心の凡てを改良し、再生させ、かくしてその人間全体を改良して、再生させ給うからである。

 

 

 

真の基督教534

 

 自らを一度も点検しない人々は、その血液が毛細管の障碍(しょうがい)によって腐敗した病人に譬えることが出来よう。この障碍は体液と血液の濃化、粘靭性、変化、酸性によって惹起される急性の痼疾、萎縮、四肢の麻痺を生ぜしめる。然し、己が諸々の意図を点検する者達は、金、銀、貴重な商品を積みオフィルから出帆する船に似ているが、それ以前は凡ゆる種類の塵埃と汚物を積み込んだ船に似ている。内的に自らを点検する者達は、その通路が貴重な金属の鉱石で輝いている鉱山のようであるが、それを為さない以前は光鱗を持った毒蛇と、羽のきらきら光った忌まわしい昆虫の巣食っている不愉快な泥沼のようなものである。自らを一度も点検しない者達は、谷間の乾いた骨に似ているが、自らを点検した後は、主エホバによって腱、肉、皮膚を以って蔽われ、息を吹き込まれて生きた骨に似ている(エゼキエル37・1−14)。

 

 

 

[[]「自らを点検しないが、しかも諸々の悪をそれが罪であるために避ける人々もまた悔改める者であり、同様に宗教的な動機から仁慈の諸々の業を為す人々も悔改める者である。」

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。何らかの悪を考えながらも、「私はこれをやりたい気持ちであるが、然しそれは罪である故に、やらない」と語らせるところの、容易な種類の悔改めがある。この方法によって地獄からの誘惑は抵抗を受け、その再度の試みは妨げられる。悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易である。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難であろう。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないためである。霊界に何人がそのように自らを制御し得るかと尋ねられ、そのことの出来る人は砂漠の鳩のように稀であった。或る者はそれが出来ると語ったが、自分達を点検し、自分の罪を神の前に告白することは不可能であることを認めた。確かに、宗教的な動機から善を為す凡ての者達は、実際的な諸悪を避けるが、しかも彼らは、自らは善を為しているために悪からは自由であり、且つその悪を隠すと想像し、意志の隠れた諸々の源泉について、反省することが極めて稀である。然し、親愛なる読者よ、仁慈に於ける本質的な事柄は、聖言、十誡、洗礼、聖餐、理性それ自身によって教えられている如く、諸々の悪を避けることである。何故なら、自らを点検しない限り、どうして、悪を避けて、これを放逐することが出来ようか。而して、善は、それが内的に浄められない限り、如何にして真に善となり得ようか。私は敬虔な人と、健全な理性を持つ人は凡てこれを読む時は、賛成し、これが真理であることを認めることを知っているが、それに従って行動する者は僅かしかいないことをも知っているのである。

 

 

 

真の基督教536

 

 にも拘らず、基督教徒であれ、或は異教徒であれ、宗教的な動機から善を為す人々は凡て死後主によって受け入れられる、何故なら主は語り給うたから。「汝らは我が飢えしときに、食はせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に、宿らせ、裸なりしときに衣せ、病みしときに、獄に在りしときに、来れり、汝ら、我が兄弟なるこれらのいと小さき者の一人になしたるは、即ち我に為したるなり。汝ら祝福されし者よ、来りて世の創より汝らのために備えられたる国を嗣げ。」(マタイ25・34、35)

 これに以下の新しき事実を加えよう。宗教的な動機から善を為す者は凡て、死後、永遠から存在する三人の神的な人格に関わる現今の教義を、それに相応する信仰と共に斥け、救い主にて在す主なる神に心を向け、喜びを以って新しい教会の教義を受ける。然し、宗教から仁慈を行わぬ者は、鐵石のような頑なな心を持っている。これらの者は先ず三人の神に近づき、後に、神のみに近づき、後には如何なる神にも些かも近づかない。彼らは救い主に在す主なる神を、単にヨセフとの結婚によるマリアの子としてのみ見上げ、神の子としては見上げない、次いで彼らは新しい教会の凡ゆる善と真理とを廃棄し、間もなく龍の霊共に加わり、彼らと共に、所謂基督教国の最端に在る荒野、或は洞窟に向って追い立てられ、暫くして、新しい天界から分離され犯罪に向って突進し、地獄に投ぜられる。かくの如きが、宗教的な動機から仁慈の業を為さない者達の運命である。彼らは自らによって為された善は、功績を求めるものであるとの信念から、これから遠ざかっている。彼らは羊から分かたれ、山羊と交わり、罪に定められ、悪魔とその使い達との為に備えられた永遠の火へ投ぜられるのである(マタイ25・41以下)。この記事は彼らは悪を犯したとは言われず、ただ少しも善を行わなかったと言っている。而して一つの善をも行わない者らは悪を犯す者である。それは「何人も二人の主に兼仕うることが出来ず、一人を憎んで他を愛するか、或は一人に従って他を軽蔑するかする」故である(マタイ6・24)。而してエホバはイザヤによって語り給う、「汝ら己を洗い、己を潔くすべし、わが眼前よりその悪業を去り、悪を行うことを止め、善を行うことを学べ、さらば汝らの罪は緋の如くなるも、羊毛の如くならん。」(1・16−18)エレミアによっては「汝エホバの家の門に立ち、其処にてこの言を宣て言え、万軍のエホバ、イスラエルの神かく言い給う、汝らの途と汝らの行を改めよ。汝らは盗み、殺し、姦淫し、妄りて誓い、我名をもて称えらるるこの家に来りて我前にたち、これらの憎むべきことを行うとも、我らは救わるるなりと言うや。我が名をもて称えらるるこの家は強盗の家の巣となりしや。見よ、我もこれを見たりとエホバ言い給う。」(7・2−4、9−11)。

 

 

 

真の基督教537

 

 単に自然的な親切からのみ善を行って、同時に宗教的な動機から善を行わない人々は、その仁慈には少しも霊的な善は無い故、死後受け入れられない。而して人間を神との交わりに入れるものは霊的な善であって、自然的な善ではない。自然的な善は、人間の両親から受け継がれ、単に肉にのみ属するが、霊的な善は主から新しき誕生によって受けられ、霊に属する。主に関わる新しい教会の教義を受け入れない前でも、悪を避け、宗教的な動機から仁慈の善を為す者達は、質は良いが数の乏しい果実を結ぶ樹に、また小さいが栽培するに価する優秀な果実を結ぶ木々に、或は植込みに生えている橄欖の樹と無花果の樹に、また岡に生えている香り芳しい薬草に譬え得られよう。彼らは神を拝するための小さな礼拝堂または教会堂に似ている。何故なら、彼らは右手の羊であり、山羊に攻撃される牡羊であるから(ダニエル8・2−14)。天界では、彼らは先ず赤色の衣服を着せられ、新しい教会の中へ入れられた後は、真理の増加と共に美しさの勝って行く紅色の衣服を着せられるのである。

 

 

 

 

[\]「告白は救い主に在す主なる神に向って為され、次に悪に抵抗する助けと力とを求める祈願が為されねばならぬ。」

 

 

真の基督教538

 

救い主に在す主なる神に近づかなくてはならぬ。それは彼は天地の神、贖罪者、救い主にて在し、彼に全能、全智、偏在、慈悲、義が属し、人間は彼の被造物であり、教会は彼の羊の檻であり、且つ彼は新約聖書に幾度も、人間は彼に近づき、彼を礼拝し、彼を崇めなくてはならないと宣言し給うたからである。

 

彼のみに近づかねばならぬことは、ヨハネ伝の以下の語によって宣言されている。

「まことに誠に我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他の道より越ゆる者は盗人なり強盗なり。門より入る者は羊の牧者なり。我は門なり、我によりて、入る者は救われ、草を得べし。盗人のきたるは、盗み、殺し、亡ぼさんとするの他なし、我が来るは羊に生命を得しめ、かつ豊かに得しめんためなり。我は善き牧者なり。」(10・1,2,9−11)

 

人間は他の道より越ゆるべきでないということは彼は父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである、それ故彼御自ら単に人間が救われんがために、世に来り、自らを目に見ゆる者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることの出来る者と為し給うたのである。

 

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給うたのである。

 

何故なら、彼は聖霊により至高者の力によって懐胎せられ、かくして彼の人間性は処女マリアから生まれたからである。

この事から―神は不可分離の方である故―彼の霊魂は父と呼ばれる本質的な神性であったこと、そこから神の子と呼ばれる父なる神の人間性が生まれたことが推論される(ルカ1・32、34、35)。而して更に救い主に在す主なる神

に近づくことは、父なる神にもまた近づくことであることが推論される。それが主が御父を示すようにと願ったピリポに「我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか、我の父に居り、父の我に居給うことを信ぜぬか。我は父に居り、父は我に居給うとの我が言を信ぜよ」(ヨハネ14・9−11)との答えを与え給うた理由である。しかし、この主題については、更に多くの事が神、主、聖霊及び神的三一性に関する章の中に見られるであろう。

 

 

 

真の基督教539

 

 自己点検の後人間の果たすべき二つの義務、即ち、祈願と告白がある。祈願は主が憐み深くましますように、また主なくしては人間性は何事も為し得ない故(ヨハネ15・5)、主が悔改めた諸々の悪に抵抗する力を与え且つ善を為す願望と意向とを与え給うように求める祈りである。告白は人が自らの諸々の悪を見、認識し、承認し、自らは悲惨な罪人であることを知ることである。主に向って己が諸々の罪を列挙し、或はそれらの罪が赦されることを祈願する必要はない。

彼は既に己が諸々の罪を探り出し、それらが自らの中にあるを知り、従ってそれらは主の前に赤裸々に示されている故、このような列挙は不必要である。更に、彼を導いて点検の業を為させ、彼にその諸々の罪を示し、そのために彼を悲しませ、同時にその罪から遠ざかり、新しい生活を始めようとの努力を彼の心に喚起し給うたものは主であった。二つの理由から諸々の罪が赦されるように主に祈願する必要は無い。先ず、諸々の罪は廃棄されず、除かれるからである。而して人間がその罪から遠ざかって、新しい生活に進むにつれて、その罪は除かれるからである。何故なら、各々の悪は無数の欲念から成り、その欲念は一瞬に除かれることは出来ず、ただ徐々に、人間が自らの改良と再生を許すにつれて、除かれ得るに過ぎないからである。第二に主は慈悲それ自身にて在し給う故、凡ゆる者の罪を赦し、何人にも一つの罪をも帰し給わない。何故なら、主は「彼らは為す所を知らず」と語り給うからである。にも拘らず、それらの罪はそれによって廃棄されないのである。ペテロが主に、彼は己が兄弟を幾度赦すべきかと尋ねた時、主は「われ七度までとは言わず、七度を七十倍するまでと言うなり」(マタイ18・21、22)と答え給うた。然すれば、主は何を赦し給わないであろうか。それでも、その良心に重荷を抱いている者が罪の赦免のためにまたその重荷が軽くせられんがために教会の教職に己が罪を列挙することは何ら害を与えない。何故なら、彼はこの手段によって自らを点検し、己が日々犯す罪を反省する習慣を得るからである。しかし、この告白は自然的であるに反し、上に記した告白は霊的である。

 

 

 

(540〜559は無い)

 

 

 

真の基督教560

 

 何人かを地上の神の代理として崇めることは、或は聖者に呼び求めることは、太陽、月、諸々の星に祈り、或は占い師の空しい応答を求めてこれを信ずると同様に、天界では何らの効果も無い。それは、神殿を崇めて、そこに住み給う神を崇めないようなものであり、或は王自らに語りかけないで偶々笏と王冠とを携えている王の従僕に願いごとをするようなものである。それは、王の紫衣を王自身として誤認し、或は太陽の輝ける光と黄金色の光線とを或はその名前をさえも太陽それ自身として誤認すると同様に不合理である。このような事を為す人々には、「我らは真理の中に、イエス・キリストに居るなり、彼は真の神にして永遠の生命なり、若子よ、自ら守りて偶像より遠ざかれ」(第一書5・20、21)とのヨハネの言がある。

 

 

 

 

[]]実際の悔改めは、最初は極めて困難であるが、実行とともに容易となる。」

 

真の基督教561

 

上述したように、実際的な悔改めは自らを点検し、己が諸々の罪を認め、主に告白をなし、新しく生活を始めることである。プロテスタント教徒には―それはロマ・カトリック教会から分離した者を凡て意味するが―またカトリック教徒にはこの悔改めは極めて困難な事である。これは或る者は自らを点検することを欲しないし、他の者はそのことを恐れるためである。この点検を怠り、それが継続すると、そのことが習慣となり、不本意を増大し、不本意は再三誤った推理により支持され、ついには、悔改めを思うだけで、悲哀、恐れ、あるいは恐怖が生ずるようになる。

改革派の人々は悔改めと仁慈とは救いには何ものをも貢献しないと信じている故、実際的な悔改めは彼らには極めて困難である。何故なら、彼らは信仰のみを信じ、その信仰の転嫁から人間の側の如何なる協力も無しに罪の赦し、義認、革新、再生、潔め、永遠の救いが生まれると信じているからである。このような協力は、彼らの教義学の執筆者達に従えば、基督の功績に対して有害であり、嫌忌すべきものであり、之を毀損するものであり、無益よりも更に悪いものである。而してこの信仰はその信仰の諸々の秘義を理解することの出来ない一般の人々に、「信仰のみが救いを齎す」「何人も自らによっては善を為すことが出来ない」という言葉を鸚鵡返しに繰り返させて教え込まれる。それ故、悔い改めは親鳥に置き去りにされて、鷹に捕えられ、殺されてしまう雛鳥の巣のようなものである。更に、改革派の各人はその霊の方面では霊界の自分に似ている者達と交わっており、これらの者達は彼の心へ自己内省と点検に対する嫌忌を注ぎ込むのである。

 

 

スヴェーデンボリ出版/鈴木泰之訳

 

 実際の悔い改めは、自分自身を調べ、自分の罪を知り、主の前に自分自身を告白し、このように新しい生活を始めることです。それらは先行するもののその記述に従っています。

これらは改革派のキリスト教界の中の者に実際の悔い改めは最高度に手に負えないものです。その者によってローマカトリック教会から分離したすべての者が意味され、そしてまた何らかの実際の悔い改めを行なわない者にあてはまります。

 その理由は、ある者は欲せず、ある者は恐れ、また実践不足に慣れてしまい、そして気が進まないことを引き起こし、最後には間違った推論からの同意があり、またある者のもとでそれに対する悲しみ・恐れ・恐怖があるからです。

 

 

アルカナ出版/長島達也訳

 

 実際の悔い改めとは、自分を点検し、自分の罪をみとめ、主のみ前にそれを告白し、新しい生活を始めることです。それは前述の各節でいろいろ記しました。この悔い改めは、キリスト教世界では、大へんむずかしいことです。ローマ・カトリック教会から分離したプロテスタントはみんなそうです。また実際の悔い改めを実践したことがない人たちもそうです。その理由は、悔い改めたくないか、恐れているかです。不慣れが人をおっくうにし、意志を麻痺させ、理性でそれを正当化し、悔い改めを考えただけで、ある人など、がっくりきたり、びくびくしたり、おびえたりします。

 

 

 

真の基督教562

 

 霊界で私は改革派の多くの者に向って、実際的な 悔改めは聖言と洗礼とに、また聖餐式の前に、義務として命ぜられているのに、何故、彼らはこれを一度も実行しないのかと尋ねると、彼らは私に種々の答を与えたのである。或る者は痛悔に、若し人は罪人であるとの口先のみの告白が伴っているならばそれで充分であると語った。或る者はこのような悔改めは、人間自身の意志の努力である故、正統主義の信仰とは相容れないものであると言った。或る者は言った。「人間は自分が罪以外の何物でもないことを知る時、どうして自分を点検することが出来ますか。これは、忌まわしい蛆蟲の涌いている泥沼に網を投ずるようなものでしょう。」他の者達は言った、「誰が自分の中に自分の実際的な悪の凡ての根源であるアダムの罪を発見することが出来ますか。これらは洗礼の水によって洗い去られ、基督の功績によって赦されているのです。それ故、悔改めは感じ易い良心を痛ましく責め苛む欺瞞以外の何でありましょうか。福音書によれば我々は恩寵の下に在り、悔改めの苛酷な律法の下に在るのではありません。」他の者達は、自らを点検しようとするときは、必ず恰も、妖怪に取り憑かれたかのように、不意に恐怖に襲われると語った。それ故、これらが実際の悔改めはかびの生えたものとして、改革派の人々によって棄てられている理由である。私はまた或るロマ・カトリック教徒に祭司達に告白することは彼らの嫌忌するところではないか否かと尋ねた。すると彼らは、それに慣れて了った後では自分達は、諸々の罪を同情のある聴聞僧に列挙することは恐ろしくなくなった、軽い性質の罪を告白することに一種の楽しみを感じるが、重大な罪を告白することは多少恐れている、彼らは一年に一度、この義務を進んで果し、赦免の後、再び心の愉しさを覚える、彼らは己が汚穢を暴露することを欲しない者を凡て、不純な者として考えていると、答えたのである。この言葉を聞くと、そこに立ち止まっていた改革派の人々は、或る者は無駄口を叩いて笑いながら、或る者は驚きつつも好ましい印象を受けて急ぎ立ち去ったのである。

 その後若干のカトリック教徒が来た、彼らはプロテスタントの国々に住み、他の国々の兄弟達のように私的な告白を為すことに慣れておらず、単に、その祭司の前に一般的な告白を為すに過ぎなかった。彼らは、自分を点検し、自分の実際的な諸々の悪と、秘やかな思いとを探り出して明るみに持ち出すことは全然出来ない、私達はそれは敵の兵士に警備された塁の前の溝を横切ると同様に、勇敢であるが、怖るべきことであると感じていると語った。それ故実際的な悔改めは最初は極めて困難であるが、実行とともに容易となることがこの凡てから明白である。

 

 

 

真の基督教563

 

 習慣は第二の天性である。それ故、一人の人に困難なことは他の人には容易である。それは、自己点検と、そのようにして発見される罪の告白とについても同様である。労働者や、人夫には、朝から夜までその手をもって働くことは容易であるが、弱く育てられた者は半時間もその仕事をすると疲労を覚えるのである。足軽には数里を走ることは容易であるが、馬に乗りつけた者には一つの街路から他の街路へ走ることさえ苦痛であろう。凡ゆる勤勉な職人はその仕事に快楽を覚え、喜んでそれに帰って行くが、怠惰な職人をその仕事へ駆り立てることは容易でない。凡ゆる人間の活動も同様である。神に祈ることは敬虔な人には容易であるが、不敬虔な者には極めて困難である。始めて王の前に説教する教職者は神経質になるが、それは後に消えて行く。天使的な人間には、その眼を天界に挙げること以上に容易なものはなく、悪魔的な人間にはその眼を地獄に向ける以上に容易なことはない。後者が偽善者であるならば、彼はまたその眼を天に挙げることも出来るが、その心は他の所に在るのである。性格を決定するものは心に認められる目的であり、そこから生ずる習慣である。

 

 

 

真の基督教564

 

 改革派の者であって、悔改めを為す者は僅かである。而して、決して自らを点検したことの無い者には、遂には堕地獄の悪も救う善も認めることは出来なくなる。何故なら、彼は自らにそれを認めさせる宗教を持たないからである。人間が見ない、認識しない、或は承認しない悪は、彼と共に止まり、その後益々根強くなり、遂には彼の内的な心を閉塞し、妨害し、かくて彼は先ず自然的に、次に感覚的に、最後に形体的になってしまう。彼はその時堕地獄の悪も、救う善も全然意識せず、固い岩の割れ目に根を張り、遂には湿気の不足から枯れてしまう木のようなものになる。良く育てられた者は凡て合理的であり、道徳的であるが合理性に至る道は二つあり、一は世俗的であり、他は霊的である。世的な人間は皮相的に合理的であり、道徳的であるが、内的には地獄に住む残酷な人々と一致して行動する故、凶悪である。しかし霊的な人間は完全に誠実である故、真に合理的であり、道徳的である。何故なら彼の言葉と行為とは、謂わば自然的な、感覚的、物質的なものを動かす霊的な霊魂を持つからである。このような人間はまた天界に住む人々と一致して行動する。

 それ故、霊的に合理的であり、道徳的である人と、また自然的に合理的であり、道徳的である人とが在る。この世では、特に後者が徹底した偽善者であるならば、両者を区別することが出来ない。しかし、両者は天界の天使たちには鳩と梟のように、羊と虎のように相違している。単に、自然的な人間は他の人間の中に悪と善とを見ることが出来、また彼らはその欠点の故に咎め立てすることが出来るが、自分の心を一度も点検したことが無いために、自分の中には何らの悪をも見ない。そして、もし、何人かが彼の欠点を指摘するならば、彼は巧みにそれを、丁度蛇がその頭を塵の中に隠し、あるいは大黄蜂が自らを糞の中に埋める様に言いつくろってしまう。彼は沼地が霧に包まれて、光線を吸収し弱めているように自らを包み込んでいる悪の歓喜によってこれに駆り立てられる。悪の歓喜は地獄の歓喜である。それは地獄から吐き出され、足の裏に、背中に、頭の後部に流れ入る。もし、それが頭の前部に胸に流れ入るならば、その人間は地獄の奴隷となるであろう。何故なら、大脳は理解と知恵の宿る所であり、小脳は意志と愛との宿る所であるから。これが二つの脳のある理由である。この地獄的な歓喜は霊的に合理的な、道徳的なものによってのみ矯正され、変えられることが出来る。

 

 

 

真の基督教565

 

 実際的には感覚的な人間であって、改良されない限りは、物質的に或は肉欲的になる所の単に自然的な、合理的な、道徳的な人間に過ぎない者を簡単に叙述しよう。この叙述は単に輪郭を写すに過ぎない。感覚的なものは心の最低の層であり、身体の五つの感覚に密着している。凡ゆる物を身体の感覚によって判断し、その眺め、触れ得るもののみを信じそのような物を真実なものとして認め、他の凡てを斥ける者は感覚的な人間と呼ばれる。天界の光の中に在る彼の内的な心は、閉塞され、かくて彼は天界と教会とに関わる凡ゆる真理に対して盲目となる。彼は単に粗悪な自然的な光の中に在るに過ぎない為に、その思考は全く外的であり、霊的な光を欠いている。これが若し、彼が権力或は富を得る機会をえるならば、天界と教会を弁護して語り、しかも熱心に語ってみせるけれど、内的には天界と教会とに反抗している理由である。虚偽の中に己が心を沈めてしまった学問のある博識の人々は、特にその人々が、聖言の諸真理を否定するならば、他の者以上に感覚的となる。感覚的な人間は、その思考は浅薄であり、その理知は記憶に全く依存しているため、鋭く且つ巧妙に論ずるのである。彼らはまた誤った議論に巧みであり、己が誤った結論を信ずる傾向があるが、而もその議論と証明とは無学な者を欺き、罠にかけるところの感覚の迷妄の上に基礎づけられている。感覚的な人間は他の者以上に狡猾であり、邪悪である。貪欲な者、姦淫を為す者、詐欺を行う者は、世には理知的な者であるように見えるけれども、特に感覚的である。彼らの内的な心は地獄と連なっている結果、醜悪であり、汚穢に満ち、聖言に「死せる者」と呼ばれている。

  悪魔は感覚的であり、地獄に深く在ればある程感覚的である。地獄の霊のスフィアは背後から人間の感覚的なものと連結し、天界の光の中では彼らの頭部の後部は空ろに見える。単に感覚によってのみ論じた者らを、古代の人々は知識の木の蛇と呼んだ。感覚的なものは最後の位置に置かれて、第一位に置かれてはならない。凡て賢明な、理知的な人間には、そのように感覚的なものは内的なものに服従しているが、愚鈍な人間には第一に置かれて他を支配している。感覚的なものが最低の位置に在る時、そこを通って理解への通路が開かれ抽象の過程によって真理に到達出来る。感覚は世に最も近接し、世から諸々の印象を受け、これを謂わば篩(ふるい)にかける。人間はその諸感覚によって世と連なり、その理性によって天界と連なっている。感覚は内的な心がその上に働きかける材料を提供し、その材料の或る物は理解により、或る物は意志により用いられる。もし思考が感覚の上に挙げられないならば、その人間は僅かな智慧しか持たないが、もし、彼の思考が感覚の上に挙げられるならば、彼は更に澄明な光へ入り、遂には天界の光に入り、かくて天界の事物を認識するのである。自然的な知識は理解の末端であり、感覚的な快楽は意志の末端である。

 

 

 

真の基督教566

 

 自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。

 

 

 

真の基督教567

 

P259

 

(1)かつて私は殆ど致命的な病に襲われた。私の頭はソドム、エジプトと呼ばれる都(黙示録11・8)から発する有害な煙によって起きる苦痛にさいなまれた、私は残酷な痛みのために死に瀕し、終りが来たと思った。このようにして私は三日半の間寝床に臥していた。悩まされたのは私の霊であり、これが私の身体に反応したのである。その時、私は私の周囲に、「見よ! 罪の赦しのための悔改めを説き、人間基督のみを仰ぐように我々に勧めた者が町の通りに死んで横たわっている」と語る幾多の声を聞いた。而して教職者連はこのような人間は埋葬に適わしいか否かと聞かれて、「彼をそこに臥させて、曝しものにせよ」と答え、彼方此方と嘲笑しつつ歩きまわっていた。っこれは、実際私が黙示録の第十一章の説明を書いていた際に、私に起ったのである。その時私は嘲笑する輩が以下のように語るのを聞いた。「信仰無くして如何にして悔改めが出来ようか。人間なら基督が如何にして神として崇められ得ようか。我々は我々自身の如何なる功績も無しに、無代価の恩寵によって、救われた以上、我々は単に以下の信仰のみを必要とするに過ぎない。即ち、父なる神の御子を遣し給うたのは、律法による断罪を取り去り、御子の功績を我々に転嫁し、我々をその眼前に義とし、祭司の代理によって我々を我々の罪から赦免し、かくて聖霊を遣して我々の中に凡ゆる善を働かすためである。これらの事は聖書とまた理性とに一致している」すると傍らに立っていた群衆は拍手喝采した。

 

P260

私は答える力も無く、この凡てを聞き、殆ど死なんばかりであった。しかし、三日半の後回復し、霊の中に、都の街路に出て再び語った。「悔改めて、基督を信ぜられよ。然すれば諸君の罪は赦され、諸君は救われるであろう。そうでなければ諸君は滅ぶであろう。主御自身は罪の赦されんために、また人が彼を信ずるために悔改めを宣べ伝え給うたのである。彼はその弟子たちにそのことを宣べ伝えることを命じ給うたのである。諸君の教義は生命に関する極度の無関心を生まないか」しかし彼らは語った「何と無意味なことを君は言うのだ。御子は償いを為し、御父はそれを我々に転嫁し、我々をこの信仰の故に義と為し給うたのである。我々は恩寵のみで御霊によって導かれ、罪或は死と何の関係をも持たない。罪と悔改めとの宣教者よ、君はこの福音を理解し得ないのか。」

 しかしその時天界から一つの声が聞こえた、曰く「悔改めない人間の信仰は死んだ信仰である。真に終りは汝ら悪鬼の上に、自らかくも安んじ、自らを罪なきものとし、自らの信仰により義とされている汝らに来った」と急に、その町の真中に大いなる深淵が開かれ、家々は倒れ、呑み込まれ、間もなく水が奈落から湧き上がり、その荒野に氾濫した。

彼らがかく呑み込まれ、水に浸された時、私は彼らの奈落に於ける運命を知ろうと願った。と、天界からの声が「貴方に見せ、また聞かせよう」と語った。と、彼らを蔽っていた水は消え去った。何故なら、霊界の水は相応であり、虚偽の中に在る者共を呑み尽くす様に見えるからである。その時私はその悪鬼共が砂地の水底に在るのを見た。そこには大きな石塊が幾つもあり、その間を彼らは走り回り、その偉大な都から投げ出されたのを嘆き悲しみ続けていた。而して彼らは「何が故に、この事が我々に生じたのか。我々は我々の信仰の功徳によって、純潔であり、清浄であり、公正であり、また聖なる者ではないのか」と怒号し、叫び続けていた。他の者共は叫んだ。「我々は我々の信仰によって、父なる神とその御使い達との眼前に純潔に、清浄に、公正にされ、聖くされたのではないか。我々は和解し、宥和し、償われ、かくして我々の罪は赦さ、浄められたのではないか。而して律法による断罪は基督によって取り去られたのではないか。それならば何故に我々は失われた霊魂共のように、ここに投げ下ろされたのであろうか。我々は我々の都に「基督を信じ、悔改めよ」と大胆な説教家が罪を糾弾して、叫ぶのを聞いた。しかし、我々は基督の功績を信じている以上、基督を信じ、自らを罪人として告白している以上、悔改めの業を為したのである。然すれば何故、この事が我々に起ったのか。」

 

 

 

真の基督教567

P261

しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」

 

 

 

真の基督教567

P262

 その後その偉大な都(黙示録11・13)の外側の地に住んでいる若干の者達の許へ天界から一つの声が聞こえ、高らかに語った「これらの者共と交わることを警戒せよ。諸君は罪、不法と呼ばれる悪は、人間を不純にまた不潔に為すことを知っておられる。扨(さて)、人間は実際の悔改めと、主イエス・キリストに対する信仰とによってのみそれらの悪から清められ、潔くされることが出来るのである。実際の悔改めとは自らを点検し、罪を認め、承認し、自らを罪有る者として自認し、これを主の前に告白し、これに抵抗する助けと力とを懇願し、罪から遠ざかり、新しい生活を送り、その凡てを自分自身によって為すかのように為すことである。このことを年に一回あるいは二回、諸君が聖餐に与る時為されよ、而してその後諸君自身に罪を犯させた欲望が再び生じた時、その時諸君自身に向って「我々はそれは神に対する罪である故、それに屈従しない」と語り給え、これが実際の悔い改めである。人は自分の罪を探り出してこれを認めない限り、その罪の中に止まるのである。何故なら、悪は凡て生来彼に快いものであるからである。復讐し、姦淫を行い、欺き、瀆(けが)し言を言い、特に自己への愛から他の者達を威圧することは、彼に快いことである。この快さがそれが罪であるとの事実に諸君を盲目にさせ、而して諸君はそれが罪であると告げられるにしても、諸君にその弁解をさせるのである。諸君はそれは罪ではないことを誤った論議によって示そうと努力し、かくしてそれらの罪の中に止まり、以前に勝ってこれに耽溺し、遂に罪とは何であるか、そのようなものがあるか否かを最早知らぬ者となる。しかし、実際に悔改める人間は異なっている。彼は自らの悪を認め、承認し、それを罪と呼び、これを避け始め、遂にはその快楽を凡て失い、かくて善を見、これを愛し、遂にその中に天界の天使たちの感ずると同じ喜びを感ずるのである。約言すれば、人は己が背後に悪魔を放逐する時、主によって子として受け入れられ、かくて主によって教えられ、導かれ、悪から遠ざけられ、善の中に保たれるのである。これが天界に通ずる唯一の道である。」

 

 

 

真の基督教567

P263

改革派の人々は実際の悔改めには根強い反感を持っている。それ故、彼らはその罪を点検し、これを神に告白するように自分自身を強制することが出来ないことは注目すべき事実である。彼らは単にこのような事柄を思うのみで恐怖に襲われる。私は霊界でこの事について彼らの多くの者に尋ねたが、彼らの凡てはそれは彼らの力では出来ないものであることを認めた。而して彼らはロマ・カトリック教徒はそれを実行している、すなわち、彼らは自らを点検し、自らの諸々の罪を祭司に告白していると教えられると、非常に驚き、さらに改革派の者は己が罪を秘かに神の前に告白することが聖餐の準備として彼らに等しく課せられているけれども、それを為すことが出来ないことを認めたのである。彼らの或る者はその理由を調べ、このような悔改めのない心の状態を生んだものは信仰のみの教義であることを知り、かくてキリストを崇拝して、聖徒達に祈願を捧げないロマ・カトリック教徒は救われることを納得したのである。

 

 この後、雷が轟き、天界からこの声があった。「我々は驚いている、改革派の集会に、基督を信じ、悔改めよ、然すれば諸君は救われるであろうと告げられよ」私は告げ、さらに付け加えた、「洗礼は悔改めの礼典であり、かくして人を教会へ導き入れることであります。何故なら、名付け親たちは悪魔とその業とを斥けることを約束するからです。聖餐もまた悔改めの礼典であり、人を天界へ導き入れるものです。何故なら陪餐者はそれに与る前に悔改めるように警告されているからです。基督教会の普遍的な教義である十誡は、悔改めを教えています。何故なら、第二の板石の第六の誡命の中に、「汝はこれこれの悪を為すべからず」と、言われておりますが「汝はこれこれの善を為すべし」とは言われていないからです。これによって諸君は人は悪を棄て去り、これを避ける限り、善を欲し、善を愛し、それ以前には善についても悪についても何事も知っていないことを知られるに違いありません。」

 

 

P267

しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」